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番外編 -温-
しおりを挟む長嶺組の送迎の車に乗り込んだとき、すぐに〈それ〉に気づいた。
和彦はシートベルトを締めてから、鼻を鳴らす。一応朝食を食べてはきたのだが、それでも食欲を刺激される匂いが車内に漂っていた。
和彦が苦手なこともあり、車用のフレグランスを使っていないおかげで、より匂いが際立っている。マンションに来る前に、車内でファストフードを食べたというわけでもないようだ。
「――……ダシの匂いだ」
思わず和彦が洩らすと、助手席に座っている組員が振り返る。
「すみません。匂いますか?」
「あっ、いや、謝られるようなことじゃなくて、いい匂いがすると思って」
「朝、本宅を出る寸前まで、笠野さんを手伝って一緒に台所に入っていたものですから、匂いが染みついたんでしょうね」
笑いながらそう説明され、朝食をクロワッサン一つで済ませてきた和彦としては、ますます食欲が刺激される。笠野の手伝いということは、確実に本宅のキッチンには美味しいものがあったということだ。
「何を作ってたんだ」
「おでんです。大きな寸胴で作るから、下準備が大変なんですよ」
おでん、おでん、と和彦は口中で繰り返す。実は、個人的にはあまり馴染みのない料理だった。実家にいた頃は、家政婦が作ってくれたのはおでんというよりポトフだったし、医大生時代、病院内にあったコンビニで同期が買ったものを、少し分けてもらった記憶があるぐらいだ。外食の多い生活だったが、おでんを食べに連れて行ってくれた人間もいなかった。
これまでの人生で、おでんを食べたいという熱烈な衝動に駆られたことはない。だが、今車内に漂うダシのいい匂いは、食欲を直撃してくる。
「……寸胴で作っているのか……」
「寸胴です。業務用の、でかいやつです」
「それじゃあ、おでんはたくさんあるんだな……」
「よく食いますからね。うちの連中」
夕食用の仕込みなら、和彦が仕事終わりに本宅に寄っても、まだ余裕があるはずだ。
すでにもう夕食のことで頭をいっぱいにしながら、和彦は携帯電話を取り出すと、賢吾宛てに素早くメールを打つ。『帰りに本宅に寄る』という素っ気ないものだった。
いつもは賢吾からの、本宅に来いという一方的な指示に従うことが大半なのだが、今日は逆だ。
まさか、おでん目当てだとは思わないだろうと、和彦は一人声を押し殺して笑っていた。
今日のクリニックは万遍なく予約が埋まるという、なかなかの忙しさだった。しかも、午後になってから急遽、予約が一件入り、予定にない残業となった。
昼食もまともにとる時間はなく、コンビニで買ってきてもらったサンドイッチを流し込むだけ。糖分補給の甘いコーヒーを合間に飲む余裕すらなかったぐらいだ。
それでも、スタッフたちが退勤したあと、クリニックを閉めるその瞬間まで、疲れているうえに、激しい空腹を抱えてはいるものの和彦の機嫌は悪くなかった。いつもの手順で迎えの車に乗り込んでしまえば、あとは本宅に向かうだけだ。
もうすぐおでんが食べられると、今日一日、それを楽しみにしていた。――口に出しては言えないが。
本宅に到着して、まっすぐ洗面所に向かって手を洗ってきた和彦は、引き返す途中の廊下で賢吾と出くわす。いきなり大仰に眉をひそめた男は、さらに芝居がかった台詞を言った。
「先生が帰ってきたと聞いて出迎えてやろうと思ったのに、俺が玄関に着いたときには、先生はもういなかった。いつもより二十秒ほど行動が早くないか?」
細かい、と和彦は心の中で呟く。
「……出迎えられるぼくが、あんたを出迎えるために、玄関で突っ立ってろと言うのか」
「それぐらいの可愛げは、たまには欲しいな」
好き勝手言ってくれると、和彦は唇をへの字に曲げる。賢吾が本気でこんなことを言っているわけではないと、よくわかっているのだ。こちらを揶揄って楽しんでいるのだろうが、なんといっても今の和彦は空腹だ。まともに相手をする気力が湧かない。
「――……お腹が空いてるんだが……」
「そいつは大変だ」
再び大仰に眉を動かしてそう言った男の眉間を、できるはずもないが小突いてやりたい。空腹時は、些細なことでイライラするのだ。
「今日の晩メシは、なかなかシャレたものを作ってたぞ。若い連中は出払ってるから、先生専用のメニューらしい」
「んん?」
反射的に変な声が出たのは、夕食はおでんだとばかり思っている中、そこに『シャレた』という単語が飛び込んできたからだ。
首を傾げる和彦を、賢吾はおもしろがるように眺めている。恭しく案内されてダイニングに入ると、いつも和彦が座っているテーブルの席には、すでに一人分の食事が準備されていた。
和彦用にと、わざわざ笠野が買ってきたランチョンマットが広げられ、その上に並んでいる料理は――。
「オムライス……」
見るからにふわふわとろとろの卵の上から、マッシュルーム入りのデミグラスソースがかかっている。和彦が席につくと、笠野がさらにローストビーフとコールスローを出してくれる。
笠野が作った料理は、もちろん美味しい。和彦は、お茶を啜る賢吾に見守られつつ食事をしながら、そっとキッチンのほうをうかがう。大きい寸胴が火にかけられている様子はなく、ダシの香りが辺りに漂っているということもない。
これだけの夕食を準備しておいてもらって、おでんは? と聞けるはずもなかった。
夕食後、いつもの流れで当然のように宿泊することになり、和彦は客間で寛いでいた。
明日はクリニックが休みのため、多少の夜更かしは余裕なのだが、こんなときに限って、読みかけの本を持ってきていない。そこで和彦は、風呂上がりに笠野に頼んで、本宅で組員たちが読み終わった雑誌を何冊か借りてきたのだ。
髪を乾かし終えると、布団に転がった姿勢でパラパラと雑誌を捲る。男性ファッション誌や写真週刊誌の中に、経済誌が混じっているのが、雑多な男たちが出入りしている本宅らしいなと、妙な感心をしてしまう。
しばらく経ってから、コーヒーでも淹れてこようかと起き上がったときに、廊下のほうで微かな気配がする。咄嗟に脳裏に浮かぶのは、巨体をくねらせて移動する大蛇の姿だった。
案の定、障子の向こうから夜気を震わせる魅力的な声がかけられた。
「――先生、起きてるか」
「寝てる」
ふふ、と低い笑い声がする。
「意地悪を言うな」
「……どうかしたのか」
意識するまいと思っても、あることを予感して鼓動がわずかに速くなる。
スッと障子が開いて声の主である賢吾が姿を見せる。意外なことに、賢吾はこれから出かけるのか、シャツの上から深みのある茶色のブルゾンを羽織っていた。
布団の上に座った和彦は、まじまじと賢吾を見つめる。
「その格好……」
「先生、これから夜の散歩に出かけないか」
「こんな時間に、組員引き連れて出歩いてたら、間違いなく職質をかけられるぞ。嫌だからな。あんたと一緒にパトカーで警察署に連れて行かれるなんて」
「俺と先生の二人だけだから、目立たねーよ」
それはそれで問題ありだろうと、和彦は本気で困惑する。賢吾が急かすように手を叩き、追い立てられる形で渋々立ち上がる。
「近所を出歩ける服に着替えろ」
「……行くとは言ってないんだが……」
「いいところに連れて行ってやる」
賢吾は、こちらの好奇心の突き方をよく知っている。まるで子供に対する物言いだが、和彦もこれ以上無碍にはできず、着替えることにする。ただし、賢吾を廊下に追い払ってから。
ジーンズとコットンニットを着込み、上から厚手のカーディガンを羽織る。春めいてきたとはいえ、夜ともなると外はまだ肌寒く、上着なしはきつい。
電気を消して客間を出ると、壁にもたれかかって賢吾は待っていた。目が合うなり、唇の前に人さし指を立て、しゃべるなと示される。促されるまま向かったのは表の玄関ではなく、裏口だった。しっかり二人の靴が揃えて並んでおり、和彦は口を開きかけて、やめておく。
いつもであれば厳重に施錠されている扉は簡単に開き、やすやすと外に出ることができる。街灯に照らされる通りに人気は乏しく、車は一台も走っていない。お忍びの外出らしく、二人はこそこそと本宅から離れる。
「――それで、いいところって、どこに行くんだ」
ようやく賢吾の許しが出て、普通の声量で話しかける。賢吾は最初とぼけようとしたが、和彦が軽く体をぶつけると、快活な笑い声を上げた。残念なことに、辺りを包む闇にその笑い声はあっという間に吸い込まれる。
「少し歩いたところに、飲み屋があるんだ。昔馴染みなんだが、ここのところすっかりご無沙汰になってた。今夜は、久しぶりに顔を出そうかと思ってな」
「……それがどうして、ぼくも一緒に、となるんだ」
ここで賢吾が意味ありげな流し目を寄越してくる。
「俺は、先生のことはなんでも知りたいと思ってる男なんだぜ」
「いまさらだな」
「クリニックの行き帰り、車での先生の様子はどうだったとか、どんなことを話していたとか、そういうことも報告させている。一昨日は、新しい春物のコートを買いに行きたいと言ってたそうだな。明日、買いに連れて行ってやる」
「それは……、かまわないけど」
「そして今日は、おでんに興味津々だったと」
一拍置いて、和彦は賢吾の脇腹を軽く殴る。
「残念だったな。今朝作ってたおでんは、レクリエーションに参加する若い組員たちへの差し入れだ」
「……レクリエーションって、健全な団体みたいに、ボーリングやソフトボール大会でもやってるのか」
「聞きたいか?」
賢吾はニヤニヤと笑っている。その表情だけで察するものがあった和彦は、首を横に振る。
残念だ、とこぼした賢吾がさりげなく、手を握ってきた。一瞬、手を引きかけた和彦だが、賢吾の手がひんやりしていることが気になり、されるがままとなる。
「手、冷たい」
「まだまだ、夜になると肌寒くていけねーな。まあ、おでんを食えば、すぐにぬくもるだろ」
そういうことかと、和彦は小さく声を洩らす。
「事前に言ってもらわないと。夕飯をしっかり食べたから、まだそんなにお腹は減ってない」
「のんびり食えばいい。――先生は、おでんの具は何が好きなんだ」
「たまごとはんぺんと、餅の入った巾着。……といっても、コンビニのを食べたことぐらいしかないけど」
「今から行く店のおでんを食ったら、美味くてびっくりするぞ」
そんな会話を交わしながら歩いているうちに、ひっそりと看板の明かりが灯った店が見えてくる。さすがにここまで来ると、急に恥ずかしくなって手を引く。賢吾もあっさりと手を離してくれた。自分の体温と馴染んでいた感触がなくなったことに、自分から手を引いておきながら、わずかだが寂しく感じる。
賢吾が先に引き戸を開け、一声かけて店に入る。手招きされて和彦もあとに続こうとして気づいた。少し離れた場所からこちらをうかがう人影たちの存在を。
考えてみれば、自称・臆病で慎重な賢吾が、辺りを警戒するでもなく、悠然と夜道を歩き続けていたのには、理由があったのだ。
何が二人だけだと、心の中で呟いた和彦だが、意識しないまま表情が緩んでしまう。そして、おでんを食べる前からすでに、全身が温まってきた。
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