4番目の許婚候補

富樫 聖夜

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4巻

4-2

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 ――羊の皮を被ったおおかみが、笑顔でそう言いました。


 昨夜のことは夢だと思い込もうとした私だが、オートロックのマンションの中に課長がいるという事実に気付いてしまった。
 頭の中で警告音がガンガン鳴り、渋る私を課長は巧みに懐柔かいじゅうする。

「朝食――といっても、もう昼食みたいなものだけど、食べたらこの辺を案内するよ。上条さんが知っているのは、駅前の商店街だけだろう? それ以外にも色んな店があるし、銀行や郵便局、それに何より役場の場所を知っとかなきゃね?」

 ――役場。その言葉に私はピクッと反応した。
 そう、引っ越したということは、住民票を移す必要があるということ。つまり役場に転入届を出さないといけないのだ。それに郵便物を新しい住所に転送してもらうため、郵便局にも転居届を出さなきゃならなくて……
 今日は日曜で役場や郵便局は休みだから、平日に行って手続きする必要がある。だけど平日は仕事なので早退させてもらうか、出勤を少し遅らせてもらうしかない。その場合、役場や郵便局の場所を把握しているのといないのとでは、大違いなのだ。
 もちろん、人に道を聞いたりネットで場所を調べたりする方法もあるけれど、実際にそこへ連れて行ってもらうのが一番早いのは確かだった。
 私はモニターの中の課長をちらりと見る。
 眼鏡をかけて、少し前髪を上げたそのスタイルは、やっぱり会社で見る彼と全く同じ。口調もそう。柔らかくてちょっとさとすような言い方から、昨夜豹変ひょうへんした時みたいな押しつけがましさは感じられない。
 ……大丈夫だよね? だって外に出れば人目があるし。
 本能が警告音を発しているにもかかわらず、私は寝不足の頭でそう判断してしまった。

「……そうですね。お願いします」

 そして元々外出するつもりでクローゼットから出しておいたコートとバッグをつかみ、玄関に向かう。
 玄関のドアを開けると、課長は私の顔を見てにこっと笑った。

「おはよう、上条さん」
「おはようございます、課長」

 反射的にそう返した私に、課長は笑顔のまま言った。

「七十点」
「へ?」
「警戒してすぐにドアを開けなかったところは合格。だけど、ちょっとつついただけで警戒を解くのはまだまだ甘いね。それも昨日の今日で、俺相手にそんなに簡単に開けてはダメだよ」
「――へ?」
「昨日、はっきり言ったはずだけどね? 君を手に入れるって。その俺をこうして迎え入れてくれるってことは、俺の宣言を了承したものと解釈されてもおかしくないよ」

 な、何だそれは! 役場とか郵便局とか魅力的な単語を出してドアを開けさせたのは、そっちのくせに!
 あまりの言い草に反応するのが遅れてしまい、ドアを閉めようとした手をつかまれてしまう。
 ひぃ、と顔を引きつらせる私に、にっこり笑う課長。

「何もなかったことになどさせないと、昨日言っただろう? さて、じゃあ、ごはんを食べに出かけるとするか」
「や、やっぱり行きません!」
「なら、部屋で食べるかい? 宅配ピザでも取って、二人きりで過ごすのもいいね」
「遠慮します!」

 私はブンブンと首を横に振った。ベッドのある密室に二人きり? そんな危ないこと、できるかーーー!
 まるで首振り人形のごとく首を横に振り続ける私に、課長が笑みを深くして言った。

「外で食べるか、部屋で二人で食べるか。二つに一つだ。選ばせてあげるよ」

 そうなると、私が取れる選択肢は一つしかなかった――


 三十分後、私たちは人でにぎわうベーグルの店にいた。

「わりと最近できた店なんだ。色々な種類があって人気なんだよ」

 店先には、テイクアウト用のベーグルが何種類も並べられている。店の奥には落ち着いた雰囲気の喫茶店が併設されていた。
 人気というだけあって、席はほとんど埋まっている。ブランチを楽しむ親子連れや、本を片手にベーグルサンドを口に運ぶ『お一人様』な女性、ノートパソコンを開いて仕事をしているサラリーマン風の男性、そして何組ものカップルたち。
 ……私たちも、カップルに見えるのだろうか。
 私は目の前に座る、私服姿の課長にちらりと視線を向けた。さっきと違い、眼鏡はかけていない。課長の方もちょうど私を見ていたらしく、目が合ってしまい、にこっと微笑まれる。だけど私は、引きつった笑みしか返せなかった。だって。だって。
 ――どうして私、こんなところにいるんでしょうねぇぇ?
 という疑問で頭がいっぱいだからだ。

「詐欺だよ……」

 ベーグルのツナサンドに口をつけながら、嘆く私。

「何が?」

 と応じた課長は、ベーコンエッグベーグルサンドを食べていた。彼はここに来るまでの間にいつの間にか眼鏡を外し、イケメンオーラと男の色気をこれでもかとばかりに発しまくっている。
 お一人様な女性はもちろん、カップルの女性までもがちらちら見てくるものだから、落ち着かないったらありゃしない。だって必ず、連れである私も見られるんだもの。
 被害妄想かも知れないけど、「何であんな子が?」って思われている気がする。

「何もかもがです」

 そう答えながら、本当に何で私なんだろうと思った。
 これだけ素敵な人なのだから、どんな美女でも選び放題なはず。現に今までの恋人は、全員美人で仕事もできて、自分に自信があるタイプの女性ばかりだった。
 それを思うと、私は課長の好みからかけ離れている。自信なんてないし、仕事ぶりも普通だ。従姉妹いとこたちと違って美人でもない。この人の隣に立つのに相応ふさわしいとは、どうしても思えない。自分でもそう思うのだから、他人からはさぞ不釣り合いに見えるだろう。
 ……なのに、どうして?
 この人に限って、人をからかうためにあんなことを言い出すとは思えない。だからこそ、戸惑ってしまうのだ。

「あの……いつからなんですか? 私、ちっとも気付いてなくて……」

 私は目の前の人をちらっとうかがいながら尋ねた。「私を好きになったのはいつ?」とはっきり聞くのが恥ずかしくて曖昧あいまいな言い方をしてしまったけど、言いたいことは伝わったらしい。
 課長はふっと笑って答えた。

「けっこう前からだよ。かなり意思表示しているつもりだったけど、君には全然気付いてもらえなかった。わざと気付かないフリをしているんじゃないかと思ったりもしたよ」

 あれ? 笑顔の向こうに、黒いオーラが見えるような……?

「こっちの口説き文句は全てスルー。もしくは冗談だと思っていたよね」

 課長は不意に笑みを消し、真剣な眼差しで私を射抜いた。

「ここではっきり言っておこう。俺は思わせぶりなことを冗談で言ったりはしない。本気にされると後々面倒だからね。だから、これまで君に言ってきたことは全て本当だよ」

 口説き文句……そんなのあったっけ?
 具体的にどんな台詞せりふだったのか聞きたかったけど、それを聞いたら課長のオーラがさらに黒くなる気がして口には出せなかった。
 とりあえず、けっこう前かららしいことは分かった。それってあの、猫のマナちゃんに似ていると言われて頭を撫でられた時からだろうか。
 でも、あの時の私はまだ課長を警戒していた。だからそんな目で見られていたとしたら、気付いたと思うんだけど……
 そう思って恐る恐る尋ねたら、課長に否定された。

「いや、あの頃も確かに気にはなっていたけど、頭を撫でたのは純粋にマナに似ていると思ったからだ」
「そうですか……」

 私は、それが課長の気持ちに気付かなかった原因の一つかもしれないと思った。
 あの時、課長は私のことを、愛玩動物か親戚の女の子みたいに扱っていた。その頃の課長からは恋愛感情とか性的関心とか、そういう色っぽいことなど一切感じ取れなかったのだ。
 だからこそ徐々に警戒モードを解いていったわけだけど、逆にそのイメージにとらわれて鈍感になっていたのだろう。
 課長から『思わせぶりなこと』を言われても、私はそこに恋愛的な意味があるなんて考えもしなかったのだ。
 そして私は、そういう関係がずっと続いていくものだと思い込んでいた。
 おかしいよね。人の心は変わるっていうのに。
 課長がはっきり言ってくれなければ、おそらく私は今もそう思い込んでいただろう。だって――それが一番安全だったから。
 ……そう、安全。なぜか私はそれが安全な気がしていて、そこからはみ出したくなかったのだ。
 けれど今、その安全な場所から引っ張り出されようとしている。

「君が俺と同じ気持ちでないのは分かってるよ」

 不意に課長が苦笑しながら言った。私は思っていたことを見抜かれた気がして、ギクリとする。そんな私を見て、くすっと笑う課長。

「戸惑っているのが顔に出ている。それに口説きながらずっと観察していたから、自分がどう思われているのかくらいは分かっているつもりだ。良い上司以上、恋人未満。好意はあるけど、恋愛感情ではない。そんなところだろう?」
「……はい」

 私はうつむきながら頷いた。
 だけど、本当は自分が課長をどう思っているのか、よく分からない。
 確かに同じ上司である田中たなか係長とは違う。課長はもっと特別だ。それは間違いないけど、その感情が三条家と佐伯家の関係からきているのか、それとは全く関係ないのか、判断がつかないのだ。
 今はとてもじゃないけど、課長に求められて嬉しいという気持ちにはなれない。むしろ、前の関係のままでいたかったと、そう思ってしまう。
 それは課長の気持ちを否定しているも同然だけど、今の正直な気持ちだった。
 本当に、どうしていいのか分からない。

「その関係性を打破しようと思って働きかけてきたけど、君の天然っぷりは思わず感心するほどだったよ。だけど、そこで足踏みしていたら何も変わらない。だから引っ越しを利用して、ぐっと近づくことにしたんだ」

 課長は私を見て笑みを浮かべる。でもその笑顔は、いつもの課長とは違って見えた。そう、まるで昨夜のような……

「良い上司の顔をしたまま徐々に君の心に食い込んでいくという手もあったけど、それだと時間がかかるからね。こっちも禁欲生活が長いし、諸々の事情もあってガツンと行くことにしたんだ」
「き、禁欲?」

 あれ? 何か話がまた変な方向に……?

「その件については追々、ね。さし当たっての目標は、その『良い上司』のイメージを崩して男として認識してもらうことかな」

 戸惑う私をよそに、課長はどこか楽しそうに続けた。

「良い上司の仮面を被り続けていたら、君はそのうち『やっぱり、あれは一時の気の迷いだったに違いない』なんて思い込みに逃げそうだからね。そうさせないためには、一気に恋人同士の関係になってしまうのが一番だけど――まだ機は熟してない。だから普通のお付き合いをしながら、俺に慣れていって欲しい」
「へ?」

 ……私、お付き合いするなんて一言も言ってないですよね? それ以前に、課長の気持ちの変化を受け入れられてないんですけど?

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、課長!」
「うん、待ってるよ。君のペースに合わせてあげる」

 目の前のイケメンが、にっこりと笑う。だけどその笑みは『仁科課長』のものとは明らかに違っていた。

「俺のペースで進めるつもりなら、きっと今頃君は俺と一緒にベッドの中だよ。何しろ俺は、君に『大人の恋人同士の関係』を教えたくてたまらないんだから」
「ベ、ベ、ベッド!?」
「だけど、昨日君のお父さんからお手柔らかにと釘を刺されてしまったし、俺自身もけじめをつけなくてはならないことがあるから、今すぐ君をどうこうするつもりはないんだ」
「そ、そうですか……」

 お手柔らかにって、そういう意味じゃないのでは!? って疑問はさておき、私はその言葉に安堵の息を漏らした。けれど安心できたのは、束の間のことだった。

「だからその間に、俺という存在に慣れて欲しい。良い上司でなく、男として見て欲しい。――これだけは言っておく。絶対になかったことにはさせない」

 そう言って、課長は真っ黒い笑みを浮かべた。この、のどかで明るいベーグル屋には全くそぐわない種類の笑みを。

「なかったことにされるくらいなら、今すぐ君をベッドに引きずっていく」

 ……すみません、気絶してもいいですか?


 恋とか愛とかいうのは、もっとふわふわした可愛らしいものだと思っていた。相手の一挙一動にドキドキして、甘酸あまずっぱい気持ちになって。「どこの少女漫画だよ」ってツッコミ入れたくなるような。
 だけど、現実は違っていた。
 確かに、課長の一挙一動にはドキドキする。でも違う――何か違う! このドキドキは、トキメキや胸キュンじゃない。明らかに何か別のものだと思う。
 それに私のペースっていうけど、今のところ何もかもが課長のペースだ。

「――というわけで、よろしくね。まなみ」

 そう、にっこり笑って宣言する彼を前に、私は引きつった笑みを浮かべるしかなかった。
 ――何もかもが夢だったらよかったのに。そう思いながら。



 第2話 後悔先に立たず


 翌日の月曜日。いつもより早めに会社に着いた私は、少しあとに出社してきた川西かわにしさんを、給湯室へ引っ張り込んだ。

「猫かぶりで、腹黒で、Sで、オマケに俺様だったんですーーーー!」
「ちょ、ちょ、ちょ、上条ちゃーん?」
「腹黒で俺様なんて従兄弟いとこたちだけで十分だっていうのに、加えて猫かぶりとS属性まであわせ持った人だったんですよ!」
「落ち着いて上条ちゃん。主語が抜けてるから、何のことだかさっぱり分からないんだけど?」
「もちろん、仁科課長です!」

 困惑しながらもなだめるように言った川西さんに、私はきっぱりとした口調で答えた。田中係長の恋人であるこの人なら、絶対に課長の思惑を知っていると確信していたからだ。

「……課長?」

 川西さんの眉がぴくりと上がる。

「住んでるの、同じマンションだったんです!」
「同じマンション?」
「はい。前に言ってたマンションではなくて、私が住んでるマンションの最上階に引っ越したって。それで――」
「上条ちゃん」

 川西さんは私の言葉をさえぎり、両肩をがしっとつかんで笑った。だけどその笑顔はやたらと迫力があって、私は思わず続きの言葉を呑み込む。

「最初から最後まで、順番に話して?」

 肩を掴まれたまま妙に優しげな声でうながされ、私はコクコクと頷かざるを得なかった。


 そうして川西さんに、引っ越しの日にみんなが帰ったあとの出来事と、昨日あったことを説明した。話が進むにつれて川西さんの目がどんどんつり上がっていくのが、正直怖い。

「あの腹黒め……!」

 付き合うことが決まったところまで話すと、川西さんは吐き捨てるようにそう言った。そして「ちょっと待ってて」と言い残して、ヒールの音を高く響かせ給湯室を出て行く。やがて田中係長の耳を引っ張りながら、二人で給湯室に戻ってきた。
 毎週月曜の朝一には管理職のミーティングがあるのだが、どうやら係長はミーティングを終えて部署に戻ってきていたらしい。ちなみに仁科課長と田所たどころ部長は別の部署との会議があるため、戻らずにそちらへ向かったはずだ。そのあたりのスケジュールはばっちり把握している。何しろ秘書業務もやってますから。
 課長のスケジュールを確認した時は正直、会社で顔を合わせる時間が減ってホッとした。だっていつものようにふるまえる自信は全くなかったから。

「いてててて、そんなぐいぐい引っ張るなよな。……おう、上条おはよう」

 田中係長は顔をしかめながらも、私の姿を見て軽く手を上げた。目を丸くしつつも、私は律儀に応える。

「お、おはようございます。係長」
挨拶あいさつはいいから。係長、どういうことなのか説明して! 課長が上条ちゃんと同じマンションに引っ越したなんて、初耳なんですけど?」

 係長の耳たぶを強くつねってうながす川西さん。

「いててててて!!」

 あれは痛いわーと思いながら、私は目の前の二人のやり取りを見守った。


「何? あいつ、もう行動起こしたのか? さすが、時間を無駄にしない奴だな」

 川西さんから一昨日と昨日のことをざっくり聞いた田中係長の第一声はそれだった。そんな係長のスーツのえりつかんで、揺さぶる川西さん。

「感心している場合じゃないわよ! 係長、課長が上条ちゃんと同じマンションに引っ越すこと、知ってたんでしょう? 知っててあえて私に言わなかったんでしょう?」
「あー、悪い。知ってた」
「このぉぉぉ!」
「だってお前、言ったら絶対協力しないと思って」
「当然でしょう! 私は上条ちゃんが引っ越すのが課長と同じ街でも、住むマンションは離れているからと思って協力したのよ! 同じマンションだっていうなら、話は全く違うわよ!」
「だから言わなかったんだ」
「このぉぉぉ!」

 二人のやり取りを傍観ぼうかんしながら、私は「やっぱり」と思った。課長が私と同じマンションに住もうと画策していたのなら、この人たちがそれに関わってないなんてありえない。
 それに、ちょっとおかしいと思ってはいたのだ。他の部屋は難癖なんくせつけて却下し続けた川西さんが、あのマンションだけは絶賛していたし。あれって、どう考えたってあのマンションに住むよう私を誘導していたよね?
 そんなことを考えていたら、川西さんが係長の襟首えりくびに手を掛けたまま、私の方を振り返って言った。

「ごめんね、上条ちゃん。まさか課長がそんな計画を立ててたなんてちっとも知らなくて、手を貸しちゃったの」
「……あー、そうだと思ってました。でも、それって川西さんだけじゃないですよね?」

 先輩社員の水沢みずさわさんや、同期の浅岡あさおかさんも怪しい。みんなが見つけてきた物件のほとんどが、成約済みだったしね!

「ええ、みんなで課長に協力してあげようということになって」
「ちょ、何でみんなして私と課長を近づけようとするんですか! ……って、それじゃもしかして、みんな課長が私のことを、その……狙ってるって、前から分かって……?」

 私はそれに思い至って、思わず顔を引きつらせる。

「そりゃあ分かるだろう。分かってなかったのはお前だけだ」

 えりつかんでいた川西さんの手を外しながら、係長が呆れた声で言った。

「少なくともうちの部署の連中は、みんな気付いてるぞ。というか、あんなにあからさまだったのに、気付かない方がどうかしてる」
「そうそう。それで課長が気の毒になって、みんなで応援することにしたのよね」
「……」

 地味にショックだ。みんながみんな、課長の味方についてたってことが。課長に同情する前に、彼の気持ちを教えて欲しかったと思うのは私の我儘わがままですか!? ねぇ!
 ……いや、「気があるんじゃない?」という意見を「まさか」の一言でスルーしたのは私でしたっけね。そうか、自業自得か……

「で、付き合うことになったのか?」

 揺さぶられたせいでゆるんでしまったらしいネクタイをきゅっと締め直しながら、係長が私に尋ねた。

「そのことですが……どう考えたってマズイと思いません?」

 実は川西さんを朝から給湯室に連れて来たのは、そのことについての意見を聞きたかったからなのだ。
 ほぼ強制的に付き合うことになったけど、まだ三条家と佐伯家の婚約話が白紙に戻っていない以上、許婚候補である私と課長が付き合うのは、色んな意味でマズイと思う。
 今まで課長はひっきりなしに恋人を作ることで婚約話を停滞ていたいさせていたようだけど、私と付き合ったら、停滞どころか加速させることになるだろう。何せ両家にとって、願ったり叶ったりの状況なのだから。
 私たちが付き合っていることを、うちのお祖父ちゃんや佐伯家の美代子おばあちゃんに知られた瞬間、佐伯家と三条家にウェディングマーチが鳴り響くに違いない。
 そうなれば、婚約話を白紙に戻そうと頑張っている透兄さんたちの行動に水を差すことになる。婚約話を白紙に戻すための行動は、自分たちのことは自分たちの意思で決めたい、強制されたくないという、私たち全員の意思表示でもあるのだから。

「まあな、今の段階でお前たちのこと……というより彰人の気持ちが美代子おばあさんにバレたら、マズイ事態になるだろうな」

 私の話を聞き終えた係長が言った。

「だけど彰人は今すぐお前のことを家族に話したり、三条家の面前に突き出したりはしないと思う。今そんなことをしたら、お前に逃げられるのが分かっているからな。それに婚約話自体を白紙に戻すつもりでいるから、もう恋人がいることをたてにする必要もないだろうし」
「同じ理由で、三条課長たちがおじいさんにバラすこともないでしょうね」

 うんうんと頷きながら、川西さんが補足する。三条課長というのは、取引先である三条コーポレーションの営業企画部課長――つまり透兄さんのことだ。

「そうですか……」

 なら特に問題はないかもしれない。そう思いつつも、まだ胸の奥にもやもやしたものが残っていた。
 その不快な感覚にちょっと顔をしかめていると、係長がこちらを探るような目で見ながら言う。

「ところでお前、本当に付き合うのか?」

 それは思ってもみなかった質問だった。

「え? ……えっと、その……ダメって言ったところで、聞く耳を持ちそうな相手じゃないですし……」

 私が困惑しつつそう答えたら、係長はため息をつく。

「お前ね、簡単に流されるなよ。そんなんじゃ、彰人にいいようにされるだけだぞ?」
「あら、係長は上条ちゃんと課長をくっつけたいのかと思ってたわ」

 目を丸くして、意外そうに川西さんが言った。すると、係長は肩をすくめる。

「お膳立てはしてやったけど、そこまでだ。……とは言っても、こいつ相手だと、あいつの一人勝ちが続く気がしてならないんだが」

 係長が私を指差して言うと、川西さんが頷く。

「しょっぱなから、完全に押されてるものね。あのね、上条ちゃん。嫌なら無理やり付き合うことはないのよ。嫌がっているのに課長が聞く耳を持たないって言うなら、私が殴ってでも止めてあげるから」
「いえ、嫌ってわけでもないんです。だからこそ困ってるんです」

 私は苦笑しながら首を振った。
 そう。本当に嫌で逃れたいなら、恥をしのんで透兄さんたちに泣きつけばいい。「だから言わんこっちゃない」って怒られるだろうけど、透兄さんたちなら絶対に助けてくれる。それは確信していた。
 ……だけど困惑はしているものの、嫌で嫌で仕方ないとは思っていない。とはいえ、付き合いたいかというとそうでもなくて……

「ふむ……」

 係長はあごに手を当てて、私に再び問いかけてきた。


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