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第10話
(11)
しおりを挟む書斎のイスに腰掛けた和彦は、手にシャープペンを持ったまま、目まぐるしく思考を働かせる。
糸が絡み合うように、和彦を取り巻く人間関係が複雑になっており、自分でも事態の把握がまったくできない。厄介なことを避けたくても、すでにもう、どこにどんな糸が張り巡らされているのかもわからないのだ。足掻けば足掻くだけ、搦め捕られてしまう。それでも考えずにはいられない。
和彦は自覚もなく、コピー用紙に無意味な円を描いていたが、ふと我に返り、頭を整理するため、秦や中嶋についてわかっていることを書き出していく。ついでに鷹津のことも。
賢吾の名も書くべきだろうかと、他人にとってはどうでもいいことを真剣に悩んでいると、デスクの上の子機が鳴った。電話に出た和彦は、すぐに表情を和らげる。
「どうしたんだ、こんな時間から。――千尋」
和彦の呼びかけに、顔を見ることができなくても、満面の笑みを浮かべていると容易に想像できる声が応じる。
『今、じいちゃんの家から、本宅に戻ってきたところなんだ。まずは、先生の声を聞こうと思って』
「それは光栄だな。ゆっくりできるのか?」
『一眠りしたら、また夕方から出かける。いろいろ仕込んでやるって、張りきるのはいいけどさ、元気すぎるんだよ、じいちゃん』
「お前が本気でやる気になって、嬉しいんだろ」
これだけ聞けば、家業の跡を継ぐために奮闘する若者との会話なのだが、肝心の家業が問題だ。和彦自身、千尋に励ましや労いの言葉をかけるのは正しいのだろうかと、考えなくもない。
「休みたいなら、あまり長電話すると悪いな」
『先生の甘い声を聞くだけで、元気になる自信あるけど』
「残念だな。ぼくはそんな声を出せない」
笑いながら和彦が言うと、電話の向こうから、千尋の大げさな声が上がる。あまりに他愛なくて、だからこそリラックスできる会話を交わしながら和彦は、飲み物を取りに書斎を出る。
『――……そういえば先生、オヤジからなんか聞いてる?』
冷蔵庫を覗き込み、オレンジジュースを取り出そうとしていると、突然、千尋が声を潜めて問いかけてきた。
「何をだ」
『今、うちに、秦って奴が来てるみたいなんだ。オヤジと何か話しているらしい。……俺、まだ直接、秦に会ったことないけど、先生に薬飲ませて……、いろいろしようとした奴だよね。そのあとも、先生に怪我の治療させたり』
オレンジジュースのボトルを乱暴にワークトップに置き、和彦は大きく息を吸い込む。一瞬、頭が混乱したため、落ち着く必要があった。まさか、ほんの一時間ほど前に鷹津から聞いた秦の名を、今度は千尋から聞くとは思わなかった。
『なんでそんな奴を、事務所じゃなくて、本宅に呼んだのかと思ったんだ。それで、先生は承知してるのかなって……』
「承知も何も、その家は、お前の父親が主だ。ぼくに口出しできる権利はない」
『そうだけどさ……。でも、なんかすげー、ムカつく』
「お前の食えない父親のことだ。しっかり何か企んでいるんだろ。――手荒なマネはしないが、只では済まさないといった感じだった」
賢吾が、秦について語っていた内容を思い返す。和彦に手を出したことを口実に、秦を利用する気満々といった様子だった。
一体秦の何に目をつけたのか、もちろん和彦にはわからない。だからこそ、わざわざ本宅で会っているということが、秦の存在の重要性を物語っているように感じる。単なるチンピラ相手なら、賢吾のような男は自分の時間を使ったりはしないはずだ。
一方で、利益になると考えれば、賢吾は誰であろうが利用する。〈オンナ〉という和彦の今の境遇は、賢吾の思惑に搦め捕られた結果だ。
和彦は大きく身震いする。自分の周囲で常に、いくつもの思惑が蠢いているのは感じていたが、それがリアルな感覚を伴い、肌を撫でていったような気がした。
その瞬間感じた不快さは、和彦の中からある記憶を呼び覚ます。鷹津に体をまさぐられ、胸元に精を散らされた、あの出来事だ。さきほどまで鷹津に会っていたため、生々しさは例えようもない。
あれもまた、賢吾の思惑が引き起こした事象の一つだ。
『先生?』
「……なんでもない。お前、疲れているんだろ。早く休め」
千尋には悪いが、半ば強引に電話を切った和彦は、オレンジジュースを注いだグラスと子機を、ダイニングのテーブルの上に置く。
まだ夕方にもなっていないというのに、ひどい疲労感があった。
総和会の人間との会食や、そこで思いがけない提案をされている最中に、今度は鷹津に呼び出され、秦の正体の一端を知らされた。部屋に帰ってきてからは、ほっとする間もなく千尋からの電話で、秦が賢吾と会っていることを聞かされた。
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