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第7話
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しおりを挟む和彦が小さく呻いたとき、優しく頬を撫でられた。次に髪を梳かれて、思わずほっと吐息を洩らす。ただ、ひどく頭が重く、深い沼の底で漂っているようで、意識がはっきりしない。
もしかして自分は、本当に深い沼に沈められているのだろうかと、現実的でない不安感に襲われ、和彦はハッと目を開く。まっさきに視界に飛び込んできたのは、もちろん暗く澱んだ世界ではなく、木目の美しい天井だった。
「――大丈夫か、先生」
ふいに傍らから、柔らかなバリトンで話しかけられる。そして、顔を覗き込まれた。
賢吾の真剣な顔を間近に見て、和彦はドキリとする。まばたきもせず見上げていると、賢吾が眉をひそめ、やや強めに頬を撫でてきた。驚いてまばたきをすると、ヤクザの組長という物騒な肩書きを持つ男は、安堵したように表情を和らげた。
珍しいものを見たと、ぼんやりと和彦は思った。意識はまだ完全に覚醒したわけではなく、強烈な眠気は健在だ。
瞼を閉じそうになりながらも、なんとか現状を把握しようとする。
「ここ……」
「本宅だ。三田村が連絡を寄越してきたから、俺が運び込ませた。酒を飲んでひっくり返ったと聞いたときは、驚いたぞ」
誰かに頭を掴まれて、ずっと揺さぶられているようだ。眠気と気持ちの悪さに、たまらず和彦はきつく目を閉じる。
「……ひっくり返ったって、誰が……」
「記憶が混乱してるのか? 秦という男の店で、気付けの酒を飲ませてもらったんだろ。急性のアルコール中毒なら、すぐに救急車を呼べと怒鳴るところだが、三田村の説明だと、ただ眠っているということだったからな」
賢吾の大きな手に頬を包み込まれたとき、和彦は心地よさ以上に、ゾクリとするように肉欲の疼きを感じた。おかげで、曖昧な意識の中から、ある記憶だけが浮上する。
再び目を開いた和彦は、優しい手つきとは裏腹に、賢吾がおそろしく怜悧な表情をしていることを知った。
「――怖かったか?」
突然の問いかけに、咄嗟に和彦は返事ができない。かまわず賢吾は言葉を続けた。
「何があったか、だいたいは三田村から聞いた。……先生に絡んできた男は、鷹津という刑事だ。この間は先生に、知る価値もないと話したが、あの男にしてみれば、涎が出るほど知る価値があっただろうな。先生のことは。なんといっても、俺の弱みになるかもしれない、可愛い〈オンナ〉だ」
和彦はゆっくりとまばたきを繰り返し、なんとか賢吾の話を頭に留めようとする。いろいろと考えようとするのだが、思考はどこまでも散漫だ。
「……蛇蝎の、サソリ……」
「ああ、そうだ。あれは、悪党ってやつだ。暴力団担当の刑事だったくせに、その立場を利用して悪辣なことをヤクザ相手にやらかして、それこそ蛇蝎みたいに嫌われていた。そこで、ある組が鷹津をハメたんだ。かなり大問題になってな、警察の監査室まで引っ張り出して、県警の本部長のクビが飛ぶかという話までいった」
淡々と話す賢吾のバリトンの響きが耳に心地いい。ふっと意識が遠のきかけたが、もう少しつき合えと囁かれ、髪を手荒く撫でられる。和彦はわずかに身じろぎ、このときになってやっと、自分が浴衣に着替えさせられていることを知った。
「結果として、組はこれまでのことに目をつむり、警察も事態を内々に処理して穏便に済ませた。もっとも、鷹津はそうもいかない。警察側の事情もあって免職にできない代わりに、自己都合での退職を迫ったが、それを蹴ったんだ。交番勤務としてどこかに飛ばされた――と聞いていたが、最近になって暴力団担当係に戻ったそうだ」
鷹津という刑事をハメた組とは、きっと長嶺組のことなのだろう。誰が中心になって進めたのか、考えなくてもわかる気がする。
「あんな毒にしかならないような男が現場に戻るぐらいだ。警察が本腰を入れるような事件の捜査をしている……と、考えると、一つ心当たりがある」
賢吾の中に住む大蛇が、ゆっくりと鎌首をもたげていく光景が脳裏をちらつく。
「ここのところ、うちのシマどころか、総和会のいくつかの組も、シマを〈汚されて〉いる。三田村がここのところ忙しいのは、その件をあたっているからだ。鷹津が呼び戻されたのも、それが関係あるかもな」
「それがなんで……、千尋やぼくを脅すことになるんだ」
「少しは頭が冴えてきたか、先生?」
ニヤリと笑いかけられて、和彦はまたぐったりと目を閉じる。すると、指先で唇を擦られ、わずかに口腔に含まされた。その感触で、秦にキスされたことを思い出した。
体を駆け抜けたのは、絶対にこのことを賢吾に知られてはいけないという、純粋な恐怖だ。秦の行動をあれこれ推測するには、今は体の状態が最悪すぎた。
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