4番目の許婚候補

富樫 聖夜

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4巻

4-3

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「じゃあ、質問を変えよう。お前はどうしたいと思ってるんだ?」

 私はしばし考えてから、おずおずと答える。

「今日会社に来るまでは、なかったことにしたいと思ってました。今までのような関係がいい、上司と部下でいたいって。課長の気持ちを無視するみたいで悪いんですけど、そう願っていたんです。でも……」

 会社に来て、あるじのいない課長の席をぼんやり見ていたら、不意に胸が苦しくなった。もし付き合えないと言ったら、もう構ってもらえなくなるかもしれないと思ったからだ。
 頭を撫でられたり、目が合うと微笑みかけられたりしなくなるんだと思ったら――嫌だって思ってしまった。
 恋愛感情を向けられて戸惑っているくせに、特別扱いしてもらいたいとも思っている。すごく矛盾むじゅんしているのは、自覚しているけれど。
 私が課長を好きだからなのか。それともただの独占欲なのか。……さっぱり分からないものの、この特別な関係を失くしたくないのは確かだった。

「『佐伯彰人さん』に対してこんな感情を持つのはダメだって分かっていたのに、いつの間にか、私の気持ちは変化していたんです。でも、これが恋愛感情なのかは分からない。だって最初からあの人は、私にとって特別な存在だったから。私は彼の許婚候補の一人だってことを、いつだって意識していました。それが高じて、こんな感情を持つようになったのかもしれないじゃないですか」

 もし佐伯家とか三条家とか関係なく出会えていたら、こんな感情を抱いただろうか?

「ねぇ、それを確かめるために付き合ってみても、いいんじゃないかしら」

 川西さんが苦笑しながらも、優しく言った。

「付き合っていくうちに、その答えが見つかるかもよ? そうね、上条ちゃんがそれを見極めるまでなら、課長をどやしつけるのは保留にしておいてあげてもいいわ」

 と、何やら物騒な言い方をした川西さん。係長も苦笑して「無自覚かよ……性質たち悪いな」とぼそぼそつぶやいてから言う。

「まぁ、お前と彰人の間には、三条家と佐伯家の問題がいつも立ちはだかっているからな。お前がそれを通してしかあいつのことを見られないのは仕方ないと思う。反対に彰人はお前が三条家の人間だと気付いてないから、余計なことにとらわれずにお前を見られるわけなんだが……」

 そこまで言うと、係長は不意に真顔になった。

「なぁ、上条。これは三条とか佐伯とかに囚われず彰人を知るチャンスなんじゃないか? それにお前が気にしている両家の問題は、もうすぐ解決するはずだ。全てが白紙に戻れば、お前ももう少し違った見方ができるようになるかもしれない。早急に答えを出す必要はないんだ。そんなのは、あいつも望んでないだろうさ」

 ――その言葉は、やけに長く私の中に残った。


 部署に戻って仕事をしながら、私はちょっとだけ胸のつかえが取れた気がしていた。今なら課長と顔を合わせても平気だ。
 おかしいよね、だって今朝までは課長と顔を合わせるのをあれだけ怖がっていたのに。失くすのが嫌だと自覚したとたんに何かが変わってしまったみたい。
 川西さんや係長から言われたように、この感情の正体を見極めるためにも、一歩踏み出してみようかな……?
 そんな風に思えてきたのだ。
 もしかしたら、私は誰かに背中を押してもらいたかったのかもしれない――


 午前中の仕事である議事録の作成を終えた私は一息入れようと、携帯マグカップを片手に部署を出た。そして給湯室に向かっていたら、ちょうど会議から戻ってきたらしい課長とエレベーターの前でばったり出くわしてしまった。
 ぎくりとして、思わず足が止まる。
 課長は私の前までやってくると、昨日の腹黒男と本当に同一人物かと疑うほど、穏やかに微笑んで言った。

「おはよう、上条さん。いや、おはようっていってももう昼近いけどね」
「お、おはようございます。課長」

 答えながらも、カアッと顔が熱くなった。
 目の前にいるのは、よく見知っている『仁科課長』だ。だけど、私はもうこの人の別の顔を知っているし、相手が自分をどう思っているのかも知っている。それでも猫を被っていられる課長とは違って、私は何もなかったように平然とふるまうことなどできない。

「か、会議、お疲れ様です。ぶ、部長は?」

 普通に! そう自分に言い聞かせながらも、ぎこちない口調になってしまう。

「部長はまだ会議室だ。会議自体は終わったけど、人事部の部長と立ち話をしていたから、一足先に戻ることにしたんだ」

 課長は答えながら、真っ赤になった私の顔を見下ろし、くすっと笑った。……今の笑いは『仁科課長』より、昨日の腹黒男に近かった気がする。

「そ、そうですか」

 思わず腰が引けてしまったけど、逃げ出したいという気持ちにはならなかった。

『これは三条とか佐伯とかにとらわれず彰人を知るチャンスなんじゃないか?』
『それを確かめるために付き合ってみても、いいんじゃないかしら』

 係長と川西さんの言葉が不意によみがえった。
 なんとなく誘導されている気がしないでもないけど、ここで逃げたら私はきっと後悔すると思う。
 失くしたくないと思うのなら、自分からつかまないと。
 自分がこの人に相応ふさわしいなんて全然思えないし、彼の今までの女性遍歴へんれきを考えると、すごく不安になる。三条家や佐伯家のことも、もちろん気になってしまう。だけど何もしなかったことを後悔するより、やって後悔する方がいい。
 ……だから、一歩前に出てみようかな?

「あ、あの、課長?」

 私は文字通り一歩前に出て、それからハッとして周囲をうかがった。だが幸い廊下には私たち以外に誰もおらず、近くの部屋から人が出てくる気配もない。

「どうしたの、上条さん?」

 課長は「おや?」というように眉を上げながらも、いつもの柔和にゅうわな笑みを浮かべている。演技なのかもしれないけど、私はその笑顔に後押しされて言った。

「あの、お付き合いの件なんですけど……その、とりあえずよろしくお願いします」

 私はペコリと頭を下げる。
 強要されて付き合ったって形にはしたくなかったから、承知して付き合うって形にした。……これでいいんだよね?
 私は自分にそう問いかけながら、頭を上げて課長の反応をうかがう。
 課長は目を見開いていた。まさか私が自分からそんなことを言い出すとは、夢にも思っていなかったのだろう。
 ここ数日間、振り回され続けたけれど、これで少し溜飲りゅういんが下がったような気がした。
 課長が不意にふわりと笑う。

「ありがとう、まなみ」

 それはいつもの仁科課長スマイルでも、一昨日と昨日見せた黒い笑顔でもない、本当の笑顔だった。
 つい引き込まれそうになり、恥ずかしくなって目を伏せる。課長が動く気配がしたと思ったら、触れそうなくらい近くから、熱っぽい声が降ってきた。

「大切にするよ。もちろん、まだ君が俺と同じ気持ちでないのは分かってる。だから一歩一歩、君のペースで進んでいこう。無理強むりじいはしないと……確約はできないけど、努力するよ」

 ……ん? 普通ここは「無理強いはしない」ってきっぱりと言うところじゃ?
 私が思わず目を上げると、課長はかがんで私の耳に口を寄せた。

「……大丈夫。君が早く俺を受け入れられるように、慣らしていってあげるから。何も知らない君に一つ一つ教えていくのは、きっと楽しいだろうね」

 そう告げて、頭を上げた課長の顔に浮かんでいたもの。それはもちろん、仁科課長スマイルでも、さっきの嬉しそうな笑みでもなく――ここ数日の間に何度も見せられた、あの妙に色気のある黒い黒い笑みだった。

「こちらこそよろしくね、まなみ?」

 あれ、早まった……かな?


 ――私がさっそく後悔したのは、言うまでもない。



 第3話 恋人付き合いのレッスン


 課長と付き合い始めて、一ヶ月が経過した。
 三月と四月は年度の変わり目なので仕事が忙しかったのに加えて、私生活でも色々あり、怒涛どとうの一ヶ月だった。
 まず仕事の面では、秘書業務が新人研修の準備で鬼のように忙しくなった。私の本来の業務である企業調査に全く手を付けられないほどだ。
 研修準備は去年も一度経験したから勝手は分かっていたのに、勤務時間内にはとても終わらず、残業の日々が続いている。
 もっとも私なんかより、課長の方がずっと残業しているけれど。
 今年は新事業の立ち上げが何件も同時進行していて、その全てに関わっている課長はものすごく忙しい。
 だから平日はお互い残業続きで帰ったら寝るだけだし、両親との約束で週末は実家に帰省しなければならない私が課長と会える日といったら――土日のどちらか一日だけ。
 この一ヶ月間は土曜日に二人でデートに出かけて、夜になったら実家に帰るため、沿線の駅まで車で送ってもらうというパターンが続いている。
 最初は実家まで直接送ると言われたものの、遠いからという理由で断った。本当は、お母さんと顔を合わせたりしたら困るからなんだけど。お母さんは婚約話に関しては中立派だが、今はまだ彼と付き合っていることを知られたくなかった。
 とにかくそんな訳で、同じマンションに住んでいるのに部屋でまったり過ごす時間はない。それ以前に、部屋で二人きりなんて状況にはおちいらないように気を付けている。
 課長が前に言っていた『俺を受け入れられるように、慣らしていってあげるから』なんていう機会はあまりない……はずだった。


「ふっ……ん……んんっ、んんっ!」

 く、苦しい。息ができない!
 私はギブギブとばかりに、課長の腕をバシバシ叩いた。
 それでようやく私が酸欠になりかかっているのに気付いたらしく、私におおいかぶさっていた課長が顔を上げる。くちゅんと粘着質ねんちゃくしつな水音を立てて、舌が、そして唇が、私の口から離れていった。
 助手席のシートに背中を預け、ぜいぜいと息をつく私に、課長はくすりと笑って言う。

「キスの時は、鼻で息をするんだよ」
「そ、そんなことしたら、課長に鼻息がかかるじゃないですか!」

 口から吐く息もかけたくないけど、鼻息なんてなおさらかけたくない乙女心を理解して欲しい!
 だけど課長はそんな乙女心など意にも介さず、実に楽しそうに笑った。

「そんなの気にすることないのに。それよりも、また『課長』って言ったよ。だから、もう一度最初から」
「え、ええええ!?」

 という抗議の声は、再び覆いかぶさってきた課長の口の中に消えた。

『一歩一歩、君のペースで進んでいこう』

 確か、そう言ってなかったっけ……?
 口内に侵入してくる舌に自分の舌を絡め取られ、吸われながら、この一ヶ月の間に何度も頭に浮かんだ疑問がまたもや浮上した。


 事の起こりは付き合い始めてすぐ、課長がこう言ったことだった。

「これから会社以外の場所では、俺のことを名前で呼ぶように」
「へ?」
「付き合っているのに、いつまでも課長呼ばわりはおかしいだろう? 課長は役職であって、俺の名前じゃない。だから今後は彰人って呼んでね」
「あ、彰人……さん?」

 私が戸惑いながらもそう呼んでみると、課長はにっこり笑って頷いた。

「そう、それでいい。もし課長って呼んだら、ペナルティだ……そうだね、三回間違えるごとに、キスさせてもらうことにしようか」
「へ?」
「いい案だろう? そうすれば君は否応なく名前で呼ぶようになるだろうし、間違えたら間違えたでキスできるしね。ああ、もちろんキスしてもらいたいなら、いくらでも間違えていいんだよ?」
「が、頑張って名前で呼ばせていただきます!」


 ――って、言ったのに! 意識しないと、つい『課長』って口にしてしまうのですよ!

「はい、これで本日三回目の言い間違い。お仕置きだよ、まなみ?」
「わ、わ、ちょ、ちょっと……ん、んんっ!」

 そしてブチューっとされる。
 私の頭の中に『彰人さん』はなかなか浸透せず、とっさに呼びかける時や無意識の時、どうしても『課長』と言ってしまうのだ。
 そして課長――いや、彰人さんは、それを律儀にカウントしている。
 おかげで土曜日の夜、駅まで車で送ってもらったあとは、いつもキスタイムになる。三回目に言い間違えた時、必ずしも二人きりというわけじゃないから、一日分の清算とばかりに、ライトを消した車の中でキスされるのだ。
 ……いえね、これが唇と唇が触れ合うくらいの軽いものだったらいいんですよ。それなら私も覚悟を決めて目を閉じ、唇を差し出すくらいはするかもしれない。
 だけど、彰人さんがそんな軽いキスで許してくれるはずもなく、毎回思いっきり濃厚な――いわゆるディープキスだから困る。

「んん……んんっ……」

 息継ぎができないだけじゃない。口の中を舌で撫で回され、唾液どころか吐息すらもすすられて――そんな深くむさぼるようなキスに、酔ってしまうことが大問題だった。
 頭がボーっとしてきて、力が抜けてくる。なのに、舌を吸われるたび背中がゾクゾクして、お腹の奥がキュンとうずくのはどうして?
 もう、手足も腰もふにゃふにゃだ。
 これでまた生まれたての小鹿のように、ふるふるしながら電車に乗る羽目になるんだ。
 ねぇ、これが私のペース? ……絶対に違うと思うんだけど。
 再び息苦しくなってきた時、彰人さんがふっと唇を離してささやいた。

「まなみ、鼻で息をするんだよ。でなければ、こうやって唇が合わさる角度を変える時に……」

 そう言いながら、さっきとは違う角度で再び唇を合わせてくる彰人さん。とっさに言われた通り、息を吸ったけど、吸ったけどーー!
 どさくさにまぎれて、何度もキスされてる気がする。絶対、絶対、こんなに言い間違えてないはずなのに! 確信犯か、コンチクショー!

「……ふぁ……」

 ようやく彰人さんの身体が離れた時には、私はもう腰砕け。口の端から溢れてしまった私のものか彼のものか分からない唾液を、彰人さんが舐め取る。
 そのまま唇は鎖骨をたどって、服と肌の境目に強めのキスを落とされ、それからようやく解放された。
 足に力が入らない私は、半ば抱きかかえられながら改札まで運ばれる。この時は頭がボーっとしているから大して気にならないけど、実家に帰ったあとは羞恥しゅうちでのた打ち回ることになるのだ。
 おまけにそれを見越したかのようなジャストタイミングで、

『今夜は楽しかったよ。できれば君を抱きしめて一緒に夜を過ごしたいけど、それはいずれまた。――おやすみ、いい夢を。彰人』

 なんていう、何かを思いっきりほのめかしたメールが届くのだ。もうベッドの上でゴロゴロ転がるしかないじゃないか!
 おかげでいい夢どころか、眠れるかどうかも怪しい。
 それを分かっていてそんなメールをよこす彰人さんが、恨めしいやら憎らしいやらだ。
 ……だけど悔しいかな、なぜか憎めない。無理無理と言いつつ、なぜか従ってしまう。キスされるのだって、困るけど嫌じゃない。
 私は自分がどんどん彰人さんに『慣らされて』いくのを感じていた――


「で、付き合い始めて一ヶ月経った感想は?」

 ランチのあと、カフェオレを飲んでまったりしている時、不意に水沢さんが言った。その言葉が、私への尋問じんもんタイムの始まりの合図だった。

「あー、私も聞きたいと思ってたんですよ!」

 同期の浅岡さんが、目を輝かせながら加わる。

「だって上条さんも課長も、お付き合いをオープンにしないんだもの。何か理由があるのかと思って聞きづらくて!」
「そうなのよね。課長は課のみんなの前では、上条ちゃんに気があることを隠そうともしてなかったから、付き合い始めたらすぐ売約済みの貼り紙をするかと思ってたわ。それが上条ちゃんとのことを聞かれても、否定も肯定もしないだなんてねぇ」

 ちょっと不満そうに口をとがらせた水沢さんを見て、事情を知っている川西さんは密かに苦笑し、当人である私は焦った。

「だ、だって課長のコアなファンが怖いですし……ただでさえにらまれているのに、付き合っているのがバレたら何を言われるか……」

 以前から、私への風当たりは相当強い。職務上の理由で近くにいるっていうだけでこれだもの。付き合い始めたと知られたら、どんな反応をされるか……想像しただけで怖い。
 私のその言葉に、水沢さんは苦笑しながら頷いた。

「ああ、秘書課のおつぼね様をはじめとした面々ね。あの人たちは性質たち悪いからねぇ。自分たちにもうチャンスはないって、いまだに認められないのよ。まぁ、彼女たちのことを考えると、確かにオープンにしていらぬトラブルを招くより、隠れてイチャイチャする方がいいわよね」
「い、イチャイチャだなんて……」

 あのキスのことを思い出して、自分の顔がボッと赤くなるのが分かった。


 ――あれは一ヶ月前のこと。初めてのデートの日、部屋に迎えに来てくれた課長に『お付き合いを大っぴらにはしたくない』とお願いした。
 その時は、てっきりダメって言われるかと思っていた。だって課長は恋人がいた時、会社にいる課長ファンを牽制けんせいする狙いもあってか、そのことを隠そうともしなかったのだから。
 けれど意外にも、すんなり承知してくれたのだ。まぁ返ってきたのは、

「分かった。とりあえず、当分の間はそうしよう。もっとも、大っぴらにはしないけど、別に隠しもしないからね?」

 ……という、何とも不安な言葉だったけれど。
 それに当分の間って、一体いつまでのこと?
 そう思って尋ねたけど、「だから、当分の間だよ」としか答えてもらえなかった。……訳分かんないですよ、課長。
 だけど、課長が私の希望を案外すんなり受け入れたのは、きっと課長自身も懸念けねんしているからだと思う。
 引っ越しの当日、課長が言っていたことを思い出す。
 確か『人の住まいを見つけ出して待ち伏せするような困ったさんがいるから、定期的に引っ越しをしてる』って言っていた。
 あれは、私と同じマンションに引っ越すための口実なんかじゃないと思う。おそらく実際に、そんな目に遭ってるんだ。
 ――住まいを見つけ出して待ち伏せする。
 改めて考えてみると、決して穏やかじゃない。というか、もはやストーカーだよね?
 その困ったさんは複数いるらしい。課長が引っ越すたびに住所の情報を手に入れていることから、同じ会社の人たちである可能性が高い。
 私の脳裏に秘書課の面々をはじめとした、才色兼備なお姉さまたちの姿が浮かんだ。あのうちの誰かが、そんなことをしているのだろうか。
 課長は十年前にもストーカー事件に遭っている。お金持ちな上にイケメンとなると、本当に大変だなと思う。そこのところは同情する。同情するけど……

「大っぴらにしないでいてあげるから、ご褒美ほうびが欲しいな」

 って、そりゃ何ですか課長――いや彰人さん!
 しかも、しないでいてあげるって……何でそんなに上から目線なのさ?

「大丈夫、まだ一度ももらってないものを請求するなんてことはしないから。いただくのは、すでにもらったことがあるものだけだよ」

 おおい、一体何が大丈夫なんでしょうか!
 そんな私の苦情や文句は華麗にスルーされ、玄関先でまたもや濃厚なキスをされてしまう。そして例のごとく足腰はガクガクふにゃふにゃ、唇はジンジンする羽目になるのだった。
 ――こうしてキスと引き換えに、大っぴらにはされずとも隠しもされないという微妙な付き合いが始まった。だけど、課長は会社にいる時は仕事モードに徹する人なので、間違っても人前で「まなみ」なんて呼ばない。だから、今のところ私たちが付き合っていることは、それほど広まっていなかった。
 もっとも、同じ部署の人たちは何となく気付いていると思う。だっていつものように課長に頭を撫でられたあととか、ふと気付くとみんながにやにや笑って見てるんだもの。
 それがすごく恥ずかしくて、こそばゆくて……いたたまれなかった。
 部署の人たちは私たちが大っぴらにしたくないと思っているのを雰囲気から察しているらしく、何も聞いてこない。
 そのおかげもあって、私たちのお付き合いは他の部署の人には知られていないようだった。多分、秘書課のお姉さまたちも気付いてないと思う。
 とはいえ、水沢さんたちにはああ言ったものの、課長のファンのことは、二人の付き合いを表沙汰にしない理由のほんの一部でしかない。
 メインの理由は二人が付き合っていることを、三条家や佐伯家の誰かに知られたくないからだ。もしも会社で噂になんてなったら、みんなにバレてしまう可能性が高い。
 透兄さんと涼にはすでにバレているかもしれないけど、あの二人が他の人にバラすことはないだろうと田中係長と川西さんが言ってたし、私もそう思う。
 私と課長が付き合っているという話は、婚約話を白紙に戻す計画にとっては障害にしかならないもの。
 この前三条家で二人に会った時、鋭い目でジロジロ観察され、言いたいことがあるならはっきり言えという台詞せりふが、のどまで出かかった。
 だけど婚約話が白紙に戻るまで言わないでおこうと決めた手前、二人とそのことについて話すわけにはいかなかった。二人だけじゃなく、三条家の誰ともだ。
 ……そう。課長とのお付き合いのことは、舞ちゃんたちにも内緒だ。だって舞ちゃんたちは十年前のストーカー事件のことを知っているだけに、絶対心配するもの。
 それに私自身、この付き合いがいつまで続くのか、どうなっていくのか分からない以上、何と説明したらいいのか分からなかった。
 だから婚約話が白紙に戻るまでは、絶対に言わないでおこうと決めたのだ。
 ――婚約話が白紙に戻るまで。
 なぜか私は、その言葉を繰り返し心に刻んだ。そして今はただただ流れに身を任せることにし、深く考えるのを放棄した。


「で、存分にイチャイチャしてるはずの君たちは、どこまで行ったの?」

 その水沢さんの質問で、私は現実に引き戻され、キョトンとした。意味が分からなかったのだ。

「え? どこまでって……?」
「嫌だわ、上条ちゃんったら!」

 水沢さんはケラケラ笑った。気付けば川西さんや浅岡さんも、興味津々といった顔で私を見ている。
 うーん……どうもデートで行った場所を聞いてるわけではなさそうだ。

「成人した男女が付き合っているんだから、『どこまで行った』と聞かれたら決まってるでしょ?」
「え、えーっと?」

 本気で分からなくて首を傾げていたら、みんなに呆れられた。

「あのね、上条ちゃん。それはもちろんセ……」

 水沢さんは何か言いかけたところで不意に周囲を見回し、隣の席の親子連れを見てチッと舌打ちする。そして、声のトーンを落として言った。

「ベッドインよ」
「……はい?」
「付き合い始めて一ヶ月も経ったんだから、もう行き着くところまでは行ってるんでしょ? 上条ちゃんは初めてだからさぞ痛かったんじゃないかと、そして課長のあっちの腕はどうなのかと、私たちは興味津々なのよ」
「ベッドイン……初めて……痛い……? って、それって……!」

 私はつぶやいているうちに何を聞かれているのかに思い至り、絶句した。
 ちょ、ちょ、それって私と課長が……?


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