4番目の許婚候補

富樫 聖夜

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3巻

3-3

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 何で私は席を移っちゃいけないの? それと、何で係長は私の腕をつかんだままなの?
 つかまれた手首と、反対側を向いて課長と話している係長の後頭部を交互に見ながら、私は混乱していた。
 幸い、机の下の出来事だったから、係長に腕をつかまれているのが他の人からは見えない。だけど、こんなことをする係長の意図がさっぱり分からなかった。
 だから隣で「諦めろ」と、忠告めいたつぶやきを発した田中主任の方を見て、今の状況について問いかけた。といっても口にしたわけじゃなくて、反対側の手でつかまれている手首の部分を指差して「コレナニ?」と目で訴えるというものだったけど。
 主任はなにやら微妙な顔つきで私と私の腕をつかんでいる係長の手を見て、小さな声で言った。

「お前に席を移るなと言ってるんだろうさ」
「いや、それは分かるんですけど、理由が……」
「お前に隣にいて欲しいんだろうさ」
「だから、なぜ?」
「……自分で考えろ」

 主任は「なんでこんなことも分からないんだろなぁ」と言わんばかりの口調だった。しかもなぜか痛い子でも見るような目で私を見ている。
 目の端に映った主任の向かいの川西さんまで生暖かい目を向けてくるし、私はますます訳が分からなくなった。
 どんな理由があって、係長は私を隣に置きたがるのだろうか。私が隣にいなきゃ駄目な理由。それは何?
 ……さっぱり思いつかない。
 だけど、ふっと視線を店の奥に転じた時、またもや教育事業本部の女性社員数人と視線がかち合い、不意に理解できた気がした。
 ここで私が課長に席を譲っても、課長はきっとまた誰かに話しかけるためフラフラ別の席に行くだろう。この席は、ここにいる女性の大半が座りたがる席だ。空いたらすぐさま誰かが座る。
 そう。係長狙いの女性が!
 でも係長は会社の女性とは付き合わないと決めているようなので、こびを売られてもわずらわしいだけだろう。水沢さんによると、係長があまり飲み会に出ないのは、そのせいもあるらしいから。 
 つまり、係長は私が席を立って、代わりに自分に気がある女性に座られるのが嫌なんだ。面倒だから。だから私をここに留めておきたい。

「何となく理由分かりました」

 私は訳知り顔でうなずいた。要するに、女けだ。

「いや、たぶん、お前の考えてることは違うと思うぞー?」

 主任が何やら小声でつぶやいていたけど、係長が私の腕をつかんでいる理由を察してすっきりした私は、あまり聞いていなかった。
 そう、女避けだ。だから私の逃亡を阻止そししたに違いない。係長はモテるし、恋人はとっかえひっかえだけど、女性に囲まれて喜ぶタイプじゃないから。 
 私は自分のつかまれた腕に視線を落として、次いで係長の柔らかそうな髪におおわれたうしろ頭を見て、うん、と心の中でうなずいた。
 これ以上、女性社員の方々ににらまれたくはないけど、仁科係長にはすごくお世話になってるし、いつも助けてもらっている。だから今度は私が彼を助ける番だ。
 やってあげようじゃないですか、女避けを!
 私は心の中で握りこぶしを固めてそう決心した。そして、なぜか決心してしまうと、さっきまで気にしていたことが嘘のように気にならなくなった。噂とか女性社員のお姉さま方の視線とかが。
 考えてみれば、顰蹙ひんしゅくを買うのは今に始まったことじゃないし、すでにたくさん買っている。
 それに、懸念している帰りの時も、係長に時間を指定してもらってさり気なく別々に出れば、それほど目立たないで済むかもしれない。 
 なんてことをつらつら考えていると、やがて話を終えた課長が教育事業本部の主任のところに行ってしまう。係長はそれを見送り、私の方を急に振り返った。
 思わず、うっと身構えると――

「俺から離れない方がいいよ?」

 笑顔で私の手を離しながら、開口一番そう言った。

「――はい?」
「俺の傍から離れない方がいいってこと。でないと、ここを出る時に事情を知らない人たちの前で君に声を掛けて店を出ることになるよ?」
「……ゲッ」

 私はその場面を想像して青ざめた。そう。こんな場面を。


 ――門限のせいで私が早く店を出ることも、係長が会社に戻るために切り上げることも知らない人たちの前で係長が私に呼びかける。係長のことだから、もしかしたら笑顔で言うかもしれない。

『上条さん、もうそろそろ帰る時間だよ』 

 そしてみんなの前で揃って店を出て行く二人――


 洒落しゃれにならーん! 何かのフラグがいっぱい立つよ! 非常階段に呼び出しとか、強制婚約とかいう名のフラグが!

「噂になるかもね。それはマズイだろう?」

 天からの声――いや、悪魔からの声に、私はコクコクとうなずいた。

「でも、この席なら事情を知ってるメンバーばかりだから気にすることはない」

 私はさらにコクコクとうなずく。

「だから、君はここで俺の隣にいたほうがいいと思うよ」

 私はうなずきかけて、アレ? と思って顔を上げた。

「あれ? 係長が私を引き止めたのって、それが理由ですか? 女けじゃなくて?」
「……女避け……?」

 今度は係長が首をかしげる番でした。

「そうきたか……」

 隣で田中主任がつぶやいている。何がそうきたのかは分からないけど、係長の様子じゃどうも女避けは私の思い違いだったようだ。

「女避け……女避けね。……そうだね、女避けもしてもらおうかな」

 すばやく驚愕きょうがくから立ち直った係長がうっすら笑みを浮かべながら言った。

「え?」

 おなじみの警戒モードに入る間もなかった。

「だからね、上条さん」

 笑みを浮かべたまま係長が私を見下ろす。

「そう、女避けのためにも、君は俺の傍にいなくちゃいけないよ」
「……へ?」
「いいね?」

 にっこり笑う係長。その笑顔と有無を言わさない口調で念を押されて、私は思わずうなずいていた。
 って、あれれ? ……確かに元々、女避けしてあげようと決心していましたよ?
 だけど……何かが違う。激しく違う気がする。
 に落ちないものを感じて係長をうかがうも、目が合うと係長は眼鏡の奥で目を細めて笑うだけ。しかも私の巨峰サワーが残り少なくなっているのを目ざとく見つけ、メニューを私に渡しながら言った。

「はい。途中で抜けようが会費は取られるんだから、今のうちにどんどん頼んでおいたほうがいいよ」
「え? あ、そうですね」

 胸の中でもやっとしたものを感じつつ、私は言われるがままにメニューに視線を落とした。
 ――そんな係長とのやり取りや、依然いぜんとして心の中で渦巻くもやもや感、そして会費分を回収しようとする貧乏根性に気を取られていた私は気付かなかった。

「上条ちゃん、丸め込まれてるわよー」
「それ以前に、あんなにあからさまなのに、なんで気付かないのか、俺はそっちの方が不思議でたまらん」

 もどかしそうに川西さんと田中主任がそんなことを小声で話しているのも、部署のみんなが、こんなことを言っていたことも。

「すごい会話聞いちゃったわ。ツッコミ所満載」
「係長、策士ですね。上条さんの逃げ場、全部奪いましたよ」
「ってか、仁科係長って意外と押しが強いんだね。いや、押しが強いというか……腹黒い?」 

 そして――

「ライチサワーなんて美味しそうですね」
「マンゴーサワーなんてのもあるよ」
「あ、それも美味しそうです。迷います」
「両方とも頼めば? 飲み放題なんだし」
「帰るまでに二杯も飲み終わりますかね? それにいきなり大量に飲んじゃうと酔っ払うかも……」
「少し酔ってもちゃんと送っていってあげるよ」
「あはは、ありがとうございます。んじゃ、お言葉に甘えて両方とも頼んじゃおうかな?」
「そうしなさい」

 ――私たちの会話が傍から見るとまるでバカップルのようだった、なんてことも。


   * * *


「係長、お待たせしました!」

 私は居酒屋の外で待っていてくれた係長のところへ小走りで駆け寄りながら言った。
 さすがに堂々と二人で店を出るわけにはいかなかった。先に係長が店を出て、それから十五分くらい経ったら、今度は私が出るという具合で待ち合わせた。
 係長を待たせるのが悪くて、最初は私が先に出て待つという案を出したのだけど、歓楽街で危ないからと即却下されたのだ。
 確かにこの場所で女一人、十五分もポツンと立っていたら、酔っ払いとか客引きとか、いろいろ危ないかもしれない。そう考えて、私は係長に甘えることにしたのだった。
 待たせてすみません、と頭を下げる私に係長は優しく笑う。

「ちょうど携帯で家族に連絡したりしていたから、そんなに待った気はしないよ。だから気にしないで」

 それは私を気遣う言葉でもあったし、本当のことでもあったようだ。なぜなら係長の手には携帯電話が握られていたから。
 この間、番号を交換し合った時に見た黒い色の携帯なので、プライベート用なのは確かだ。

「明日は土曜日だから、久しぶりに実家に帰ろうと思ってね。……というより、帰ってくるように催促さいそくされたと言った方が正しいか。もう三ヶ月以上実家には近づいてなかったから」
「三ヶ月ですか。それは家族の方も心配するでしょうね」
「そうだね。でも帰るといろいろうるさいことを言われるから、つい足が遠のいてしまうんだよ」

 係長は携帯をスーツの内ポケットにしまいながら苦笑した。

「じゃ、行こうか」
「はい」

 二人並んで、ゆっくりと駅に向かって歩き出す。
 私はネオンの中を歩きながら、係長が言った「実家」が昔何度か遊びに行ったことのある「美代子みよこおばあちゃんの家」であることを今さらながら思い出していた。そして、こそばゆいような気持ちになる。
 係長の実家――佐伯邸。美代子おばあちゃんの家。
 お祖母ちゃんに連れられて、何ヶ所か「お祖母ちゃんのお友達の家」に遊びに行ったことがあるけど、その中でも美代子おばあちゃんの家は大きくて立派で、三条邸に劣らぬ豪邸だった。
 といっても子供だった当時の私には豪邸っていう感覚はなくて、探索のしがいがある広い家という認識だったのだけど。
 あの家で係長は育ったのだ。
 私は美代子おばあちゃんを思い出しながら、係長に言った。

「あの、さっきのことですけど、親はいつまで経っても子供を心配するものですから、時々帰ってあげて下さいね」 

 会社では驚くほど係長のプライベート、というか家族の話は秘されている。
 それは当然といえば当然なのだけど、それでも家族構成くらいは知られていてもおかしくなさそうなのに、それも明かされていない。事情通の水沢さんでさえ、係長のご両親は二人とも健在と思っている。係長の家庭の事情を知っているのは私と、おそらく田中主任くらいだろう。
 今、私は係長に「親は」って言ったけど、彼のお母さんはすでに亡くなっている。身体が弱くて彼が物心つく前に死んでしまったのだ。そして、亡くなったお母さんに代わって係長を育てたのが美代子おばあちゃんだった。

「そうだね。確かに心配をかけていると思う」

 係長はそう言って苦笑した。今、係長の頭に浮かんでいるのは、美代子おばあちゃんに違いない。
 そう思うと不思議な気持ちになった。私の知っているあの美代子おばあちゃんが、係長と血が繋がっているなんて……
 美代子おばあちゃんに男の子の孫がいることは知っていた。時々、うちのお祖母ちゃんと話している場面で『××君は最近どうしてるの?』と、名前も挙がっていたはず。
 今から考えるとそれは「彰人君」だったわけだけど、当時私は子供で、会ったこともなくて、年も離れている美代子おばあちゃんの孫にあまり興味がなかったから、全然頭に入ってなかったのだ。
 何回か遊びにいったけど、私は一度も係長に会った記憶はないし。
 だけど、ふと当時の透兄さんのことを思い出して、それもあり得ると私は思い直した。
 係長と同じ年の透兄さん。中学から高校にかけて、透兄さんは生徒会の用事とか習い事(主に武術関係)で、毎日がすごく忙しそうだった。係長も似たような生活していたのかもしれない。
 もし係長と会う機会があったとすれば、係長のお祖父ちゃんのお葬式の時か、私のお祖母ちゃんのお葬式の時だけど……
 だけど、係長のお祖父ちゃんの時はお焼香だけして、透兄さん以外の従姉妹いとこたちと一緒にすぐ帰されてしまったし、お祖母ちゃんの時はショックで記憶が半分飛んでいる状態で、美代子おばあちゃんにすがってわんわん泣いたことしか覚えていない。
 そんな当時のことを思い出しながら、ふと気付く。 
 ……そういえば、お葬式のあと体調を崩したと聞いてお見舞いにいって以来、美代子おばあちゃんとは会ってない。
 具合があまりよくなく、療養のために東京を離れたと聞いた。すっかり疎遠そえんになってしまったけれど、今、美代子おばあちゃんはどうしているのだろうか。前に透兄さんが会社に来て、係長と一緒にうな重を食べにいった時の会話では、一応元気になったみたいなことを言っていたようだけど……もうこっちに戻ってきてるんだよね? 快復しているんだよね?
 尋ねたいけど、係長にだけはそれを聞くことができない。モヤモヤしながら歩いていると、不意に係長が言った。

「そういえば、上条さんに門限があるのは、一人暮らしをするためなんだって?」

 私は一瞬ギクッとした。
 ちょうと透兄さんのことを思い出していたので、心の中を読まれてしまったようでドキッとした。何しろ係長は知らないだろうけど「引っ越しの話題=三条家の話題」なのだから。

「ええええ、えっと、どうして知ってるんですか?」
「雅史が……田中主任がそんなことを前に言っていたから。たぶん、あいつは川西女史か水沢さんあたりから聞いたんじゃないかな」

 さもありなん。仲のいい彼女たちには、門限に協力してもらうために、当たり障りのない程度で理由を話していたからだ。そしてとくに口止めもしていなかったから、巡り巡って主任や係長にまで話が届いていてもおかしくない。
 おかしくない、けど。

「なんで一人暮らしするのに門限が必要なの?」
「え、えと、ですね」 

 ……言いづらいことこの上ない。何しろほんのちょっとだけ係長に関係していると言えなくもないから。
 だけど、他の人にはペラペラ話していることをこの人にだけ秘密にするのも不審を買うだけだろう。私は仕方なしに、水沢さんたちに話した通りの、本当だけれど当たり障りのない理由を口にした。

「一人暮らしすること、両親は賛成してくれたんです。これも人生経験だからって。だけどですね、親戚が反対しまして――従兄弟いとことか伯父とか祖父が。女の一人暮らしは危険だからって」
「……だろうな……」

 ボソッと係長が口の中でつぶやいた言葉は私の耳には入らなかった。

「だけど私、どうしても一人暮らしがしたいんです。だって、通勤に片道一時間半かかるんですよ。会社から支給されるとはいえ、定期代も馬鹿にならないし」

 私は拳をぎゅっと握って力説した。

「その定期代に少し足せば家賃くらいにはなると思うんです。幸いうちは住宅手当が出るからそんなに負担じゃないし、時間の節約にもなりますよ。それに、自立することも大切ですよね。同じ年の従姉妹いとこだって一人暮らししているのに、私だけ駄目なんて納得できないですよ」

 もっとも、その従姉の舞ちゃんの一人暮らしは完全に従兄弟の――涼の手の内なのだけど。そして、私もその手の内に入るなら一人暮らししてもいいと言われた、けど。
 ……だけどそれは本当の意味での一人暮らしじゃない。

「結局、両親と従姉妹たち皆が私の味方をしてくれたので、しぶしぶ従兄弟たちも一人暮らしを認めてくれたのですが……」
「条件として門限を言い渡された……?」
「はい。一年間門限を守って外泊もなしという規律が守れたら一人暮らしを認めてやるって」
「おやおや。それは厳しいね」
「たぶん、守れないだろうと思って提案したんじゃないかと思うんですよね……」

 高校生なら夜十一時の門限は守れると思う。だけど、通勤に往復三時間も費やさなければならない社会人にはかなりキツイ条件だ。
 何しろ夕飯を食べて少し話をしただけですぐ帰る時間になる。飲み会も同様だ。断るかいつも途中で抜けることになる。それを一年も続けたら、交友関係に多大な影響を与えることは必至だ。
 私がギブアップするのを狙って出した条件なのだろうと疑うのは考えすぎじゃないと思う……

「でも、何とか今まで門限を破らずにこれたんですよ!」

 私は笑顔で言った。
 交友関係に多大な影響を与えるかもしれないなら、それを逆手さかてに取ればいいのだ。そう考えた私は友達から同僚から片っ端から理由を話して協力を仰いだ。それが効を奏したのか、ついおしゃべりが楽しくて時間を忘れてても、友達がそれを教えてくれるようになったのだった。
 おかげでこのまま順調にいけば、来年には念願の一人暮らしができるようになるはず……! 

「一年の期限まであとどれくらい? 確か三月の頃はすでに門限って言っていたよね」
「来年のお正月です。今年の年始にその約束をしたので」
「……へぇ。じゃあ、もうすぐ約束の期限に達するんだね」
「はい!」
「楽しみだね」

 にっこりと係長は笑った。
 その笑顔は――いつもの係長の笑顔だった。少なくとも店の明かりやネオンに照らされて見える係長の眼鏡の奥の目は笑ってて、含みがあるようには見えなかった。
 なのに、なぜだろうか。一人暮らしのことを考えて弾んでいた心に一瞬だけ、影のように差したこの不安は。

「どうしたの?」

 急に笑顔を消した私に、不思議そうに係長が問いかける。

「え、いえ、何かふと嫌な予感がした気がして……」
「嫌な予感?」
「はい。い、いえ、きっと気のせいです」

 私は慌てて手を振った。
 あまりに順調に門限を守れているから不安になったに違いない。あの二人が妨害工作してもおかしくないのに、そんな形跡もなくここまで来れてしまったから。

「……動物的勘ってやつかな」

 軽く目を見張った係長がつぶやく。だけどそれは本当に小さな声で、私には何を言っているのかよく聞き取れなかった。

「は?」
「……いや。俺も一人暮らし歴が長いからね、何か分からないことがあったら遠慮なく言いなさい」
「はい。ありがとうございます」

 社交辞令かな? と思いつつ、笑顔で係長にお礼を言った時だった。
 不意にクラブっぽいところの扉からふらふらしながら出てきた中年男性が、目の前を通り過ぎる私に目を留めて話しかけてきた。

「おー、お嬢ちゃん、可愛いね。おごるからオジサンと一緒に飲んでいかない?」

 思わず立ち止まって振り返ると、そこに居たのは見知らぬ赤ら顔のオジサンだった。
 スーツを着ているから恐らくサラリーマンだろうが、かなり酔っているらしくろれつが回ってない。ヨレヨレの上着に、ネクタイは辛うじて首に掛かっているという状態の完全に酔っ払いだ。
 うん。酔っ払いは無視するに限る。私はそう思って何も聞かなかったことにして、そのまま通り過ぎようとした。
 だけど、どうやらオジサンは私の反対隣にいる係長に気付いてないらしい。私が一人で道を歩いていると思ったようだった。ふらふらと追いかけてきて、

「金曜日の夜にお嬢ちゃん一人か? よしよし、おじさんがなぐさめてあげよう」

 と、冗談とも本気ともつかないようなことを言って、私の腕を取ろうとする。 
 しつこいぞ、オジサン! 
 キッと振り返って断りの言葉を発しようとした時だった。私の背中に手が回り、オジサンの手からかばうように温かな身体に引き寄せられたのは。

「連れに何か用ですか?」

 頭上で冷ややかな声がした。私をかばってくれたのは――もちろん係長だ。

「な、なんだ男連れじゃないか」

 酔っ払いのオジサンはそこでようやく係長に気付いたようだった。さらに、自分より背の高い男が上から冷たい目でにらみつけてくることに怖気付いたらしい。

「そんなら用はないよ。邪魔して悪かったな」

 オジサンは上ずった声を発しながら後退あとずさった。係長はそんな酔っ払いおじさんをふたたび冷たい視線で一瞥いちべつしたあと、

「行こう」

 と背中に回した手で私をうながす。
 私は「はい」と小さく返事をしてふたたび歩き出した。もちろん酔っ払いオジサンはそれ以上追いかけてくることはなかった。


 少し離れた場所まで来ると、私はハァーと安堵あんどの息をついて係長にお礼を言った。

「係長ありがとうございました。助かりました」

 本当に、一人で歩いていたらもっとしつこく絡まれていたことだろう。

「いや、俺が一緒にいながらあんなのに声をかけられる隙を与えてしまって悪かった」
「そんなことないですよ。あの人は酔っ払って係長に気付かなかっただけです」

 もし素面しらふだったらこんなイケメンに連れられた女性に――たとえカップルに見えなかったとしても声をかけてくる男なんていないだろう。自分と比べて女性がどっちに付いて行くかなんて、考えなくても分かる。

「そうか、それならちゃんとカップルらしく寄り添って歩くことにしようか。これなら俺が目に入らないなんてことはないだろう?」

 くすくす笑いながら係長が言った。その言葉に私はハッと今さらながら気付く。
 背中に手、触れてる……?
 さっき係長が私の背中に手を回して酔っ払いからかばってくれ、促されてそのまま歩き出したため、彼の手はそのままだ。
 なのに今までなぜ私が気付かなかったかというと、酔っ払いのオジサンから離れることに気を取られていたのと、背中に触れた手があまりに自然だったからだ。
 あからさまに触るのではなく、触れているか触れてないか分からないくらいに微妙な――添えられているという表現が相応ふさわしいような触れ方で。なのに、いったん意識すればその触れた手から伝わる温かな体温が感じ取れてしまって……
 心臓がドクンと鳴った。
 一番身近なあの従兄弟いとこ二人にだって、こんな風に触れられたことはない。
 背中に手を当てて、エスコートするように歩くだなんて、まるで親密な男女のようだ。少なくとも部下と上司ではあり得ない。 
 これは、あれですか? 二人連れですよ、カップルですよというのを回りにアピールするためですか?
 ……そうに違いないと思うものの、ブラウス越しに触れている背中の部分がすごく熱く感じられて、カァッと顔まで熱が回るのを感じた。
 鼓動がドクドクと早打ちする。普段は意識しない、心臓が激しく脈打って血液を体内に送り出しているのが感じ取れるくらいに。鼓動の音は耳の奥でも鳴り響き、繁華街の喧騒がかき消されてしまうほどだ。
 この心臓の音、背中とはいえ係長の手のひらに伝わってしまうんじゃないだろうか。そう考えるとよけいにドキドキした。


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