124 / 125
フェア用SS
ネクタイにご用心
しおりを挟む
2013年どこでも読書フェア用SSです。
時系列は3巻あたり。
********************************************
「やっぱりネクタイですかね」
私が言うと、水沢さんと川西さんがうなずいた。
「そうね。面白味はないけど、それが無難よね。かさばらないし」
「こういう時は結局定番が外れがないのよ」
その言葉に私もうんうんうなずいて、ペンを手に取る。
「じゃあ、昇進祝いはネクタイを買うことにします」
私は広げていたノートに書いた「ネクタイ」という走り書きの文字に、二重丸を描いた。
この春、うちの課の仁科係長と田中主任がそろって昇進した。
係長は課長へ。主任は係長に。
それで課のみんなで何かお祝いを贈ろうという話になって、その品物を何にするか昼休みの時間を利用して相談していたのだ。
なぜ私がこんなことをやるかというと、秘書業務を受け持っているから。
もう一人同じ職についている先輩もいるんだけど、部長にくっついて出張していることが多いため、なんだかんだ言ってその手の役目は私に回ってくる。
お金を徴収するのも、その品物を買うのも渡すのも。
徴収するのは一向に構わないのだけど、問題は渡す品物も私が選ぶ必要があるってことだ。
自分のお金だけならともかく、みんなのお金だから下手なものは渡せない。
結局、ネクタイという無難な方向へ行った私は、ネクタイ選びも水沢さんと川西さんに手伝ってもらった。
いやだって、デパートに行ったんだけどものすごい種類があるんだ、これがまた。
ブランドモノからノーブランドのものまで。
値段もピンキリで、何を標準に選んだらいいのか全く分からない。
課長や係長が好むブランドが分かればそこから選ぶという手もあるんだけど、ネクタイって表から見ているだけじゃ、それがどのブランドなのか分からないんだよね。
皆でああでもこうでもないと一時間以上迷って、結局予算上限で買える中で一番無難なものになった。
仁科課長にはどんなビジネスシーンでもOKな、ちょっとグレーがかった青の無地。
無地といっても生地に折り柄と光沢があるから、とても高級そうに見える。
田中係長は水色の細かいチェック柄だ。
課長に比べて社外の人と会議する機会は少ないから少しカジュアルでも大丈夫だろうとの判断だ。
ちなみに係長のネクタイを選んだのは恋人の川西さん。
そしてなぜか課長のネクタイは私が選ばされた。
「上条ちゃんの選んだ色と柄なら、課長は絶対気に入るはずだから」
って言って。
休み明けの月曜日、買ったネクタイを持参した私は、いつ渡せばいいか思案していた。
皆がお金を出し合ったものだから、みんなの前で渡したい。
けれど、今日は月曜日で、あの二人は朝から社内会議やら他の課との打ち合わせの予定が目白押しだ。
今だってマーケティング部へ二人揃って行っている。そしてその後には、課長には現在進めているとあるプロジェクトについて他社との打ち合わせの予定が入っている。
私はパソコンで課長の予定表を見て「うーん」と唸った後、マグカップを手に給湯室に向かった。
ティーパックの紅茶を入れ、その場で啜りながらどうしようかと考える。
今日渡すなら、会議や打ち合わせの合間に戻ってくるその時か、一通りすべての予定が終わる就業時間の終了間際かになる。
でも予定が押せ押せになると、その余裕もなくなるだろうし……
そんなことを考えていると、こっちに向かって廊下を急ぎ足でやってくる複数の足音が聞こえた。
戸口に顔を向けた私は、給湯室に入ってきた人たちを見て目を見張る。
「課長? 係長?」
それはなんとマーケティング部に打ち合わせにいっているはずの仁科課長と田中係長だった。
もう終わったのかと思った私だったけど、すぐに異変に気づく。
課長がハンカチを右手に巻いていたのだ。
それに、ワイシャツの胸のところが茶色くシミになっていた。
「上条か。悪い、そこどいてくれ。水使うから」
「は、はいっ」
流しに寄りかかっていた私は、田中係長の言葉に慌てて脇に移動する。
「ごめんね、上条さん」
微笑んでそう言ってから課長はハンカチを取って、蛇口から流れる水に右手をつっこんで冷やし始める。その手の甲はうっすらと赤くなっていた。これはもしかして……
「もしかして、火傷? コーヒーですか?」
「ああ、こぼしてしまってね」
水で手を冷やしながら課長は答えた。けれど、係長が首を振る。
「お前のせいじゃないだろう。あれは、引っかけられたようなものだ」
「へ?」
――どうも、マーケティング部の女性社員の間で、誰が課長たちにお茶出しするかで熾烈な争いがあったらしい。
そんな争いがあったことなど億尾にも出さないで、課長たちの所にコーヒーを持ってきたのは一人の女性社員だった。
けれど、実はその彼女は争奪戦の勝者ではなかったのだ。
直後にそれは発覚した。
本来持っていくはずだった女性社員が「私が持っていくはずだったのに!」と言ってその場にやってきて、彼女に詰め寄ったのだ。
どうやらお手洗いのために席を外していた隙に、抜け駆けされてしまったらしい。
そのすごい剣幕に抜け駆けした彼女はビビッて後ずさりし、ちょうどコーヒーを飲もうとカップを持ち上げていた課長の手にぶつかってしまったのだ。
その衝撃を受けても、課長はカップを離しはしなかったけれど、中身は盛大に零れて右手の甲と胸を直撃した。
もちろんその場は大騒ぎになったが、二人は大したことはないとすぐに切り上げて帰ってきたらしい。
「あの場にいると、また二の舞になりそうだったからな」
確かに、誰が手当するかでまた騒ぎになりそうだ。モテる人は大変だ。
「課長、大丈夫ですか?」
「赤くなっただけだから大丈夫。だけど問題はこっちだな」
そう言って課長は自分の胸を見下ろした。
白いシャツと細いストライプの入った淡いグレーのネクタイには、茶色いシミができている。
社内だったこともあり、上着を着ていなかったのが災いしたようだ。
「この後、外部の会社と会議があるから、さすがにこれはマズイ」
「あっ」
そうだ。この後、課長には他社との打ち合わせの予定があるのだ。
コーヒーのシミのできた服を着ていくわけにはいかない。
私は腕時計を見て顔をしかめた。
外に替えの服を買いに行く時間もなさそうだ。
「ワイシャツは俺のを貸してやるよ」
そこにのんびりとした声がかかる。田中係長だ。
「ちょうどクリーニングに出したのを、今朝受け取ってそのまま持ってきていていたんだ。サイズは同じだからそれに着替えればいい。あとは……ネクタイだな」
……ネクタイ!
私の脳裏に、買ってきたばかりのお祝いの品が浮かんだ。
そう、あれを今活用しないでどうするというのだ!
「ネクタイならあります!」
私は口を開こうとした課長に、力いっぱい言った。
「昇進のお祝いに課のみんなでネクタイをご用意したんです。課長と係長のお二人に。それ、今日持ってきてますので、ぜひ使って下さい!」
課長が私を顔を見下ろして、にこっと微笑んだ。
「そうか。それじゃ、皆の好意、有難く使わせてもらおうかな」
「はい! 今、持ってきますね!」
急いで自分の席に戻り、川西さんと水沢さんに簡単に事情を説明した後、私は綺麗に梱包された包みを手に取って給湯室に戻った。
そこではすでに係長の持ってきたワイシャツに着替え、一番上の首元のボタンをはめている課長の姿があった。
係長のワイシャツは白の無地ではなくて、水色の細かいストライプが入ったものだ。
白の無地よりオシャレ感がアップしていて、私はちょっと見とれてしまった。
上着で隠すのが勿体ないくらいだ。
「ネクタイはそれ?」
ぼうっとしている私に課長がやさしく尋ねる。
私は慌ててうなずくと、その細長い包みを差し出した。
ところが課長は笑顔のまま、こんなことを言い出したのだった。
「すまないけど、つけてくれるかな? 右手を動かすと少し引きつるような痛みがあってね」
「へ?」
わ、私に課長のネクタイを結べ、と?
思わず隣にいた係長に救いの目を向けてしまう。
けれど彼は嫌そうに首を振った。
「野郎のネクタイを結ぶのはゴメンだな」
BL的には美味しいシチュエーションなんだけど!
とっさにそう思ってしまった私は、従姉妹の真央ちゃんにだいぶ毒されているかもしれない。
けれど、ここのいる唯一の他人に断られてしまったからには、私がネクタイを結ぶしかないようだ。
私は観念してネクタイの梱包を解いた。
出てきたのは私の選んだ、青とグレーの混じった綺麗なネクタイ。
幸い今着ているワイシャツにも、濃紺のスーツにもよく似合う。
私はそのネクタイを手に、課長におずおずと言った。
「あ、あの、それじゃ、ちょっと屈んでもらえますか?」
課長の背は高くて肩幅も広いので、私の背ではちょっと結びづらいのだ。
課長はその言葉に「いいよ」と微笑んで私の方に屈んだ。
急に近づいた顔にドキドキしながら私はネクタイを課長の首に回す。
高校はブレザーでネクタイ着用だったから、結び方は知っている。
けれど、自分でやるのと他人にやってあげるのは、だいぶ勝手が違った。
手順を思い出しながら、もたもた結んでいると、ふと吐息が触れるくらい近い距離に課長の顔があって、じっと見られていることに気づいて、顔がカッと熱くなった。
か、顔が、近い……!
それに、このネクタイを結んであげている状態は、はたから見れば夫婦か恋人のように見えるのでは……?
そう思うとますます顔は赤くなるし、心臓がドキドキして手が震えてしまう。
それなのにようやく結び終わり、最後にきゅっとネクタイを締めて整えた後、手を離す時、とても残念な気がしたから不思議だ。
課長が頭を上げながら言った。
「ありがとう、上条さん。とても助かったよ」
それから、流しに置いてあったハンカチを手に取って私に微笑む。
「じゃあ、これからみんなの所にお礼を言いに行こうか」
「え?」
「これ、課のみんなからのお祝いなんだろう? おかげで助かったとお礼と報告をしなければね」
「はい!」
私は笑顔で頷いた。
さすが仁科課長だ。
それに、そう。この機会に一緒に田中係長の分もみんなの前で渡してしまえばいい。
「私、一足先に部屋に戻って、田中係長の分もご用意しておきますね」
「おう、サンキュ」
私は二人に軽く会釈すると、給湯室を出て廊下を部屋に向かった。
課長にとっては不運な出来事だったけれど、私にしてみればそれほど悪いことじゃなかったと思いながら。
* * *
……けれど、廊下を小走りに進む私は、給湯室を出ながら二人がこんな会話をしていたのに気付くことはなかった。
「何が手が痛くて、だ。ほとんど痛くないくせに、このムッツリが」
「酷いな。火傷したんだから、痛いのは事実だよ」
苦笑する課長に、係長が眉を上げながら言った。
「それに、お前……確か机の中にネクタイ、常備していたよな? いつ不測の事態があってもいいようにって」
「……そうだったっけ? そんなことすっかり忘れていたよ」
けれど、そう答える課長の口元にはいつもと違った種類の笑みが浮かんでいた。
――果たして、得をしたのはどっち?
時系列は3巻あたり。
********************************************
「やっぱりネクタイですかね」
私が言うと、水沢さんと川西さんがうなずいた。
「そうね。面白味はないけど、それが無難よね。かさばらないし」
「こういう時は結局定番が外れがないのよ」
その言葉に私もうんうんうなずいて、ペンを手に取る。
「じゃあ、昇進祝いはネクタイを買うことにします」
私は広げていたノートに書いた「ネクタイ」という走り書きの文字に、二重丸を描いた。
この春、うちの課の仁科係長と田中主任がそろって昇進した。
係長は課長へ。主任は係長に。
それで課のみんなで何かお祝いを贈ろうという話になって、その品物を何にするか昼休みの時間を利用して相談していたのだ。
なぜ私がこんなことをやるかというと、秘書業務を受け持っているから。
もう一人同じ職についている先輩もいるんだけど、部長にくっついて出張していることが多いため、なんだかんだ言ってその手の役目は私に回ってくる。
お金を徴収するのも、その品物を買うのも渡すのも。
徴収するのは一向に構わないのだけど、問題は渡す品物も私が選ぶ必要があるってことだ。
自分のお金だけならともかく、みんなのお金だから下手なものは渡せない。
結局、ネクタイという無難な方向へ行った私は、ネクタイ選びも水沢さんと川西さんに手伝ってもらった。
いやだって、デパートに行ったんだけどものすごい種類があるんだ、これがまた。
ブランドモノからノーブランドのものまで。
値段もピンキリで、何を標準に選んだらいいのか全く分からない。
課長や係長が好むブランドが分かればそこから選ぶという手もあるんだけど、ネクタイって表から見ているだけじゃ、それがどのブランドなのか分からないんだよね。
皆でああでもこうでもないと一時間以上迷って、結局予算上限で買える中で一番無難なものになった。
仁科課長にはどんなビジネスシーンでもOKな、ちょっとグレーがかった青の無地。
無地といっても生地に折り柄と光沢があるから、とても高級そうに見える。
田中係長は水色の細かいチェック柄だ。
課長に比べて社外の人と会議する機会は少ないから少しカジュアルでも大丈夫だろうとの判断だ。
ちなみに係長のネクタイを選んだのは恋人の川西さん。
そしてなぜか課長のネクタイは私が選ばされた。
「上条ちゃんの選んだ色と柄なら、課長は絶対気に入るはずだから」
って言って。
休み明けの月曜日、買ったネクタイを持参した私は、いつ渡せばいいか思案していた。
皆がお金を出し合ったものだから、みんなの前で渡したい。
けれど、今日は月曜日で、あの二人は朝から社内会議やら他の課との打ち合わせの予定が目白押しだ。
今だってマーケティング部へ二人揃って行っている。そしてその後には、課長には現在進めているとあるプロジェクトについて他社との打ち合わせの予定が入っている。
私はパソコンで課長の予定表を見て「うーん」と唸った後、マグカップを手に給湯室に向かった。
ティーパックの紅茶を入れ、その場で啜りながらどうしようかと考える。
今日渡すなら、会議や打ち合わせの合間に戻ってくるその時か、一通りすべての予定が終わる就業時間の終了間際かになる。
でも予定が押せ押せになると、その余裕もなくなるだろうし……
そんなことを考えていると、こっちに向かって廊下を急ぎ足でやってくる複数の足音が聞こえた。
戸口に顔を向けた私は、給湯室に入ってきた人たちを見て目を見張る。
「課長? 係長?」
それはなんとマーケティング部に打ち合わせにいっているはずの仁科課長と田中係長だった。
もう終わったのかと思った私だったけど、すぐに異変に気づく。
課長がハンカチを右手に巻いていたのだ。
それに、ワイシャツの胸のところが茶色くシミになっていた。
「上条か。悪い、そこどいてくれ。水使うから」
「は、はいっ」
流しに寄りかかっていた私は、田中係長の言葉に慌てて脇に移動する。
「ごめんね、上条さん」
微笑んでそう言ってから課長はハンカチを取って、蛇口から流れる水に右手をつっこんで冷やし始める。その手の甲はうっすらと赤くなっていた。これはもしかして……
「もしかして、火傷? コーヒーですか?」
「ああ、こぼしてしまってね」
水で手を冷やしながら課長は答えた。けれど、係長が首を振る。
「お前のせいじゃないだろう。あれは、引っかけられたようなものだ」
「へ?」
――どうも、マーケティング部の女性社員の間で、誰が課長たちにお茶出しするかで熾烈な争いがあったらしい。
そんな争いがあったことなど億尾にも出さないで、課長たちの所にコーヒーを持ってきたのは一人の女性社員だった。
けれど、実はその彼女は争奪戦の勝者ではなかったのだ。
直後にそれは発覚した。
本来持っていくはずだった女性社員が「私が持っていくはずだったのに!」と言ってその場にやってきて、彼女に詰め寄ったのだ。
どうやらお手洗いのために席を外していた隙に、抜け駆けされてしまったらしい。
そのすごい剣幕に抜け駆けした彼女はビビッて後ずさりし、ちょうどコーヒーを飲もうとカップを持ち上げていた課長の手にぶつかってしまったのだ。
その衝撃を受けても、課長はカップを離しはしなかったけれど、中身は盛大に零れて右手の甲と胸を直撃した。
もちろんその場は大騒ぎになったが、二人は大したことはないとすぐに切り上げて帰ってきたらしい。
「あの場にいると、また二の舞になりそうだったからな」
確かに、誰が手当するかでまた騒ぎになりそうだ。モテる人は大変だ。
「課長、大丈夫ですか?」
「赤くなっただけだから大丈夫。だけど問題はこっちだな」
そう言って課長は自分の胸を見下ろした。
白いシャツと細いストライプの入った淡いグレーのネクタイには、茶色いシミができている。
社内だったこともあり、上着を着ていなかったのが災いしたようだ。
「この後、外部の会社と会議があるから、さすがにこれはマズイ」
「あっ」
そうだ。この後、課長には他社との打ち合わせの予定があるのだ。
コーヒーのシミのできた服を着ていくわけにはいかない。
私は腕時計を見て顔をしかめた。
外に替えの服を買いに行く時間もなさそうだ。
「ワイシャツは俺のを貸してやるよ」
そこにのんびりとした声がかかる。田中係長だ。
「ちょうどクリーニングに出したのを、今朝受け取ってそのまま持ってきていていたんだ。サイズは同じだからそれに着替えればいい。あとは……ネクタイだな」
……ネクタイ!
私の脳裏に、買ってきたばかりのお祝いの品が浮かんだ。
そう、あれを今活用しないでどうするというのだ!
「ネクタイならあります!」
私は口を開こうとした課長に、力いっぱい言った。
「昇進のお祝いに課のみんなでネクタイをご用意したんです。課長と係長のお二人に。それ、今日持ってきてますので、ぜひ使って下さい!」
課長が私を顔を見下ろして、にこっと微笑んだ。
「そうか。それじゃ、皆の好意、有難く使わせてもらおうかな」
「はい! 今、持ってきますね!」
急いで自分の席に戻り、川西さんと水沢さんに簡単に事情を説明した後、私は綺麗に梱包された包みを手に取って給湯室に戻った。
そこではすでに係長の持ってきたワイシャツに着替え、一番上の首元のボタンをはめている課長の姿があった。
係長のワイシャツは白の無地ではなくて、水色の細かいストライプが入ったものだ。
白の無地よりオシャレ感がアップしていて、私はちょっと見とれてしまった。
上着で隠すのが勿体ないくらいだ。
「ネクタイはそれ?」
ぼうっとしている私に課長がやさしく尋ねる。
私は慌ててうなずくと、その細長い包みを差し出した。
ところが課長は笑顔のまま、こんなことを言い出したのだった。
「すまないけど、つけてくれるかな? 右手を動かすと少し引きつるような痛みがあってね」
「へ?」
わ、私に課長のネクタイを結べ、と?
思わず隣にいた係長に救いの目を向けてしまう。
けれど彼は嫌そうに首を振った。
「野郎のネクタイを結ぶのはゴメンだな」
BL的には美味しいシチュエーションなんだけど!
とっさにそう思ってしまった私は、従姉妹の真央ちゃんにだいぶ毒されているかもしれない。
けれど、ここのいる唯一の他人に断られてしまったからには、私がネクタイを結ぶしかないようだ。
私は観念してネクタイの梱包を解いた。
出てきたのは私の選んだ、青とグレーの混じった綺麗なネクタイ。
幸い今着ているワイシャツにも、濃紺のスーツにもよく似合う。
私はそのネクタイを手に、課長におずおずと言った。
「あ、あの、それじゃ、ちょっと屈んでもらえますか?」
課長の背は高くて肩幅も広いので、私の背ではちょっと結びづらいのだ。
課長はその言葉に「いいよ」と微笑んで私の方に屈んだ。
急に近づいた顔にドキドキしながら私はネクタイを課長の首に回す。
高校はブレザーでネクタイ着用だったから、結び方は知っている。
けれど、自分でやるのと他人にやってあげるのは、だいぶ勝手が違った。
手順を思い出しながら、もたもた結んでいると、ふと吐息が触れるくらい近い距離に課長の顔があって、じっと見られていることに気づいて、顔がカッと熱くなった。
か、顔が、近い……!
それに、このネクタイを結んであげている状態は、はたから見れば夫婦か恋人のように見えるのでは……?
そう思うとますます顔は赤くなるし、心臓がドキドキして手が震えてしまう。
それなのにようやく結び終わり、最後にきゅっとネクタイを締めて整えた後、手を離す時、とても残念な気がしたから不思議だ。
課長が頭を上げながら言った。
「ありがとう、上条さん。とても助かったよ」
それから、流しに置いてあったハンカチを手に取って私に微笑む。
「じゃあ、これからみんなの所にお礼を言いに行こうか」
「え?」
「これ、課のみんなからのお祝いなんだろう? おかげで助かったとお礼と報告をしなければね」
「はい!」
私は笑顔で頷いた。
さすが仁科課長だ。
それに、そう。この機会に一緒に田中係長の分もみんなの前で渡してしまえばいい。
「私、一足先に部屋に戻って、田中係長の分もご用意しておきますね」
「おう、サンキュ」
私は二人に軽く会釈すると、給湯室を出て廊下を部屋に向かった。
課長にとっては不運な出来事だったけれど、私にしてみればそれほど悪いことじゃなかったと思いながら。
* * *
……けれど、廊下を小走りに進む私は、給湯室を出ながら二人がこんな会話をしていたのに気付くことはなかった。
「何が手が痛くて、だ。ほとんど痛くないくせに、このムッツリが」
「酷いな。火傷したんだから、痛いのは事実だよ」
苦笑する課長に、係長が眉を上げながら言った。
「それに、お前……確か机の中にネクタイ、常備していたよな? いつ不測の事態があってもいいようにって」
「……そうだったっけ? そんなことすっかり忘れていたよ」
けれど、そう答える課長の口元にはいつもと違った種類の笑みが浮かんでいた。
――果たして、得をしたのはどっち?
33
あなたにおすすめの小説
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
ヤンデレエリートの執愛婚で懐妊させられます
沖田弥子
恋愛
職場の後輩に恋人を略奪された澪。終業後に堪えきれず泣いていたところを、営業部のエリート社員、天王寺明夜に見つかってしまう。彼に優しく慰められながら居酒屋で事の顛末を話していたが、なぜか明夜と一夜を過ごすことに――!? 明夜は傷心した自分を慰めてくれただけだ、と考える澪だったが、翌朝「責任をとってほしい」と明夜に迫られ、婚姻届にサインしてしまった。突如始まった新婚生活。明夜は澪の心と身体を幸せで満たしてくれていたが、徐々に明夜のヤンデレな一面が見えてきて――執着強めな旦那様との極上溺愛ラブストーリー!
お腹の子と一緒に逃げたところ、結局お腹の子の父親に捕まりました。
下菊みこと
恋愛
逃げたけど逃げ切れなかったお話。
またはチャラ男だと思ってたらヤンデレだったお話。
あるいは今度こそ幸せ家族になるお話。
ご都合主義の多分ハッピーエンド?
小説家になろう様でも投稿しています。
肉食御曹司の独占愛で極甘懐妊しそうです
沖田弥子
恋愛
過去のトラウマから恋愛と結婚を避けて生きている、二十六歳のさやか。そんなある日、飲み会の帰り際、イケメン上司で会社の御曹司でもある久我凌河に二人きりの二次会に誘われる。ホテルの最上階にある豪華なバーで呑むことになったさやか。お酒の勢いもあって、さやかが強く抱いている『とある願望』を彼に話したところ、なんと彼と一夜を過ごすことになり、しかも恋人になってしまった!? 彼は自分を女除けとして使っているだけだ、と考えるさやかだったが、少しずつ彼に恋心を覚えるようになっていき……。肉食でイケメンな彼にとろとろに蕩かされる、極甘濃密ラブ・ロマンス!
〈完結〉【書籍化・取り下げ予定】「他に愛するひとがいる」と言った旦那様が溺愛してくるのですが、そういうのは不要です
ごろごろみかん。
恋愛
「私には、他に愛するひとがいます」
「では、契約結婚といたしましょう」
そうして今の夫と結婚したシドローネ。
夫は、シドローネより四つも年下の若き騎士だ。
彼には愛するひとがいる。
それを理解した上で政略結婚を結んだはずだったのだが、だんだん夫の様子が変わり始めて……?
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。