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第8話
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しおりを挟む夜、中嶋の部屋に向かう手順は前回と同じだ。二度目とはいえ、さすがにマンションの前からタクシーに乗り込むまでは、緊張のあまり指先が冷たくなって痺れていた。
しかも、いざ中嶋の部屋の前まできても、違う緊張感が和彦を襲う。
秦がまた、何か仕掛けてくるのではないか――。
それを予期していながら、こうして部屋を訪れるのは、まるで自分が何かを期待しているようで、嫌でたまらなかった。だが、中嶋と約束したため、いまさら引き返すわけにもいかない。
これが、和彦の甘さだろう。ヤクザにいいように利用されるとわかっていても、持って生まれた甘さは容易に捨てられないのだ。
合鍵を使ってドアを開けると、玄関に電気はついていたが、廊下やダイニングは暗かった。どうやら秦は眠っているようだと見当をつけ、和彦は気配を殺して靴を脱ぐ。
秦が使っている部屋を覗くと、こちらも電気は消えていたが、テレビはついていた。ただ、ベッドに秦の姿はない。
「先生――」
突然、背後から声をかけられて、和彦は飛び上がりそうなほど驚く。慌てて振り返ると、やや前屈み気味の姿勢で秦が立っていた。
「何、してるんだ……」
硬い声で和彦が問いかけると、秦は苦笑めいた表情を見せ、あごに手をやった。顔を殴られた跡はいくらかマシになったようだが、やはり端麗な顔立ちには不似合いだ。
「洗面所でヒゲを剃っていたんですよ。中嶋の奴に、ひどい顔だと言われたんで。……ちょうどよかった。先生にみっともない姿を見られなくて済みましたね」
「……殴られてズタボロになった姿を見ているんだ。いまさら何を見たって平気だ」
ベッドに戻るよう促すと、秦は素直に従う。ぎこちない動きでベッドに腰掛けた秦に対して、和彦は余計なことを言わず、無造作にパジャマの上着を脱がす。
一旦、コルセットを外して診察する。もっとも、診察とはいっても、折れた肋骨は安静にしていればひどいことにはならず、体中の打撲も、痛む部分は湿布を貼るしかない。日を置いて新たな症状が出ていないか、それが心配だったが、大丈夫そうだ。
右手の傷も診てみたが、和彦が何かする必要もなく、ガーゼは取り替えられ、包帯もきれいに巻かれていた。秦の体に貼られた湿布を見ても思ったが、中嶋は和彦の言いつけ以上に甲斐甲斐しく、秦の世話をしているようだ。
秦は自分の切り札になるかもしれないと言いながら、普通の青年の顔をして野心をたっぷり抱えたヤクザは、本当はどんな気持ちで、この性質の悪い男の面倒を看ているのか。中嶋の気持ちを想像して、和彦の胸は不穏にざわつく。
愛欲に満ちた和彦自身の今の環境のせいもあるし、何より、秦という男の存在が鮮やかで艶かしく、謎に満ちているせいだ。
自分のような存在と、秦のような存在は、本来は近づくべきではないのだと、なぜかこの瞬間、甘さを伴った危機感が芽生えた。
「先生?」
秦に呼ばれ、我に返る。何もなかったふりをして和彦は、コルセットと上着を押し付けた。
「もう、ぼくが診る必要はないだろ。我慢できるなら出歩いてもかまわないが、無茶はするな。体中の派手な痣が消えたら、一度きちんとした病院で、レントゲンを撮ってもらうことだな」
「その口ぶりだと、先生はもう診てくれないんですか?」
秦は、コルセットを傍らに置き、慎重な動きで上着を羽織る。
「ぼくは、美容外科が専門だ。それに本来、あんたを診る義理もないしな。……中嶋くんの頼みで来ただけだ」
「あいつは、先生を信頼しているうえに、それなりに扱い方も心得たようですからね」
「彼にまで、甘いと言われたよ」
秦は小さく噴き出したが、それが胸に響いたらしく、次の瞬間には呻き声を洩らす。ささやかだが、和彦の溜飲を下げる。
念のため、治療に必要そうなものは最低限持ってきたのだが、一切使わなくて済んだ。和彦はバッグを手に立ち上がろうとする。
「帰るんですか?」
秦からかけられた言葉に、反射的に鋭い視線を向ける。
「用が済んだんだから、当たり前だ。こっちは自由に一人で動き回れる立場じゃないんだ。もし、得体の知れない男の元にいたなんて知られたら、どんな目に遭うかわからない」
「――でも、手荒なことはされないでしょう。蛇みたいに冷酷で怖いことで有名な長嶺組長が、強引な手段で手に入れた〈オンナ〉を大事に可愛がっていると、部外者のわたしの耳にも入っているぐらいです。手荒なことなんてとんでもない。先生相手だと、せいぜい淫らなお仕置きでしょうね」
挑発されているとわかっていながら和彦は、秦の頬を平手で殴った。考えてみれば、賢吾のオンナであることを指摘されて、感情的な反応を示したのはこれが初めてかもしれない。
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