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3巻
3-2
しおりを挟む「夕飯。付き合ってね」
そう言って、迷いなく私の手を引いて歩き出す係長についていってしまった。
「え? え? え?」
このまま電車に乗って帰るものだと思っていたのに、係長はなぜか駅を出ていこうとする。
――どうして、こういう展開になるのでしょうか?
「わ、私、門限があるので!」
「知ってるよ。大丈夫、門限までには家に帰れるようにしてあげるから」
「い、いえ、でもですね!」
「携帯届けてあげたから、お礼だと思って付き合って?」
「……そ、それは係長が……」
「金曜日に一人で外食するのは肩身が狭いんだ。だから、上条さんが付き合ってくれるといいなと思って携帯を届けたんだよ」
「わ、私じゃなくても、係長が誘えば誰だって喜んで食事に付き合うと思うんですけど……」
「うん。だから、上条さん付き合って?」
「……」
「もちろん、奢りだよ。財布のことは気にしないで、好きなだけ食べるといい」
「奢り……。いや、でも……」
「これは上司命令だよ。いいから奢られなさい」
「…………はい」
こうして私は、駅にほど近い釜飯屋に連行されたのだった。
金曜日の夕飯時のせいか席はほとんど埋まっていた。かろうじて空いていた和室の一角に私たちは陣取った。
この店は会社の近くにあるから、誰かに会わないとも限らない。私は「誰にも会いませんように」と、密かに天に祈った。
だって、ただでさえ変な噂が蔓延しているというのに、二人きりで夕食を摂っていたなんて知られたらことだ。係長の女性ファンの反応も怖い!
そこのところ、目の前の人は分かっているんだろうか……?
もっとも、噂を立てられて右往左往しているのは私だけで、この上司は噂されようが屁でもないみたいだけど。
この間の早坂のお嬢様の騒動があった時、私との仲を疑われた係長の冷静沈着な態度を見て思い知ったけど、この人のスルースキルは半端じゃない。笑みを浮かべて「さあ、どうだろうね? 勝手に考えれば?」みたいな返答で煙に巻く。
本当に羨ましい限りだ。その能力を半分でいいから分けて欲しい。
ちなみに、係長がスルーすればするほど、私が質問の嵐に遭うんですけどね!
私も「ご想像におまかせします」って言いたい。言ってしまいたい。
だけど、動揺しちゃってうまく言えそうにないし、その噂が巡り巡ってお祖父ちゃんとか伯父さんに伝わりでもしたら取り返しのつかないことになりそうで、必死こいて否定している。
最近は、早坂のお嬢様騒動がようやく収まってきたのに、そんな矢先にこの携帯騒ぎ、食事付きだ。
……お門違いだけど、あらぬ噂を立てられなくなるには、まずは係長への対策が必要なんじゃないかと思う。係長がもっと噂のことを気にして、私と距離を保ってくれれば! もっとも、奢りに釣られてのこのこついてきた私も私だけど。
「何を頼む?」
私の心中など知る由もない目の前のお方は、にこやかにメニューを差し出す。私はそれを受け取りながら、係長が妙に機嫌がいいことに気付いた。なぜだろう。
そんなに一人でご飯を食べるのが嫌だったのだろうか。まぁ、金曜日の夜にこの人がお一人様で食事をすることなんて、ほとんどないのだろうけど。なにしろ、最近まで恋人が途切れたことのない人だったのだから。週末はデートで忙しかったに違いない。
でも最近は、しばらく恋人がいないらしい。相変わらずモテて、ひっきりなしに誘われているらしいけど、見向きもしない――とは、情報通の女子先輩社員・水沢さんの談だ。
なぜ係長は、急に気変わりしたのだろう。しばらく考えていた私は、ある可能性に思い当たった。
まさか、三条家との縁談のことがあるから……?
考えてはみたものの、私は心の中でその考えを打ち消した。
係長は三条家との結婚話にあまり乗り気じゃないと聞いたことがある。だからやっぱり、それを慮って恋人を作らないと考えるのは無理がある。
……だったら、係長の心境の変化の理由は?
私は手元のメニューに視線を落として、むぅと眉をひそめた。
……私、なんでこんなに気になるのだろう。係長の恋人の有無なんて、私にはまったく関係ないのに。
メニューを見ながら唸る私に、係長が笑った。
「先に飲み物を注文しようか。来るまでの間、ゆっくり考えるといい」
どうやら注文で迷っていると思われたらしい。私は慌てて、メニューに目を通した。
……これは本気で迷う。
期間限定のきのこ釜飯も美味しそうだし、エビやカニが入った海鮮釜飯も美味しそう……
「何で迷ってるの?」
「え? あ、きのこ釜飯にするか、海鮮釜飯にするかで迷ってます」
私の返答に、係長は優しい笑みを浮かべた。
「じゃあ、二つ頼んで分け合えばいい。そうすれば、どっちも食べられるからね」
「い、いいんですか? 係長、何か食べたいものがあったんじゃ……」
「いや、具体的な希望があったわけじゃないから。それに、目の前で上条さんが美味しそうに食べる顔を見られるのが、俺にとってなによりのご馳走だよ」
おおお、何かちょっと甘い台詞キター!!
……ちょっと動揺したけれど、本当は分かってる。係長がこんな風に言ったのは、私が遠慮なく注文できるようにするためだってこと。
「やだなぁ、係長ってば、私を甘やかしすぎですよ。だけど、お言葉に甘えて、きのこと海鮮を注文しちゃおうかな?」
エヘヘと笑った私に、なぜか係長はちょっと苦笑していた。
「お世辞でも冗談でもなかったんだけど……まぁ、いいか。遠慮しないで二つ頼みなさい」
結局、私はきのこ釜飯と味噌汁、お新香がセットになったものと、大根のサラダを注文した。係長は海鮮釜飯と味噌汁、お新香だけじゃ足りないらしく、お刺身がセットになったものを頼んだ。
注文したものが届くまでの間、上司と二人きりでさぞ気まずい時間を過ごすことになるだろうと思ったら……係長はすごく話題豊富で、緊張や遠慮なんてさっぱり吹き飛んでいた。
係長が新人の時のことや、上司の笑えるエピソードなどを面白おかしく話してくれた。私も研修時代に遭遇した、他部署の奇妙な習慣とかについて、気付いたらペラペラしゃべっていた。
そうこうしているうちに、着物姿の給仕さんが私たちの席にやってきた。
「お待たせしました」
「わぁ、美味しそうな匂い!」
目の前に置かれた釜から、いい匂いが立ちのぼる。
実は、周りの席から漂う美味しそうな香りに、お腹がキューッとしていたのですよ。私はさっそくお釜をかき混ぜて、二つのお茶碗にきのこ釜飯をいそいそとよそった。その間に、目の前でも係長が海鮮釜飯をお茶碗によそっている。
「はい。係長、きのこ釜飯です」
「ありがとう。じゃ、これ、上条さんの分の海鮮釜飯ね」
言いながら、お茶碗を渡し合いっこした。
傍から見れば恋人同士みたいに見える光景……だけど、この時の私の目には、釜飯しか映っていなかった。
エビがプリプリして美味しそう! カニカマじゃなくて、本物のカニのほぐし身がのってる!
お茶碗に魅入っている私の向かいで、いきなり係長がクスクス笑った。
「これで同じ釜の飯を食った仲ってわけだね」
「あ、そうですね、文字通り!」
私もそう言って笑った。
上司と部下だから、同士のような意味合いの慣用句として使うのは語弊があるけれど……今の私たちは本当に文字通り「同じお釜のご飯を食べた仲」だから間違いじゃない。
「それじゃ、頂きます!」
「……頂きます」
軽く手を合わせて宣言すると、私はさっそくきのこ釜飯の入ったお茶碗を手に取った。
数種類のきのこが私を誘う。さっそくご飯を口に運ぼうとした時、不意に係長が声をかけてきた。
「あ、そうだ。上条さん」
「はい?」
私は茶碗と箸を持ったまま顔を上げた。向かいに座った係長は、そんな私を見てにっこり笑う。
「さっき教えてもらった番号は、私用の携帯番号だよね? せっかく教えてもらったから携帯に登録したいんだが」
「え? あ、そういえば私も係長の番号教えてもらいましたけど、あれって……会社のじゃなくて……」
「ああ、あれは私用のだよ」
ひょえええ。やっぱり!
「い、い、いいんですか、私に教えちゃって? 内緒にしておいた方がいいんじゃないですか?」
係長があまりに軽く言うものだから、私の方が、かえって焦ってしまう。そんな私を見て係長はくすりと笑った。
「いいんだよ。だって上条さんは人の番号をホイホイ他人に教えたりしないだろう?」
「もちろん、そんなことはしません! けど……」
「だから教えたんだ。さ、冷めるから早く食べよ?」
係長は茶碗を握りしめた私の手元に視線を落とし、付け加える。
「あ、はい」
ようやくご飯を口に運んだ私は、先ほど係長に言われたことも噛みしめ、じんわり喜びを感じた。
やっぱり、係長は信頼してるから番号を教えてくれたんだ。
ほくほくしながら、私は釜飯を頬張った。けれど、嬉しさに浸っていられたのは束の間で、係長の次の言葉を聞いた瞬間、笑っている場合じゃなくなった。
「というわけで携帯電話出して……?」
差し出された手を、ポカーンと見つめる。
――そして話は冒頭に戻るのです。
赤外線通信で番号を転送し合うから、携帯をよこせと言っているらしい。
たしかにさっき、お互いの番号は教え合ったけれど、赤外線通信をしたらメールアドレスとかも一緒に知ることになってしまうのでは……? それに万が一、係長の番号を電話帳に登録しているのを誰かに知られたら、騒ぎになってしまうかもしれないし……だから私は、登録はしないつもりでいたのに。
けれど、目の前の人は赤外線通信するのは、すでに決まったものといった様子で私を促している――笑顔で。
私はきのこ釜飯を頬張ったまま、交わした会話を思い出してみた。が、承知した記憶はない。
これは上司命令なのだろうか……?
あれこれ考えたけれど、番号を交換している今、そんなことはたいした問題でもないように思えてきて、従うことにした。電話をかけることはないと思うけど、知っていたら何か役に立つことがあるかもしれないしね!
私はご飯を咀嚼して呑み込むと、素直に携帯電話を係長に預けた。
そして彼が二つの携帯電話をピコピコと操作している間に、私の意識はふたたび食べ物の方へ移ってしまった。だって、いい匂いのものが目の前にあって我慢できる? 温かい方が美味しいと分かっているのに、冷めていくのを見過ごせる?
口を忙しく動かしていた私は、だから気付けなかった――携帯を操作する係長の顔に、うっすらと黒い笑みが浮かんでいたことに。
やがて操作を終えた係長が、私に携帯電話を差し出した。
「はい。登録できてるか調べてみて」
「分かりました」
私は箸を置いて、電話帳を開く。な行に『仁科彰人』の名前が新たに登録されていて、何か不思議な感じがした。
本当に係長の番号、登録しちゃったんだ――
秘書課のお姉さま方にバレたら、非常階段に呼び出しフラグが立ちそうだ。自分の身の安全のために、これは絶対に内緒にしておかないと。
登録されたばかりの係長の項目を確認すると、電話番号、メールアドレスだけでなく、自宅の電話番号まで記されていて、私は仰天した。
「こんなにいろいろと教えちゃっていいんですか!?」
個人情報流出に危機感はないんだろうか、係長ってば!
慌てる私に、係長はにっこり笑う。
「別にたいそうなことじゃないし。言っただろう? 信頼しているから教えたんだって。それに――」
不意に係長は言葉を切った。そして、私を見て今までとは違った種類の笑みを浮かべて言った。
「それに、そのうち絶対に必要になるから、いいんだ」
「――は?」
なんだろう。今一瞬、笑顔が黒く見えた!? いやいやいや、まさか、係長が?
我が一族の腹黒っ子、瀬尾涼も顔負けの黒い笑みを浮かべたような気がして、思わず目をこすってしまった。けれど、次に見た係長はいつもの柔和な表情を浮かべていて――
「じゃ、冷めないうちに食べようか」
「――は?」
「大根サラダ、少しもらっていいかな。刺身をあげるから」
「え? え、ど、どうぞ?」
「ありがとう。あ、お腹に余裕があったらデザートも注文するといい」
「え? いいんですか?」
「もちろん。付き合ってくれたお礼に、何でも奢ると言ったのはこっちだよ。遠慮することはない」
「ありがとうございます!」
以降、私は係長による嬉しい食攻めに遭い、さっき見たような気がした黒い笑顔のことも、意味深な言葉のことも、すっかり忘れてしまった。
――私がこの時の言葉の意味を知るのは、もうしばらくあとのこと。
第3話 飲み会狂想曲
「それでは新教育システム稼動を祝って、乾杯!」
課長がビールジョッキを高くあげると、周りの人間も一斉に各々飲み物を持ち上げる。
「乾杯!」
私も巨峰サワーの入ったグラスを片手に声を出し、隣にいた仁科係長とグラスをカチンと合わせた。次に、反対隣に座っている田中主任とグラスを合わせ、そして向かいの席に座る先輩女性社員の水沢さん、川西さんと次々グラスを合わせていく。
今日は飲み会だ。
去年から制作していたインターネットを使った新教育システム――「Eラーニングシステム」の仕事に携わった人たちのだ。
このEラーニングシステムは、今では教育事業本部という部署が中心になって制作・運営しているけど、元々は事業統括本部が行っていた仕事だった。
私がこの部署に所属されてすぐに携わった仕事で、感慨もひとしおだ。
いろいろ苦労した事業だけど、テスト運営を終えて今回めでたく正式に稼動することになった。それを祝っての飲み会だ。
最初のうちだけとはいえ、事業に関わったから、今回の飲み会にも事業統括本部の面々がお呼ばれしている。
「係長がこの手の打ち上げに参加するなんて珍しいですね。今、忙しいのに」
私の向かいに座っている水沢さんがビール片手に係長に話しかけた。
今回こうして参加している仁科係長だけど、普段はあまり飲み会には参加しない。といっても出席しないのではなくて、顔を出してすぐに会社に戻ってしまうのがいつものパターンだ。
常に忙しくて、滅多に最後まで参加できないのだ。
ウーロンハイを手にした係長が笑った。
「たまには息抜きしないとね。だけど、ちょっと仕事を残してるから、途中で抜けて会社に戻ろうと思ってる」
「え? やっぱり会社に戻るんですか? あ、だからあまり酔わないようにチューハイなんだ」
「ああ。仕事が残ってるのに水割りだの熱燗だのはマズイだろう。チューハイくらいがちょうどいい」
巨峰サワー片手に、二人の会話を聞きながら、私はふと疑問に思った。
――そういえば、なんで私、主任と係長の間に挟まれてるんだろう?
帰り際、秘書業務で突発的な用事が入った私は今日、定時に上がれなかった。だからみんなには先に行ってもらった。私が店に着いた時にはみんな着席してて、
「上条ちゃんは門限で早く帰るから、通路側の席の方がいいよね」
って、川西さんに言われるまま、主任の隣に座ったのだ。そしてその後、さらに遅れてやってきた係長が当たり前のように座ったんだった。
しばらくして、全員揃ったから乾杯だということになって、飲み物を注文したりとバタバタしてたから気にも留めなかったけど、上司二人に挟まれているこの席って、どうよ?
いや、二人とも良い上司なんだけどね? あまり気負わずに話をできる人たちなんだけどね?
だけど、イケメン男性社員に挟まれてて、周囲からの妬ましげな視線が痛くて仕方ない。きっとここにいる女性の大半は私のこの席に座りたがっているに違いないよ。
できれば向かいの女の園に行きたかった。けれど、私は門限があるから途中で飲み会を抜けるし、そうなると、通路側のこの席の方が都合がいいのは確かだ。
居心地の悪さを感じながら巨峰サワーをちびちび飲んでいると、いきなり係長に話しかけられた。
「上条さんも途中で抜けるんだよね? 門限があるから」
「え? あ、はいそうです」
「じゃあ、抜ける時、一緒に駅まで行こう。ここは歓楽街だから、その方が安全だろう?」
「え? い、いいんですか?」
「ああ、どうせ会社に戻るには駅に行かなくちゃならないんだしね」
いつもの私なら「え? 大丈夫です。一人で平気ですよ!」って遠慮していただろう。……ここが歓楽街のど真ん中じゃなければ。
会社がある駅の西側はビジネス街というかビル街だが、今いる駅の東側は、飲食店やクラブ、バー、それにラブホテルが乱立している。
この居酒屋からは駅まで歩いて十分足らずとはいえ、女性一人で歩くには勇気がいる場所だ。
客引きが多くて、ここに来るまでにもホストクラブの店員と思しき男の人のしつこい勧誘に遭って辟易した。
帰りはダッシュで突っ切るしかないと覚悟していた私に、係長の申し出は渡りに舟だった。
「で、ではよろしくお願いします」
私は恐縮しながらも係長に頭を下げた。これで帰りは安心だ。
……やっぱり係長は良い人だ。
私が感謝の意とともに笑顔を向けると、係長からも優しい笑顔が返ってきた。それが嬉しくてさらに笑顔になっていると、いきなり反対隣から声が上がった。
「痛っ」
田中主任の声だった。
「お前、何をしているんだ?」
係長は笑顔を消して、私の頭ごしに怪訝そうに主任に尋ねる。
「あー、いや、足がな……」
と田中主任はなぜか苦笑い。
「私のパンプスのヒールが主任にぶつかったんです。お騒がせしてすいません」
ホホホ、となぜか主任のあとを継いで笑いながら答えたのは、川西さんだった。
確かに二人は向かいの席に座っているから、足がぶつかってもおかしくないけど。でも、川西さんの笑い方が妙にわざとらしかったように思うのは気のせいだろうか……。それに何だか「ちっ、使えねぇ」とかいうつぶやきが聞こえような……
使えないって主任のことだろうか?
二人の顔を交互に探ったけど、苦笑したままの主任と、艶やかな微笑を浮かべる川西さんからは、その不自然なやり取りの意味をうかがい知ることはできなかった。
「それより係長、上条ちゃんのことをよろしくお願いします。きっちり間違いなく送ってあげて下さいね」
にっこり笑ったまま、川西さんは係長に言った。その言葉を聞いて係長の怪訝そうな表情が一転して苦笑めいたものに変わる。どうやら何か察したらしい。
「ああ。肝に銘じるよ」
本当にわけが分からない。ひとり蚊帳の外で頭の上に「?」マークを飛ばす私だった。
……これは、かなりあとになって知ったことだけど、川西さんはこの時、係長が送りオオカミになって私をラブホテルとかに連れ込むんじゃないかと心配していたらしい。それで止めろという意味を込めて主任を蹴り飛ばし、係長には牽制するつもりでああ言ったのだという。
だけど、そんなこととは夢にも思わない私は、何気なく室内に視線を巡らせていたら、教育事業本部の女性社員たちと目が合い、それどころじゃないことに気付いた。
なぜなら、以前にも増して、私を見る目が鋭くなっていたから。しかも何人かは、こっちをチラチラと見ながらヒソヒソ話をしているじゃないか。
どうやらさっき、係長と笑みを交わしていた場面を誤解されたようだ。……感謝の意を表していただけだったのに。
私は内心マズイと思った。この上、二人で居酒屋を抜けるのがバレたらどうなることやら、だ。
同じ部署の人たちは私に門限があることを知っているけど、他の部署の人たちは知らない。そして、係長が仕事のために会社に戻ることもまた、この席に近い人しか知らないだろう。
だから何も知らない人たちは、私と係長が同時にいなくなったことを『二人でイケナイコト』をするためだと誤解するんじゃないだろうか……。すでに笑みを交わしている場面を見られていて、誤解の素地はある。
それは困る。非常に困る!
これ以上噂になったら、係長のファンに総スカンを食らうこと間違いなしだ。
今まで面白半分に広められていた噂と違って、『飲み会を二人で抜けた』というシチュエーションは妙に現実的だ。仲を誤解する人は多いだろう。
それに、心配なのは係長ファンのお姉さま方だけではない。
その噂が巡り巡って三条家に届いたりしたら、藪を突いて蛇が出てしまうじゃないか!
透兄さんが関わってないだけに、伯父さんとかお祖父ちゃんの反応がそら恐ろしい。
でも、歓楽街を一人で歩くのは怖いし、係長がせっかく送ってくれるっていうのを今さら断るのも……
グラスに口をつけながら、私は密かに決心した。とにかくこのイケメンパラダイスな席から離れることにしようと。二つの席がぽっかり空くより、別々の席から抜ける方が、目立たずに済むはずだ。
そう考えていると、実にタイミングよくビールのグラスを手に課長が係長のところにやってきた。
「仁科君、乾杯だ」
「課長」
仁科係長はにこやかに微笑むとウーロンハイのグラスを課長のビールグラスと合わせた。
「いつも君には世話になってるからね。こういう時でないと、じっくり礼も言えん」
「そんな、礼には及びません。少しでも課長のお役に立ちたくて」
「君が部署の方をきちんとまとめてくれているから、俺は安心していられるんだよ」
と、お互いを讃え合う上司二人。
これは、席を離れるチャンスだ。係長が課長のお相手をしている間に、私は別の席に移るのだ。
ちょうど、話をするため席を立つ人が出始めたから、あっちこっちに飛び石のように席が空いてる。
あそこに移ればいい。そう思って、腰を浮かした時だった――係長が顔を課長の方に向けたまま、私の腕をつかんだのは。
え? と思う間もなく、引っ張られてストンと席に戻された。
「――へ?」
係長は課長のいる反対側を向いたままだ。こっちは全然見てない。見てないのに、なのに、手だけはしっかりと私の腕をつかんだまま離さない。
こ、これじゃ席、移れないじゃないですか!
隣でボソッと田中主任が「諦めろ」とつぶやいた。
何で――――!?
私は内心、絶叫した。
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