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第41話
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障子が閉められ一人となっても、すぐにはその場から動けなかった。少しの間ぼんやりと立ち尽くしていたが、改めて自分の格好に思い至り、うろたえる。慌ててコートを脱ぐと、押入れからネルシャツとパンツを引っ張り出した。
着替えを済ませたところで和彦は、文机の上に置かれた紙袋に目を留める。この客間に置いてあるということは、自分に関係があるものだろうが、勝手に中を見ていいのだろうかと逡巡しているうちに、廊下から足音が近づいてくる。
いきなり障子が開き、賢吾が姿を見せた。数秒ほど、言葉もなく見つめ合う。
スッと賢吾の視線が動き、文机に向けられる。
「袋の中は見てみたか?」
「えっ……」
賢吾が軽くあごをしゃくったので、紙袋の中を覗き込む。
「第二遊撃隊の人間が、昨夜のうちに持ってきたんだ。佐伯俊哉から託ったということで。お前の忘れ物だそうだ」
紙袋に入っていたのは、昨夜和彦が首に巻いていたマフラーだった。慌ただしく料亭を出たため、今この瞬間まですっかり失念していた。
「マフラーだけ持ってきて、肝心のお前の居場所は知らないと言われたときは、性質の悪い冗談かと思った」
マフラーを文机の上に置いてから、和彦はおずおずと賢吾に向き直る。
「……さっき、南郷さんは、大丈夫だった、のか……?」
「お前がまっさきに言うことはそれか」
冷然とした声と眼差しに、胸の奥まで貫かれる。和彦は吐き出した息を震わせた。
「違う。そうじゃ、なくて……、あの人にあんなことして――」
「それはお前が気にすることじゃない。今、お前が何より気にしなきゃいけないことはなんだ」
あくまで賢吾の表情は静かだった。さきほど南郷を殴ったというのに、激した様子は微塵もない。だからこそ和彦は、賢吾が身の内に抱えた、冷たい、凍りつくような怒りを感じずにはいられない。
口を動かそうとするが、言葉が出ない。何から言うべきかと、頭が混乱していたのだ。気持ちと体が委縮して、意識しないまままた後ずさりそうになり、そんな自分の態度を言い訳したくなる。そしてさらに言葉が出なくなる。
痛いほどの沈黙が訪れようとしたとき、ふいに賢吾に呼ばれた。
「――和彦」
無意識のうちに視線を伏せていた和彦は、反射的に顔を上げる。その瞬間、左頬に衝撃が走り、足元がふらついた。
何が起こったのかわからないうちに顔半分が熱くなり、痺れる。呆然として賢吾を見上げると、左頬に大きなてのひらが押し当てられた。ここでようやく、頬を平手で打たれたのだと知る。
「お前を殴るのは、これが最初で最後だ。だが、この一回で俺の気持ちは伝わるはずだ」
殴ったとはいっても南郷に対してのものとはまったく違い、ずいぶん力加減をしてくれたのは明らかだ。それでも十分痛い。
賢吾から与えられた痛みだと認識した途端、たった一つの言葉が口を突いて出た。
「ごめん……」
痛む頬を優しく指でくすぐられる。
「……極道が何を言ってるんだと思うかもしれねーが、一晩お前の行方が知れなくて、心配で堪らなかった。俺の大事で可愛いオンナは、あんまりにも危なっかしい。誰かに連れ去られて、もう二度と会えないんじゃないかって、嫌でも考える」
和彦はもう一度、今度は消え入りそうな声で謝罪する。
労わるように頬を撫でられ、賢吾の手の感触だとやっと実感していた。その途端、一晩の間に自分に起こった出来事が一気に蘇り、食い入るように賢吾を見つめる。
「あの……」
「おおよそのことは、オヤジから聞いている。昨夜のうちに佐伯俊哉が連絡してきたそうだ。手前勝手な交渉事はこちら側の専売特許だと思ったが、お前の父親もなかなかのもんだ。いや、手前勝手ではないか。ヤクザに捕らわれた息子を、連れ戻そうとしているんだとしたら」
ため息をついた賢吾が、和彦の表情に気づいたのか、ふっと眼差しを和らげる。
「込み入った話は後回しだ。今はとにかく、風呂に入ってから体を休めろ。朝メシはきちんと食ったのか? 今なら笠野が準備している最中だから、食いたいものがあったらなんでも言え。喜んで作ってくれるぞ」
現金なもので、賢吾に言われて初めて空腹を自覚する。同時に和彦は、自分はようやく〈帰ってきた〉のだと思った。だからといって、賢吾の優しさに無条件にすがるわけにはいかない。
「……昨夜はいろいろあったんだ。あんたに本気で殴られても仕方のないことも……」
賢吾は、和彦の左頬の状態が気になるのか、再び撫でてくる。もしかすると赤くなっているのかもしれない。優しい手つきとは裏腹に、どこか突き放したような冷たい口調で賢吾が言う。
着替えを済ませたところで和彦は、文机の上に置かれた紙袋に目を留める。この客間に置いてあるということは、自分に関係があるものだろうが、勝手に中を見ていいのだろうかと逡巡しているうちに、廊下から足音が近づいてくる。
いきなり障子が開き、賢吾が姿を見せた。数秒ほど、言葉もなく見つめ合う。
スッと賢吾の視線が動き、文机に向けられる。
「袋の中は見てみたか?」
「えっ……」
賢吾が軽くあごをしゃくったので、紙袋の中を覗き込む。
「第二遊撃隊の人間が、昨夜のうちに持ってきたんだ。佐伯俊哉から託ったということで。お前の忘れ物だそうだ」
紙袋に入っていたのは、昨夜和彦が首に巻いていたマフラーだった。慌ただしく料亭を出たため、今この瞬間まですっかり失念していた。
「マフラーだけ持ってきて、肝心のお前の居場所は知らないと言われたときは、性質の悪い冗談かと思った」
マフラーを文机の上に置いてから、和彦はおずおずと賢吾に向き直る。
「……さっき、南郷さんは、大丈夫だった、のか……?」
「お前がまっさきに言うことはそれか」
冷然とした声と眼差しに、胸の奥まで貫かれる。和彦は吐き出した息を震わせた。
「違う。そうじゃ、なくて……、あの人にあんなことして――」
「それはお前が気にすることじゃない。今、お前が何より気にしなきゃいけないことはなんだ」
あくまで賢吾の表情は静かだった。さきほど南郷を殴ったというのに、激した様子は微塵もない。だからこそ和彦は、賢吾が身の内に抱えた、冷たい、凍りつくような怒りを感じずにはいられない。
口を動かそうとするが、言葉が出ない。何から言うべきかと、頭が混乱していたのだ。気持ちと体が委縮して、意識しないまままた後ずさりそうになり、そんな自分の態度を言い訳したくなる。そしてさらに言葉が出なくなる。
痛いほどの沈黙が訪れようとしたとき、ふいに賢吾に呼ばれた。
「――和彦」
無意識のうちに視線を伏せていた和彦は、反射的に顔を上げる。その瞬間、左頬に衝撃が走り、足元がふらついた。
何が起こったのかわからないうちに顔半分が熱くなり、痺れる。呆然として賢吾を見上げると、左頬に大きなてのひらが押し当てられた。ここでようやく、頬を平手で打たれたのだと知る。
「お前を殴るのは、これが最初で最後だ。だが、この一回で俺の気持ちは伝わるはずだ」
殴ったとはいっても南郷に対してのものとはまったく違い、ずいぶん力加減をしてくれたのは明らかだ。それでも十分痛い。
賢吾から与えられた痛みだと認識した途端、たった一つの言葉が口を突いて出た。
「ごめん……」
痛む頬を優しく指でくすぐられる。
「……極道が何を言ってるんだと思うかもしれねーが、一晩お前の行方が知れなくて、心配で堪らなかった。俺の大事で可愛いオンナは、あんまりにも危なっかしい。誰かに連れ去られて、もう二度と会えないんじゃないかって、嫌でも考える」
和彦はもう一度、今度は消え入りそうな声で謝罪する。
労わるように頬を撫でられ、賢吾の手の感触だとやっと実感していた。その途端、一晩の間に自分に起こった出来事が一気に蘇り、食い入るように賢吾を見つめる。
「あの……」
「おおよそのことは、オヤジから聞いている。昨夜のうちに佐伯俊哉が連絡してきたそうだ。手前勝手な交渉事はこちら側の専売特許だと思ったが、お前の父親もなかなかのもんだ。いや、手前勝手ではないか。ヤクザに捕らわれた息子を、連れ戻そうとしているんだとしたら」
ため息をついた賢吾が、和彦の表情に気づいたのか、ふっと眼差しを和らげる。
「込み入った話は後回しだ。今はとにかく、風呂に入ってから体を休めろ。朝メシはきちんと食ったのか? 今なら笠野が準備している最中だから、食いたいものがあったらなんでも言え。喜んで作ってくれるぞ」
現金なもので、賢吾に言われて初めて空腹を自覚する。同時に和彦は、自分はようやく〈帰ってきた〉のだと思った。だからといって、賢吾の優しさに無条件にすがるわけにはいかない。
「……昨夜はいろいろあったんだ。あんたに本気で殴られても仕方のないことも……」
賢吾は、和彦の左頬の状態が気になるのか、再び撫でてくる。もしかすると赤くなっているのかもしれない。優しい手つきとは裏腹に、どこか突き放したような冷たい口調で賢吾が言う。
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