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第45話
(15)
しおりを挟む何から切り出すべきなのかと、借りた携帯電話を手にしたまま、和彦は途方に暮れていた。俊哉に言いたいこと――確認したいことがあまりにありすぎる。
しかし、連絡しないわけにはいかない。
和彦が難しい顔で考え込んでいると、ヒーターの前で丸まっていた黒猫がふいに起き上がり、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。伸ばしていた和彦の足に軽く身をすり寄せると、甘えるような顔で見上げて鳴く。
この部屋のヒーター目当てで、自分の存在など目に入っていないのかと思ってあえて構っていなかったのだが、予想外の態度を示された。そっと片手を差し出すと、黒猫は自らあごを擦りつけてくる。気をよくした和彦は、ここぞとばかりに撫でさせてもらう。柔らかく滑らかな毛並みと、てのひらから伝わってくる高めの体温が心地いい。
「温かいな……」
仰向けになって腹まで撫でさせてくれた黒猫は、気が済んだのか、あっさりとヒーターの前へと戻っていく。
少しだけ肩の力が抜けた和彦は、その勢いで俊哉に電話をかける。携帯電話の呼出し音を聴きながら、ある種の感慨深さを覚えていた。
俊哉と別れてから、まだ丸一日しか経っていないのだ。その間に、和彦はいくつもの真実を知り、さらに封じていた記憶が蘇った。衝撃を受けすぎて神経が麻痺しているのか、手足を動かし、さまざまなことを自分の頭で考えているのに、どこか他人のものであるような、奇妙な違和感がある。
ついてのひらを眺めたのは、この体に、俊哉の血は流れているのだろうかと思ったからだ。感傷的になっているわけではなく、ただとにかく、具合が悪かった。
壁にもたれかかったそのとき、呼出し音が途切れ、俊哉が出た。和彦は咄嗟に声が出ず、不自然な沈黙が十秒ほど流れた。
『――今どこにいる』
開口一番の俊哉の言葉に、安堵と同時に不快さを感じた。この人は何があったも変わらないと、嫌でも痛感した。
「和泉の家、だよ……」
『総子さんから、いろいろ聞いたか』
「……うん」
紗香の墓参りのあと気を失ったとは言えなかった。ただ、体調を崩して、和泉家にもう一泊すると伝えることで、俊哉はある程度察したようだ。昨日、別れ際の俊哉の言動から、おそらく和彦がここを訪れることで、過去の出来事を思い出す事態を想定していたはずだ。
和彦の古い記憶は、ガラスの箱に仕舞われていたようなものだ。少しの衝撃で箱は砕けてしまう。だから俊哉は、和彦を和泉家から遠ざけ、偽りの思い出を語りながら、記憶を刺激すまいとしていた。
思い返してみれば、俊哉の口から総子の名を聞くのは初めてだった。いつでも〈和泉の家〉と呼んで、総子や正時の存在を一括りにしており、そこに和彦は疑問を感じたことはなかった。
この人なりに必死だったのだ――。
胸の奥で呟いた和彦は、髪に指を差し込む。
「父さんの目的は何?」
呻くように和彦が問いかけると、俊哉が一瞬息を詰めた気配がした。
『そんなことを聞きたくて、電話してきたのか』
「大事なことだっ。少なくとも……、ぼくにとっては。ううん、きっと、父さん以外の人たちにとっても大事だと思う」
俊哉は書斎にでもこもっているのか、物音一つ伝わってこない。
『――血は、呪いだ』
ふいに俊哉が切り出す。今度は和彦が息を詰める番だった。
『大半の人間にとってはそうではないだろうが、少なくとも、佐伯の血はそうだ。それに、和泉の血も。逃れたくても逃れられない。わたしは昔から、それが疎ましくて仕方なかった。否応なく体に流れる血と、だからこそ受け継ぐことを当たり前とされる官僚としての人生。求められるなら、淡々と歩めばいいと、ずっと思っていた。興味はないが、それが佐伯俊哉という人間に与えられた生き方だ』
「何、言って……」
佐伯という名家の名と、自らの努力で手に入れた権力を誇りにしている。それが俊哉だった。和彦の思い込みなどではなく、俊哉自身がそう振る舞っていたのだ。優秀な長男に家を継がせ、その長男が結婚して子が誕生したら、当然のように官僚の道を歩ませ、佐伯家を継がせる。そうやって佐伯の名と血は続いていく、はずだった。
『あるとき、わたしの前に一人の男が現れた。嬉々としてその呪いを受け入れている、愚かだが、力と生気を漲らせた男だった。つまらない問題の処理に、その男の手が必要だったんだが、危惧した通り、男はわたしにつきまとってきた。だからわたしも、便利に使ってやった』
ああ、と和彦は小さく息を洩らす。俊哉が誰のことを語っているか、すぐに見当がついた。
『……ずいぶん昔の話だ。お前は生まれていないし、英俊はまだ幼かった。――綾香は、二人目の子は望めない体だった。わたしも、跡取りの英俊がいるのだから、もう一人欲しいという感情はなかった。ただ、何も知らない親戚たちのお節介な忠告が、心底疎ましかった記憶がある……』
家庭は子供中心となり、綾香は慣れない子育てに奔走し、淡々とした俊哉の日々の生活は大きな変化に呑み込まれたのだという。その変化には、男との――長嶺守光との出会いも含まれていた。
『ヤクザなんてしているくせに、夢見がちな男だった』
嘲っているようでありながら、俊哉の声音は柔らかだった。
『生まれ育った環境は違っていたが、共通する部分はあった。血に縛られ、唯々諾々と従う。あの男は暴力という絶対的な力を持っていながら、それでも、自分の父親には逆らえないと、苦笑交じりで洩らしたことがあった。男を紹介してくれた政治家に聞いたところ、父親からはずいぶんひどい扱いを受けていたそうだ。跡目としての躾と教育、ということだったそうだが――』
官僚とヤクザとの間に、友誼めいた感情があったと思わせる口ぶりだが、俊哉という人間は、ずっと複雑な心理を持っていた。
『わたしは、あの男が嫌いだった。そんな扱いを受けながら、己の血を誇り、妄信している。一方の男のほうも、わたしに苛立っていたのかもな。理解したくないが、理解できてしまう。わたしたちは、そんな間柄だった』
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