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第30話
(10)
しおりを挟むグラスに入ったワインを飲み干した鷹津が、正面の席につく和彦を無遠慮な眼差しで見つめてくる。これは今に始まったことではなく、待ち合わせ場所となっていたシティホテルのロビーで顔を合わせてから、ずっとだ。
まずは食事をと、ホテル内のレストランに入ったが、メニューを見るよりも、和彦の顔を見つめる時間のほうが長かったぐらいだ。
嫌になるほど勘の鋭い男は、和彦の異変を一目で見抜いたのだろう。和彦も、あえて鷹津の前で自分を取り繕うマネはしなかった。とにかく今日は、疲れていた。
英俊との間で交わされた会話を端的に伝えてしまうと、もう口を開くのも嫌になっていた。
「本当は来たくなかった、という顔だな。朝電話をしたときは、乗り気という感じだったのに」
いつもであれば、鷹津の性質の悪い冗談に即言い返すところだが、和彦は表情を変えないまま顔を背ける。
「……今夜はもう帰りたい」
「ふざけたことを言うなよ、佐伯。目の前で餌を見せ付けておいて、お預けなんて、許すわけがないだろ」
食事を続ける気にもならなくて、和彦は静かにナイフとフォークを置く。すかさず鷹津に問われた。
「何があった? 今のお前にそんな顔をさせるとしたら、実家のことぐらいだろ」
「実家はまったく関係ない」
ここで和彦は一旦口を閉じるが、鷹津はさらなる言葉を待っている。黙り込んでいるわけにもいかず、和彦は周囲のテーブルにつく客たちの耳を気にしつつ、短く告げた。
「――患者を死なせた」
鷹津は特に表情も変えず、自分でグラスにワインを注ぎながら、事も無げに答える。
「なんだ。いままで死なせたことがなかったのか」
さすがの和彦も絶句して、すぐには声が出てこなかった。別に鷹津から、慰めや励ましの言葉を期待していたわけではない。だが、さすがにこの反応は予想外だった。
「あんた……、本当に嫌な男だな」
「お前の期待に応えてやったんだ。それとも、俺が優しい男だとでも思っていたのか?」
和彦は、まじまじと鷹津の顔を見つめる。癖のある髪をオールバックに撫でつけ、無精ひげを生やし、どこか剣呑とした雰囲気を漂わせた男は、触れれば切れそうな鋭さを秘めており、優しさは微塵も感じさせない。ドロドロとした感情で澱んだ目が、その印象に拍車をかけている。
愚痴や弱音をこぼすには、これほど相応しくない男はいないかもしれない。ただ、少なくとも和彦は、鷹津には気をつかわなくて済む。
「ぼくをつき合わせるんだから、話ぐらい聞け」
「ああ、聞いてやるぜ。俺はお前の番犬だからな。なんでも言うことを聞いてやる」
和彦がぐいっとグラスを差し出すと、鷹津は文句も言わずにワインを注いでくれた。ワインを一口飲んでから、和彦は昼間の出来事を思い返す。
「……何もできなかったんだ。目の前で、呼吸も満足にできなくなっている患者に。輸血も間に合わなかった。そもそも手術しようにも、心臓がもたなかったはずだ。死ぬべくして、死んだんだ」
「お前もともと、外科医を目指していたんじゃないのか。美容外科に進む前までは、救急にもいたはずだろ。そのとき、担当した患者がまったく死ななかった、というわけじゃねーだろ」
「設備や医者、看護師が揃った状況と、何もない……、ぼくみたいな医者一人しかいない状況じゃ、噛み締める後悔や悔しさの種類が違う」
「逃げ出したくなったか?」
どこか嘲笑を含んだ鷹津の指摘に、和彦はドキリとする。あえて目を逸らしていた素直な気持ちを、完全に見抜かれたと思った。
「あの患者の、何も知らされていない。患者の名前も、入っている組の名前も、どういう状況で傷を負ったのか。ぼくが帰ったあと、遺体はどうなったのかすら」
「知ってどうする。お前の罪悪感が軽くなるわけでも、お前の医者としての腕が上がるわけでもないだろ。責任を取って医者をやめるか?」
忌々しいほどに、鷹津の言うことはもっともだった。和彦がショックを受けたところで、現状は何も変わらない。自分には治療は無理だと言い置いて帰った医者と、少しばかり足掻いた自分との間に差異はないのだ。無力だった、というひとくくりで片付いてしまう。
「お前は、長嶺組や総和会と関わり続ける限り、こういう思いをこれから何度も味わうぞ」
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