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第14話
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千尋の頬を軽く叩いてから、送り出す。見事なもので、甘ったれの子供のようだった雰囲気はその瞬間には払拭され、背筋を伸ばし、きびきびと歩く千尋の姿に、思わず和彦は目を細める。
しかし、せっかくの颯爽とした姿も長続きはしない。エレベーターホールに消える寸前、こちらに目配せしてきた千尋が、ニッと笑いかけてくる。まるで、悪ガキのような表情だ。
「――凄みのあるイイ男まで、あと一歩……二歩ってところだな、千尋」
笑いを堪えて和彦は呟くと、待合室に戻る。ここで、テーブルの上に置いたままの、ドーナツの箱に気づく。千尋もがんばって食べてはいたが、ドーナツはまだ半分もなくなってはいない。
買ってきてくれた千尋には申し訳ないが、護衛の組員たちに持って帰ってもらうしかないようだった。
今日もひどく冷え込み、厚手のカーディガンを羽織っている和彦は、ブルリと肩を震わせる。エアコンを利かせた書斎から出ると、特にそれを思い知らされる。
広い部屋に一人で生活しているため、和彦がいる場所以外は、どうしても空気がひんやりしてしまう。だからといって、常にどの部屋も暖めておこうとは思わない。誰かが来る予定もないのに、なんだか空しい行為のように思えるのだ。
和彦はキッチンカウンターにもたれかかり、湯が沸くのを待ちながら、薄暗いダイニングを眺める。今夜に限って、一人きりの静寂が耳に痛くて、気に障る。
まだ、精神的に完全に落ち着いたとは言いがたいらしい。こうしていると、一人の世界に溶け込んで、自分がなくなってしまいそうだ。
いや、そうなりたいと願ってしまうのか――。
子供の頃の悪い妄想癖がぶり返したようで、もう一度肩を震わせた和彦は、カーディガンの前を掻き合わせる。
気持ちを切り替えるため、何か楽しいことを考えようと思ったとき、まっさきに蘇ったのは、今日の昼間の、千尋とのやり取りだった。
砂糖味の甘い口づけの余韻に浸っている間に湯が沸き、ペーパーフィルターを取り出そうとする。そのとき突然、インターホンの音が鳴り響き、飛び上がりそうなほど驚いた。
連絡なしの夜の訪問者ともなると、必然的に人間は限られる。ただし、〈彼ら〉はインターホンを鳴らす必要もなく、勝手に部屋に上がってくることが可能だ。なんといっても、この部屋の鍵を持っているのだ。
インターホンに出た和彦は、予想通りの人物が画面に映っているのを見て、眉をひそめる。
「……こんな時間になんの用だ」
素っ気なく和彦が応対すると、画面を通して鷹津がニヤリと笑いかけてくる。ただし、その笑みにはいつもより、悪辣さと鋭さが足りない。鷹津は首をすくめ、大げさに身震いした。
『寒いんだ。早く中に入れろ』
何様だと追い返したいところだが、鷹津は和彦の〈番犬〉で、欲しいと言われれば〈餌〉を与えなければならない立場だ。インターホン越しにあしらうこともできるが、寒い中、こんな時間になんのためにやってきたのか、理由が気になる。
それに、すべての部屋に明かりをつけ、暖める理由もほしかった。
和彦はエントランスのロックを解除してやり、数分後、部屋の玄関に鷹津を迎え入れた。
「――雪が降ってるぞ」
開口一番の鷹津の言葉に、和彦は目を丸くする。まさかこの男に限って、天気の話から切り出すとは思っていなかった。
和彦の反応がおもしろかったのか、鷹津は唇を歪めるようにして笑った。
「その様子だと、知らなかったみたいだな」
「暗くなってからすぐにカーテンを引いたから、気づかなかった」
「けっこうな降りだ。辺りが白くなる程度には、積もっている」
鷹津を玄関に残し、和彦はさっさとリビングの窓のカーテンを開く。すでに外は暗いため、白く染まっているという景色をはっきりと見ることはできないが、バルコニーにも雪が積もっていた。
「寒いはずだ……」
和彦は小さく呟き、ガラスに反射して映る鷹津に視線を向ける。図々しい男らしく、当然のように部屋に上がり込んできたのだ。
「……それで、なんの用だ。雪が積もっていると、知らせに来たわけじゃないだろ」
「この何日か、寝込んでいたらしいな。秦が言っていたぞ」
反射的に振り返った和彦は、鷹津を睨みつけながら、口中では秦に対して毒づいた。
「秦とずいぶん、仲よくなったみたいだな」
「その言い方はやめろ。仕事上、やむをえず、あいつと連絡を取り合っているだけだ。今日も、いままで会っていたんだ。そのとき、お前のことを教えられた。――嫌な男だ。思わせぶりなことを言いながら、肝心なことは何一つ言いやしねーんだ」
「それで秦に煽られて、弱っているぼくを笑いに、のこのことやってきたというのか」
しかし、せっかくの颯爽とした姿も長続きはしない。エレベーターホールに消える寸前、こちらに目配せしてきた千尋が、ニッと笑いかけてくる。まるで、悪ガキのような表情だ。
「――凄みのあるイイ男まで、あと一歩……二歩ってところだな、千尋」
笑いを堪えて和彦は呟くと、待合室に戻る。ここで、テーブルの上に置いたままの、ドーナツの箱に気づく。千尋もがんばって食べてはいたが、ドーナツはまだ半分もなくなってはいない。
買ってきてくれた千尋には申し訳ないが、護衛の組員たちに持って帰ってもらうしかないようだった。
今日もひどく冷え込み、厚手のカーディガンを羽織っている和彦は、ブルリと肩を震わせる。エアコンを利かせた書斎から出ると、特にそれを思い知らされる。
広い部屋に一人で生活しているため、和彦がいる場所以外は、どうしても空気がひんやりしてしまう。だからといって、常にどの部屋も暖めておこうとは思わない。誰かが来る予定もないのに、なんだか空しい行為のように思えるのだ。
和彦はキッチンカウンターにもたれかかり、湯が沸くのを待ちながら、薄暗いダイニングを眺める。今夜に限って、一人きりの静寂が耳に痛くて、気に障る。
まだ、精神的に完全に落ち着いたとは言いがたいらしい。こうしていると、一人の世界に溶け込んで、自分がなくなってしまいそうだ。
いや、そうなりたいと願ってしまうのか――。
子供の頃の悪い妄想癖がぶり返したようで、もう一度肩を震わせた和彦は、カーディガンの前を掻き合わせる。
気持ちを切り替えるため、何か楽しいことを考えようと思ったとき、まっさきに蘇ったのは、今日の昼間の、千尋とのやり取りだった。
砂糖味の甘い口づけの余韻に浸っている間に湯が沸き、ペーパーフィルターを取り出そうとする。そのとき突然、インターホンの音が鳴り響き、飛び上がりそうなほど驚いた。
連絡なしの夜の訪問者ともなると、必然的に人間は限られる。ただし、〈彼ら〉はインターホンを鳴らす必要もなく、勝手に部屋に上がってくることが可能だ。なんといっても、この部屋の鍵を持っているのだ。
インターホンに出た和彦は、予想通りの人物が画面に映っているのを見て、眉をひそめる。
「……こんな時間になんの用だ」
素っ気なく和彦が応対すると、画面を通して鷹津がニヤリと笑いかけてくる。ただし、その笑みにはいつもより、悪辣さと鋭さが足りない。鷹津は首をすくめ、大げさに身震いした。
『寒いんだ。早く中に入れろ』
何様だと追い返したいところだが、鷹津は和彦の〈番犬〉で、欲しいと言われれば〈餌〉を与えなければならない立場だ。インターホン越しにあしらうこともできるが、寒い中、こんな時間になんのためにやってきたのか、理由が気になる。
それに、すべての部屋に明かりをつけ、暖める理由もほしかった。
和彦はエントランスのロックを解除してやり、数分後、部屋の玄関に鷹津を迎え入れた。
「――雪が降ってるぞ」
開口一番の鷹津の言葉に、和彦は目を丸くする。まさかこの男に限って、天気の話から切り出すとは思っていなかった。
和彦の反応がおもしろかったのか、鷹津は唇を歪めるようにして笑った。
「その様子だと、知らなかったみたいだな」
「暗くなってからすぐにカーテンを引いたから、気づかなかった」
「けっこうな降りだ。辺りが白くなる程度には、積もっている」
鷹津を玄関に残し、和彦はさっさとリビングの窓のカーテンを開く。すでに外は暗いため、白く染まっているという景色をはっきりと見ることはできないが、バルコニーにも雪が積もっていた。
「寒いはずだ……」
和彦は小さく呟き、ガラスに反射して映る鷹津に視線を向ける。図々しい男らしく、当然のように部屋に上がり込んできたのだ。
「……それで、なんの用だ。雪が積もっていると、知らせに来たわけじゃないだろ」
「この何日か、寝込んでいたらしいな。秦が言っていたぞ」
反射的に振り返った和彦は、鷹津を睨みつけながら、口中では秦に対して毒づいた。
「秦とずいぶん、仲よくなったみたいだな」
「その言い方はやめろ。仕事上、やむをえず、あいつと連絡を取り合っているだけだ。今日も、いままで会っていたんだ。そのとき、お前のことを教えられた。――嫌な男だ。思わせぶりなことを言いながら、肝心なことは何一つ言いやしねーんだ」
「それで秦に煽られて、弱っているぼくを笑いに、のこのことやってきたというのか」
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