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第29話
(1)
しおりを挟む朝は清々しい晴天だったというのに、昼が近づくにつれて急速に雲が広がり、太陽を覆い隠してしまった。金曜日の午後から雨が降り出すと言っていた天気予報は、ありがたくないことに、どうやら当たりそうだ。
ベンチに腰掛けて空を見上げていた和彦は、なんとなく気分が落ち着かなくて、所在なく髪を掻き上げる。
この空模様は、今の自分の心境そのものではないかと自嘲気味に考えてもみたが、それはあまり意味がないことに思え、すぐに意識を他へと逸らす。たとえば今、遠く離れた場所から、自分を監視――見守っている男たちのことだ。
長嶺組だけではなく、総和会からも、〈協力〉という名目で人が来ているらしい。らしい、というのは、和彦は詳しい説明を受けていないからだ。前夜に、心配しなくていいと、賢吾から連絡をもらっただけだ。
今日はマンションを出てから、長嶺組の車は使わず、念のためタクシーを乗り継いで移動した。男たちはその背後を、つかず離れずの距離感を保ちつつ、ついてきたはずだ。
待ち合わせ場所である公園をざっと見回してみるが、見知った顔はない。素人ではないうえに、最大限の警戒心を持っている男たちは、和彦程度に見つかるような身の潜め方はしないだろう。そのことに安堵していいのだろうが、そう単純ではない。さきほどから和彦は、見知らぬ世界に一人で放り出されたような心細さを覚えていた。
日ごろ、街中で不意に襲われる感覚より、さらに強烈なものだった。堅気ではなくなった自分、というものを強く認識させられるのだ。今、目の前を歩いている人たちすべてが、後ろ暗さとは無縁の生活を送っているとは限らないのに。
こう思ってしまうのは、後ろ暗さとは無縁の生活を送っている人物が、もうすぐ目の前に現れるからだ。そしてきっと、自分を面罵する。
その光景が容易に想像できて、自覚もないまま和彦は眉をひそめる。覚悟はしているのだが、だからといって平気なわけではない。
地面に視線を落とし、ぎこちなく深呼吸を繰り返していた和彦の耳に、こちらに近づいてくる硬い靴音が届く。反射的に身を強張らせているうちに、靴音は正面で止まった。
「――元気そうだな」
なんの感慨もなさそうに、淡々とした口調で話しかけられる。冷たい手で心臓を締め上げられるような感覚に、和彦は息を詰める。同時に、体も強張っていた。そんな和彦に対して苛立つでもなく、変わらない口調で英俊が続ける。
「顔をよく見せろ」
身に染み付いた条件反射と言うのだろう。和彦は言われるままに顔を上げ、久しぶりに間近な距離で兄の顔を見る。次の瞬間、視界が大きく揺れた。
「っ……」
顔の左半分に衝撃が走り、痺れる。一体何が起こったのか理解したときには、火がついたように熱くなっていた。懐かしい――というのは語弊があるかもしれないが、和彦にとっては馴染んだ感覚だ。
左頬を押さえながら、唇を歪めて英俊を見据える。英俊は、自分が撲ったというのに、撲たれた和彦よりも不快そうな顔をしていた。いつも、こうだった。和彦に痛みを与えてきながら、嘲笑うでもなく、弟を虐げるという行為に走る自分自身に嫌悪を覚えるでもなく、ただ和彦が反応を示すことが不快であると、そう英俊は表情で物語っていた。
今はそこに、衆人から注目を浴びてしまったことへの不愉快さも加わっている。しかしそれは、当然のことだろう。
エリート然として、寸分の隙なくスーツを着込んだ男が突然、ベンチに座っている男に手を上げたのだ。しかも向き合っているのは、よく似た顔立ちの者同士だ。
英俊は何事もなかったように和彦の隣に腰掛け、一瞬の騒然とした空気は辺りに霧散する。沈黙しているほんの一分ほどの間に、並んで腰掛けた兄弟に注目を向ける人はいなくなった。
「お前に対しては言いたいことがありすぎて、何から言っていいのかわからない」
ようやく英俊が口を開く。和彦は、まだ痺れている左頬を軽く撫でてから応じる。
「兄さん、仕事を抜けてきたんだろう。だったら、あまり時間はないんじゃないか」
「お前が気にすることじゃない。仕事より、〈弟〉のほうが大事だからな」
和彦が冷めた視線を向けると、それ以上に冷めた眼差しで返される。これだけのやり取りの間に、和彦は心を凍りつかせる。電話越しのやり取りですら、ひどく精神力を削り取られたのだ。英俊の前で無様に動揺したくなかった。
「……あの家で、ぼくにまだ利用価値があるなんて、知らなかった」
「自分に価値があると知って、喜んだか?」
「ぼくはそんなに健気じゃない。このまま最低限の関わりだけで放っておいてくれたらいいと、そう思っていた。実際、医者になってからは、好きにさせてもらっていた」
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