血と束縛と

北川とも

文字の大きさ
110 / 1,289
第7話

(1)

しおりを挟む



 和彦が小さく呻いたとき、優しく頬を撫でられた。次に髪を梳かれて、思わずほっと吐息を洩らす。ただ、ひどく頭が重く、深い沼の底で漂っているようで、意識がはっきりしない。
 もしかして自分は、本当に深い沼に沈められているのだろうかと、現実的でない不安感に襲われ、和彦はハッと目を開く。まっさきに視界に飛び込んできたのは、もちろん暗く澱んだ世界ではなく、木目の美しい天井だった。
「――大丈夫か、先生」
 ふいに傍らから、柔らかなバリトンで話しかけられる。そして、顔を覗き込まれた。
 賢吾の真剣な顔を間近に見て、和彦はドキリとする。まばたきもせず見上げていると、賢吾が眉をひそめ、やや強めに頬を撫でてきた。驚いてまばたきをすると、ヤクザの組長という物騒な肩書きを持つ男は、安堵したように表情を和らげた。
 珍しいものを見たと、ぼんやりと和彦は思った。意識はまだ完全に覚醒したわけではなく、強烈な眠気は健在だ。
 瞼を閉じそうになりながらも、なんとか現状を把握しようとする。
「ここ……」
「本宅だ。三田村が連絡を寄越してきたから、俺が運び込ませた。酒を飲んでひっくり返ったと聞いたときは、驚いたぞ」
 誰かに頭を掴まれて、ずっと揺さぶられているようだ。眠気と気持ちの悪さに、たまらず和彦はきつく目を閉じる。
「……ひっくり返ったって、誰が……」
「記憶が混乱してるのか? 秦という男の店で、気付けの酒を飲ませてもらったんだろ。急性のアルコール中毒なら、すぐに救急車を呼べと怒鳴るところだが、三田村の説明だと、ただ眠っているということだったからな」
 賢吾の大きな手に頬を包み込まれたとき、和彦は心地よさ以上に、ゾクリとするように肉欲の疼きを感じた。おかげで、曖昧な意識の中から、ある記憶だけが浮上する。
 再び目を開いた和彦は、優しい手つきとは裏腹に、賢吾がおそろしく怜悧な表情をしていることを知った。
「――怖かったか?」
 突然の問いかけに、咄嗟に和彦は返事ができない。かまわず賢吾は言葉を続けた。
「何があったか、だいたいは三田村から聞いた。……先生に絡んできた男は、鷹津たかつという刑事だ。この間は先生に、知る価値もないと話したが、あの男にしてみれば、涎が出るほど知る価値があっただろうな。先生のことは。なんといっても、俺の弱みになるかもしれない、可愛い〈オンナ〉だ」
 和彦はゆっくりとまばたきを繰り返し、なんとか賢吾の話を頭に留めようとする。いろいろと考えようとするのだが、思考はどこまでも散漫だ。
「……蛇蝎の、サソリ……」
「ああ、そうだ。あれは、悪党ってやつだ。暴力団担当の刑事だったくせに、その立場を利用して悪辣なことをヤクザ相手にやらかして、それこそ蛇蝎みたいに嫌われていた。そこで、ある組が鷹津をハメたんだ。かなり大問題になってな、警察の監査室まで引っ張り出して、県警の本部長のクビが飛ぶかという話までいった」
 淡々と話す賢吾のバリトンの響きが耳に心地いい。ふっと意識が遠のきかけたが、もう少しつき合えと囁かれ、髪を手荒く撫でられる。和彦はわずかに身じろぎ、このときになってやっと、自分が浴衣に着替えさせられていることを知った。
「結果として、組はこれまでのことに目をつむり、警察も事態を内々に処理して穏便に済ませた。もっとも、鷹津はそうもいかない。警察側の事情もあって免職にできない代わりに、自己都合での退職を迫ったが、それを蹴ったんだ。交番勤務としてどこかに飛ばされた――と聞いていたが、最近になって暴力団担当係に戻ったそうだ」
 鷹津という刑事をハメた組とは、きっと長嶺組のことなのだろう。誰が中心になって進めたのか、考えなくてもわかる気がする。
「あんな毒にしかならないような男が現場に戻るぐらいだ。警察が本腰を入れるような事件の捜査をしている……と、考えると、一つ心当たりがある」
 賢吾の中に住む大蛇が、ゆっくりと鎌首をもたげていく光景が脳裏をちらつく。
「ここのところ、うちのシマどころか、総和会のいくつかの組も、シマを〈汚されて〉いる。三田村がここのところ忙しいのは、その件をあたっているからだ。鷹津が呼び戻されたのも、それが関係あるかもな」
「それがなんで……、千尋やぼくを脅すことになるんだ」
「少しは頭が冴えてきたか、先生?」
 ニヤリと笑いかけられて、和彦はまたぐったりと目を閉じる。すると、指先で唇を擦られ、わずかに口腔に含まされた。その感触で、秦にキスされたことを思い出した。
 体を駆け抜けたのは、絶対にこのことを賢吾に知られてはいけないという、純粋な恐怖だ。秦の行動をあれこれ推測するには、今は体の状態が最悪すぎた。

しおりを挟む
感想 92

あなたにおすすめの小説

執着

紅林
BL
聖緋帝国の華族、瀬川凛は引っ込み思案で特に目立つこともない平凡な伯爵家の三男坊。だが、彼の婚約者は違った。帝室の血を引く高貴な公爵家の生まれであり帝国陸軍の将校として目覚しい活躍をしている男だった。

何故か正妻になった男の僕。

selen
BL
『側妻になった男の僕。』の続きです(⌒▽⌒) blさいこう✩.*˚主従らぶさいこう✩.*˚✩.*˚

奇跡に祝福を

善奈美
BL
 家族に爪弾きにされていた僕。高等部三学年に進級してすぐ、四神の一つ、西條家の後継者である彼が記憶喪失になった。運命であると僕は知っていたけど、ずっと避けていた。でも、記憶がなくなったことで僕は彼と過ごすことになった。でも、記憶が戻ったら終わり、そんな関係だった。 ※不定期更新になります。

秘花~王太子の秘密と宿命の皇女~

めぐみ
BL
☆俺はお前を何度も抱き、俺なしではいられぬ淫らな身体にする。宿命という名の数奇な運命に翻弄される王子達☆ ―俺はそなたを玩具だと思ったことはなかった。ただ、そなたの身体は俺のものだ。俺はそなたを何度でも抱き、俺なしではいられないような淫らな身体にする。抱き潰すくらいに抱けば、そなたもあの宦官のことなど思い出しもしなくなる。― モンゴル大帝国の皇帝を祖父に持ちモンゴル帝国直系の皇女を生母として生まれた彼は、生まれながらの高麗の王太子だった。 だが、そんな王太子の運命を激変させる出来事が起こった。 そう、あの「秘密」が表に出るまでは。

かわいい美形の後輩が、俺にだけメロい

日向汐
BL
過保護なかわいい系美形の後輩。 たまに見せる甘い言動が受けの心を揺する♡ そんなお話。 【攻め】 雨宮千冬(あめみや・ちふゆ) 大学1年。法学部。 淡いピンク髪、甘い顔立ちの砂糖系イケメン。 甘く切ないラブソングが人気の、歌い手「フユ」として匿名活動中。 【受け】 睦月伊織(むつき・いおり) 大学2年。工学部。 黒髪黒目の平凡大学生。ぶっきらぼうな口調と態度で、ちょっとずぼら。恋愛は初心。

オム・ファタールと無いものねだり

狗空堂
BL
この世の全てが手に入る者たちが、永遠に手に入れられないたった一つのものの話。 前野の血を引く人間は、人を良くも悪くもぐちゃぐちゃにする。その血の呪いのせいで、後田宗介の主人兼親友である前野篤志はトラブルに巻き込まれてばかり。 この度編入した金持ち全寮制の男子校では、学園を牽引する眉目秀麗で優秀な生徒ばかり惹きつけて学内風紀を乱す日々。どうやら篤志の一挙手一投足は『大衆に求められすぎる』天才たちの心に刺さって抜けないらしい。 天才たちは蟻の如く篤志に群がるし、それを快く思わない天才たちのファンからはやっかみを買うし、でも主人は毎日能天気だし。 そんな主人を全てのものから護る為、今日も宗介は全方向に噛み付きながら学生生活を奔走する。 これは、天才の影に隠れたとるに足らない凡人が、凡人なりに走り続けて少しずつ認められ愛されていく話。 2025.10.30 第13回BL大賞に参加しています。応援していただけると嬉しいです。 ※王道学園の脇役受け。 ※主人公は従者の方です。 ※序盤は主人の方が大勢に好かれています。 ※嫌われ(?)→愛されですが、全員が従者を愛すわけではありません。 ※呪いとかが平然と存在しているので若干ファンタジーです。 ※pixivでも掲載しています。 色々と初めてなので、至らぬ点がありましたらご指摘いただけますと幸いです。 いいねやコメントは頂けましたら嬉しくて踊ります。

帝は傾国の元帥を寵愛する

tii
BL
セレスティア帝国、帝国歴二九九年――建国三百年を翌年に控えた帝都は、祝祭と喧騒に包まれていた。 舞踏会と武道会、華やかな催しの主役として並び立つのは、冷徹なる公子ユリウスと、“傾国の美貌”と謳われる名誉元帥ヴァルター。 誰もが息を呑むその姿は、帝国の象徴そのものであった。 だが祝祭の熱狂の陰で、ユリウスには避けられぬ宿命――帝位と婚姻の話が迫っていた。 それは、五年前に己の采配で抜擢したヴァルターとの関係に、確実に影を落とすものでもある。 互いを見つめ合う二人の間には、忠誠と愛執が絡み合う。 誰よりも近く、しかし決して交わってはならぬ距離。 やがて帝国を揺るがす大きな波が訪れるとき、二人は“帝と元帥”としての立場を選ぶのか、それとも――。 華やかな祝祭に幕を下ろし、始まるのは試練の物語。 冷徹な帝と傾国の元帥、互いにすべてを欲する二人の運命は、帝国三百年の節目に大きく揺れ動いてゆく。 【第13回BL大賞にエントリー中】 投票いただけると嬉しいです((꜆꜄ ˙꒳˙)꜆꜄꜆ポチポチポチポチ

側妻になった男の僕。

selen
BL
国王と平民による禁断の主従らぶ。。を書くつもりです(⌒▽⌒)よかったらみてね☆☆

処理中です...