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第38話
(29)
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「いえ、しかし会長から……」
「戻ります。できないというなら、ここで車を降りて、タクシーで帰ります」
頑なに和彦が主張し続けると、ようやく本気だと悟ったらしい。助手席の男が携帯電話を取り出してどこかに連絡を取り、ぼそぼそと相談を始める。和彦はあえて聞かないようにしていた。誰から何を言われようが、自分の意志を曲げるつもりはなかったからだ。
結局、総和会が折れることになり、車はまっすぐ自宅マンションに向かった。
部屋まで送り届けられ、玄関のドアを閉めて一人になると、一気に体中の力が抜けた。何もしたくなかったが、明日も仕事があることを考えると、このままベッドに潜り込むわけにもいかない。
バスタブに湯を溜めている間にスーツを着替え、食欲はなかったが、今日は朝から何も食べていないことを思い出し、仕方なく冷凍庫を覗く。気が利く長嶺組の組員は、手軽に食べられる冷凍食品も常備してくれていた。
焼きおにぎりを温めると、これだけの食事のためにわざわざダイニングのテーブルにつく気にもなれず、キッチンの隅に置いたイスに腰掛けて、さっさと胃に収める。その後、ふらふらとバスルームに向かった。
湯に浸かった和彦だが、到底寛げるはずもなく、今後のことを考えて胸が苦しくなった。俊哉と顔を合わせるたびに、今のような気持ちを味わわなくてはならないのだ。罪悪感に押し潰されそうになる自分の姿が容易に想像でき、行き場もないのに逃げ出したくなる。
本当に雁字搦めだと、和彦は荒く息を吐き出す。
和彦に何かあったとき、俊哉はまず間違いなく、総和会と長嶺守光の双方に確実なダメージを与えられる長嶺組を狙うだろう。俊哉は、ハッタリは口にしない人間だ。いつだって、口にしたことは実行してきた。
のろのろとバスルームから出た和彦は、脱衣所でバスタオルを手にしたところで、ふと耳を澄ます。部屋の電話が鳴っていた。ここで、携帯電話の電源を切ったままにしてあることを思い出した。護衛の男から報告を受けた守光からだろうかと見当をつけたが、今夜はもう、どれだけの義務感を費やしても、誰かと話せる心境にはなれなかった。
和彦はパジャマを着込んでから、鳴り続ける電話を無視して、ダイニングに戻る。キッチンボードの引き出しから安定剤を取り出すと、少し迷ったが、一日分の用量を超えた錠剤を口に放り込んだ。
寝室に入ると、身を投げ出すようにしてベッドに横になる。手足を広げて、暗い天井を見上げた。とうとう俊哉と会って話したのだと、和彦は改めて事実を噛み締める。事態は唐突に急変し、明日にでもこの部屋から引きずり出される事態もありうるのだと考えると、息が止まりそうになる。
守光のもとに身を寄せることになっても、俊哉に連れ戻されることになっても、確実に和彦を取り巻く人間関係は整理され――切り捨てられる。
「――……嫌だ」
和彦はぽつりと呟き、横向きとなる。不安を掻き立てられる想像ばかりしてしまい、安定剤を飲んだのは間違っていなかったようだ。
ベッドの広さがいつになく気になり、所在なく右へ左へと転がっていたが、それも長くは続かない。頭がふわふわとしてきて、安定剤がゆっくりと効き始める。
緩やかな眠気が、不安感を遠くへと押しやってくれる。ふと和彦は、目覚まし時計のセットをしていないことを思い出し、体を起こそうとしたが、すでにもう頭が重くて動けない。なんとか頭上に腕を伸ばそうともしたが、パタリと途中で落ちてしまう。
現実と夢の境が曖昧になり、部屋のひんやりとした空気を肌で感じていたのに、俊哉と会っていた公園の空気がやけにリアルに蘇り、同時に、和彦を取り巻く情景も変わる。ベンチで並んで俊哉と腰掛けていたかと思えば、前触れもなく場面が切り替わる。
常に居心地の悪さが漂っていた実家の自分の部屋であったり、明るくて生活感に溢れていた里見の部屋。さらには、医者となって初めて自分で見つけて契約した部屋に、三田村が和彦との逢瀬のために借りてくれた部屋も。殺風景で寒々とした部屋の主は、鷹津だった。
寂しい、という気持ちに胸を突き破られそうだった。これまで注がれてきた男たちの情愛に一刻も早く包み込まれたいと、本能が求めてしまう。
そのせいなのか、夢の中で見ている情景がまた変わり、和彦はベッドの上に横たわっていた。裸で。
背に触れるシーツの感触を認識した次の瞬間、誰かが覆い被さってきて、素肌同士が重なる。首筋に唇が這わされながら、体中をてのひらでまさぐられていた。相手の顔を見ることはできないが、愛撫の仕方に覚えがあり、誰だろうかと考えているうちに、両足の間に顔を埋められていた。
「戻ります。できないというなら、ここで車を降りて、タクシーで帰ります」
頑なに和彦が主張し続けると、ようやく本気だと悟ったらしい。助手席の男が携帯電話を取り出してどこかに連絡を取り、ぼそぼそと相談を始める。和彦はあえて聞かないようにしていた。誰から何を言われようが、自分の意志を曲げるつもりはなかったからだ。
結局、総和会が折れることになり、車はまっすぐ自宅マンションに向かった。
部屋まで送り届けられ、玄関のドアを閉めて一人になると、一気に体中の力が抜けた。何もしたくなかったが、明日も仕事があることを考えると、このままベッドに潜り込むわけにもいかない。
バスタブに湯を溜めている間にスーツを着替え、食欲はなかったが、今日は朝から何も食べていないことを思い出し、仕方なく冷凍庫を覗く。気が利く長嶺組の組員は、手軽に食べられる冷凍食品も常備してくれていた。
焼きおにぎりを温めると、これだけの食事のためにわざわざダイニングのテーブルにつく気にもなれず、キッチンの隅に置いたイスに腰掛けて、さっさと胃に収める。その後、ふらふらとバスルームに向かった。
湯に浸かった和彦だが、到底寛げるはずもなく、今後のことを考えて胸が苦しくなった。俊哉と顔を合わせるたびに、今のような気持ちを味わわなくてはならないのだ。罪悪感に押し潰されそうになる自分の姿が容易に想像でき、行き場もないのに逃げ出したくなる。
本当に雁字搦めだと、和彦は荒く息を吐き出す。
和彦に何かあったとき、俊哉はまず間違いなく、総和会と長嶺守光の双方に確実なダメージを与えられる長嶺組を狙うだろう。俊哉は、ハッタリは口にしない人間だ。いつだって、口にしたことは実行してきた。
のろのろとバスルームから出た和彦は、脱衣所でバスタオルを手にしたところで、ふと耳を澄ます。部屋の電話が鳴っていた。ここで、携帯電話の電源を切ったままにしてあることを思い出した。護衛の男から報告を受けた守光からだろうかと見当をつけたが、今夜はもう、どれだけの義務感を費やしても、誰かと話せる心境にはなれなかった。
和彦はパジャマを着込んでから、鳴り続ける電話を無視して、ダイニングに戻る。キッチンボードの引き出しから安定剤を取り出すと、少し迷ったが、一日分の用量を超えた錠剤を口に放り込んだ。
寝室に入ると、身を投げ出すようにしてベッドに横になる。手足を広げて、暗い天井を見上げた。とうとう俊哉と会って話したのだと、和彦は改めて事実を噛み締める。事態は唐突に急変し、明日にでもこの部屋から引きずり出される事態もありうるのだと考えると、息が止まりそうになる。
守光のもとに身を寄せることになっても、俊哉に連れ戻されることになっても、確実に和彦を取り巻く人間関係は整理され――切り捨てられる。
「――……嫌だ」
和彦はぽつりと呟き、横向きとなる。不安を掻き立てられる想像ばかりしてしまい、安定剤を飲んだのは間違っていなかったようだ。
ベッドの広さがいつになく気になり、所在なく右へ左へと転がっていたが、それも長くは続かない。頭がふわふわとしてきて、安定剤がゆっくりと効き始める。
緩やかな眠気が、不安感を遠くへと押しやってくれる。ふと和彦は、目覚まし時計のセットをしていないことを思い出し、体を起こそうとしたが、すでにもう頭が重くて動けない。なんとか頭上に腕を伸ばそうともしたが、パタリと途中で落ちてしまう。
現実と夢の境が曖昧になり、部屋のひんやりとした空気を肌で感じていたのに、俊哉と会っていた公園の空気がやけにリアルに蘇り、同時に、和彦を取り巻く情景も変わる。ベンチで並んで俊哉と腰掛けていたかと思えば、前触れもなく場面が切り替わる。
常に居心地の悪さが漂っていた実家の自分の部屋であったり、明るくて生活感に溢れていた里見の部屋。さらには、医者となって初めて自分で見つけて契約した部屋に、三田村が和彦との逢瀬のために借りてくれた部屋も。殺風景で寒々とした部屋の主は、鷹津だった。
寂しい、という気持ちに胸を突き破られそうだった。これまで注がれてきた男たちの情愛に一刻も早く包み込まれたいと、本能が求めてしまう。
そのせいなのか、夢の中で見ている情景がまた変わり、和彦はベッドの上に横たわっていた。裸で。
背に触れるシーツの感触を認識した次の瞬間、誰かが覆い被さってきて、素肌同士が重なる。首筋に唇が這わされながら、体中をてのひらでまさぐられていた。相手の顔を見ることはできないが、愛撫の仕方に覚えがあり、誰だろうかと考えているうちに、両足の間に顔を埋められていた。
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