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番外編・小話集
閑話 秘すれば花、秘せねば花なるべからず 4
しおりを挟む「だけどそれは暫定的なもの。一応彼女の名前が挙がっているだけで、三条舞が彰人の許婚になると決まっているわけじゃない。前にも言っただろう。彼女が駄目でも他にも候補がいるって」
何ヶ月か前の記憶を思い出して、貴美子は頷いた。
確かにこの男は言っていた。許婚候補は一人じゃなくて複数いると。
「三条会長の血を引く娘は全員、彰人の許婚候補なんだ。この意味分かるか?」
雅史はそう言って意味ありげに片眉を上げて見せた。
「つまり――上条自身もあいつの許婚候補の一人だってことだ」
「――――え?」
唖然とした。
口を開いたまま固まったくらいだ。
今日だけで三度目の驚愕。
……だけど、今回のコレが一番驚いた。
―――上条ちゃんが係長の許婚候補のひとり。
呆然とする貴美子をどこか楽しげに見つめながら雅史は言葉を継いだ。
「三条会長の女の孫娘は全部で四人。一番年上で彰人に歳が近いのは、この間早坂商事の勘違い令嬢の事件でうちの会社に来た瀬尾エンジニアリングの社長令嬢の瀬尾真綾。次は三条舞。三条会長の内孫でだからなのか、彼女が今のところの許婚筆頭候補だな。そして三番目に歳が近いのはうちの上条で、最後は瀬尾家の次女の瀬尾真央。まだ学生だ。……上条のことが分かってから改めて全員を調査したんだ。上の二人は社交界によく出てくるから調べるのは簡単だが、上条と瀬尾家の次女は一切出てこないからな。調べるのも多少苦労した」
「か、上条ちゃんは……」
「年齢から言えば三番目の候補だろうな」
三番目の候補。
くらくらした。
だけど、と思う。
彼女も係長の許婚候補だというなら何が問題なんだろうと。
この男は何を懸念しているのだろうと。
「許婚になるのは本当は誰でもいいってこと?」
「そうだ」
「上条ちゃんでもいいのよね?」
「もちろん。多分、彰人の意思が最優先されるから、あいつが上条が良いと言えば、その瞬間から上条が筆頭候補だ」
「それなら……」
何がマズイの?
そう言い掛けて、さっきの雅史の言葉を思い出す。
『何も不味くはない、そしてそれだから問題なんだ。彰人の実家にとっても三条家にとっても、そして彰人自身にとっても一番いい方向に持っていけるんだ。そしてだからこそ、上条にとっては大問題なのさ』
――――上条ちゃんにとっては大問題。
……何が問題なのか分かった。はっきりと。
そこには彼女の意思は問題にされない。
彼女が係長と恋仲ではない現状、それは上条ちゃんにとって強制以外の何物でもないのだ。
婚約を強要される。
つまりそういうことだ。
「ちょっと、そんなのは許せないわよ!」
気がついたら叫んでいた。
上条ちゃんが係長が好きだっていうならいい。
だけど、馬鹿でもわかる。今の時点では係長は彼女にとってはただの『良い上司』だ。
彼に感じているのはまだ恋愛感情じゃない。
恐らく、従姉妹の許婚というのが心の底にあって、無意識にそういう想いを持つのを拒否している部分もあるのだろう。
雅史がくっくっと笑い出した。
「お前ならそう言うと思ってたよ。だけどな、更なる問題は彰人がそれを斟酌しないだろうってことなんだ」
「―――は?」
「お前から見て、仁科彰人はどんな人間に見える?」
雅史は笑みを浮かべたまま唐突に貴美子に質問をした。
貴美子は怪訝そうに眉を顰めながらも、もう一人の上司のイケメン顔を思い出しながら言った。
「えっと、責任感が強くて、部下思いで、仕事ができて、穏やかで、やさしくて、礼儀正しくて、決して声を荒げたり、人を貶めたり傷つけるようなことは言わない人。あと、恋愛に関してはクール、かな」
だけどちょっと恐い人だ、と心の中で付け加える。
この前の早坂商事の令嬢の時は凍りつくかと思った。
あと……得体の知れないところがあるのもそう。
「穏やかで、やさしくて、礼儀正しくて、か」
雅史はくつくつ笑った。
「そりゃそうだろうよ。そう演じているんだからな、あいつは」
「え、演じてるって……?」
「会社ではそういう人物を演じているのさ、全部が全部演技でもないがな。俺が知る仁科彰人はもっと性格悪い。辛辣で自信家で、腹黒で狡猾だ。油断ならない人物ってああいうのを言うだろうな。それを全部穏やかな笑顔と物腰の柔らかさで隠している。だけど本性は肉食獣のような奴だ」
貴美子はそれを唖然として聞いていた。
雅史の言う彼の姿は、彼女が知る『仁科係長』からはかけ離れていたからだ。
……だけど。
それでも多少頷けるものがあったのは、あの早坂の令嬢に対する冷たい怒りと辛辣な言葉を見聞きしていたから。
「さて、ここで質問だ」
雅史が唖然としている貴美子を見ながら言う。
「そんな男が、生まれて初めて欲しいと思った女を簡単に、しかも合法的に手に入れる手段を目の前に提示されたら、どうすると思う?」
……考えるまでもなかった。
男はそれを掴むだろう。―――迷うこともなく。
貴美子は身を乗り出すようにして、雅史に尋ねた。
「係長は、あの人は上条ちゃんの素性をもう知ってるの!?」
貴美子が知っている『仁科係長』だったらそんなことはしないと、相手の気持を無視して手に入れるようなことはしないと自信を持って答えただろう。
だけど。
だけど、この男の言うことが本当だったら。
その本性とやらを巧みに隠しているのだったら――――。
「安心しろ。まだ言ってない。知っているのは俺とお前だけだ」
雅史は苦笑しながら言った。
その言葉に貴美子はホッと安堵の息をつきながら浮かしかけていた腰を下ろした。
「上条はあれでも俺の部下だ。狼の前に放り出すのは良心が痛む。それに、フェアじゃないからな。彰人には知らせていない」
「グッドジョブよ、主任!」
貴美子は親指を立てた。
面白いことが大好きなこの男なら曝露していてもおかしくなかったのだ。特にそれが友人の為になるとなればなおのこと。
だけど、部下に同情したのか、それともこっちの方が面白いと思ったのか分からないが、とにかく上条ちゃんにとって最悪の事態になることだけは避けてくれたのだ。
それには感謝したい。
だが。
「安心するのはまだ早い。さっきレストランでも言っただろう『彰人か上条のどっちかとなったら迷うことなく彰人を取る』ってな」
「え?」
ハッとして貴美子は雅史の顔を見た。
目の前の男は表情こそ苦笑を刻んではいたけど――目だけは真剣な光を湛えていて、静かな揺るぎのない信念みたいなものをうかがわせた。
係長を取る。
そう。さっき、この男はそう言ったのだ。
その意味するところは――――
「もし懸念した事態にでもなれば――つまり、彰人が婚約話を厭って家族と縁を切ろうとした場合は、俺は迷うことなく上条をあいつと三条家の前に差し出す。――上条の意思を無視してもな」
「! ……ちょっと!」
ああ、やっぱりと思った。
さっきのはそういう意味だったのだと。
懸念された事態になりそうになったら、この男は上条ちゃんの素性を係長に曝露して、捕まえさせるつもりなのだ。彼女が係長をどう思っていようと関係なく。
でもそれは貴美子に取っては看過できることではない。
「だけどお前は俺とは反対に、そんな事態になっても彰人ではなく上条を守ろうとするだろう?」
雅史が小さく笑いながら言った。
「当たり前でしょう!」
係長の本性がこの男の言うとおりだとしたら、なおのこと。
守ってならなければならないのは、彼女の方だ。係長の事情なんて知ったことじゃない。
雅史は頷いた。
「それでいいんだ。そうやって、上条を守って安全装置になってくれ。彰人に――俺に、彼女の意思も尊重することを思い出させてやってほしい。いざとなったら」
いつの間にか苦笑めいた笑みが消えていて、真剣な目が貴美子を射抜いていた。
先ほどと同じように静かな、信念をたたえた瞳で。
それに応えるように、貴美子は頷いた。
「分かったわ。ぶん殴ってでも思い出させてあげる」
言いながら、だからこの男は嫌いだと思った。
誰よりも友達思いで、誰よりも部下思いで。いろいろな思惑を持っていて。
だけどそんな全てを『面白い』という言葉で全て覆い隠してしまう男。
こんな複雑で付き合いにくい男は嫌いだ。
――――だけど。
『ちょっと気が強くて、しっかりしてて、信頼できて話も合って……何より付き合ってて面白い女がいいな』
容姿ではなくて中身ですべて判断する人間だと、100%確信を持っていえるただ一人の男。
彼の判断基準は『面白い相手かどうか』で『自分を飽きさせない人物かどうか』なのだ。
だからこそ……自分という人間を丸ごと求められるのだと錯覚してしまう。
……本気かどうかも分からないのに。
「ありがとよ。それじゃその見返りにお前の知りたい事を教えてやるよ」
カラン。
手に持っていた水割りをぐいっと飲み干した雅史が話を切り替えるように明るく言った。
その顔はいつもの飄々とした表情に戻っていて、一瞬、貴美子は何を言われたか分からなかった。
「え?」
「お前がここのところずっと知りたがっていたことだ。……とはいっても、彰人の秘密なんて上条の素性のインパクトに比べたらたいしたことないかもしれないがな」
貴美子は雅史が何を伝えようとしているのかを悟ってビックリした。
仁科係長のことだ。
だけど、あれは――――
「で、でも、条件満たしてないわよ? まだ婚約話は破棄できてないのでしょう? それにもう一つの方だって……」
「上条が三条家の一員だって分かった時点で、最初の条件は不確定要素が多すぎて条件として成立しないだろ? それに、もう一つの方は……」
雅史は苦笑した。
「最初からあれを飲むとは思ってなかったからな。情報欲しさに簡単に頷くような女に惚れたつもりはないし。……それにこう言うとお前は怒るだろうが、条件にムッとしたり鼻で笑ったりするお前の反応が面白くてな」
「……ちょっと!」
貴美子はムッとした。
やっぱり本気じゃなかったのか!
怒りの中に、どこか失望感を覚えながら雅史を睨みつけ――そしてふっとその直前の言葉を思い出した。
この男は今『簡単に頷くような女に惚れたつもりはない』って言わなかったか?
「惚れたって……本気なの? それこそ冗談じゃなくて?」
思わずつぶやくと、目の前の男は再び苦笑した。
「全然気のない女にそんな戯言を言うほど暇じゃない。俺はお前に惚れてるよ。嘘偽りなく。だからまぁ、すぐその気になれとは言わないが、心に留めておいてくれ」
そんな告白めいたことを臆面もなく言ってのける男。
それこそ直球すぎて反対に本気に聞こえないのはなぜだろう。この男だからだろうか。
だけど。
その言葉に喜んでいる自分がいた。
「それと彰人の秘密の方は本人にも話すのを了解済みだ。俺が信頼できるやつなら言って構わないってね」
だから人の秘密をほいほい軽々しく曝露しているわけじゃないぞ?
そう目を細めて笑う男に、貴美子は『負けた』と思った。
俺が信頼できるやつ、だなんてどうしてそんな嬉しい言葉をヒョイヒョイ言ってくれちゃうんだろうか、この人は。
――――嫌いだ、こんな男。
そうやっていとも簡単に貴美子の感情を揺さぶる。
身構えているのに、するりとこっちの心に入ってきてしまう。
だから―――負けだ。貴美子の。
でも、本当はとっくに負けていたのかもしれない。
あの入社して一年目の時に。
この男に認められたかった。仕事でも中身でも――そして隣に立つのに相応しい女としても。
そして、今、私は認められたってことよね?
貴美子は内心にんまり笑った。
それなら――今度はこっちが仕掛ける番だ。
「彰人は―――」
「ストップ!」
言いかけた雅史を貴美子を片手を上げて制した。
そして軽く目を見開く雅史ににっこり笑って言った。
「その続きはベッドの中で聞くわ」
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