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第一部・第二章 抜本塞源
引縄批根! 消えた使番⑥
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◇◇
長尾時宗と黒川清実の二人が壬生城の本丸に軟禁状態にされてから、早くも数刻が経った。
既に辺りは暗く、誰もいない城内は、静寂に包まれている。
やる事もなく寝室に引きこもった清実。
一方の時宗は、台所で酒を浴びるように呑んでいた。
しかし……
いくら酒で忘れようとしても、胸の内を巣食った『恐怖』は消えることはなかった。むしろ時が経つにつれて、どんどん大きくなっていく。
普段ならすぐに酔いつぶれてしまう時宗であったが、どれほど酒をあおっても、意識を飛ばすことはなく、研ぎ澄まされていく一方なのであった。
気付けば周囲は暗闇に包まれている……
そしてここには誰もいないはず……
しかし誰かに見られている気がしてならない……
そんな錯覚に、彼は震えながら大声をあげた。
「ええい!! 出てこい!! そこにいるのは分かっておるのだぁぁ!! 」
ーーガシャン!!
時宗は腰に差した得物を抜くと、台所の至るところを斬り込み続けた。
もちろん誰もいないし、そんな事をしても気が晴れるはずもない。
しかし彼は戦っているのだ。
目に見えぬ『恐怖』と……
そしてその『恐怖』をもたらした元凶と……
「おのれぇぇ! あの下賤の使番がぁぁ!!
そもそもてめえが人の妻に手を出したのが悪いのだ!
われは何も悪くない!! 悪くなどないのだぁぁぁ!! 」
意識だけははっきりとしているのは確かだ。
しかし、体は酒に呑まれていた。
足元は定まらず、手の感覚はない。
だが、『恐怖』は容赦なく、彼に襲いかかる。
彼の浅はかな陥穽によって、無残にも命を落としていった佐野軍の兵たち、そして佐野豊綱……
彼らの怨霊が、時宗の手足の自由を奪い、わずかに残された自我すらも削り取っていくように、時宗には思えた。
「ひいいい! やめろぉぉ! やめてくれぇぇぇ!! 」
思わず頭を抱えて、その場で座り込む時宗。
いつの間にか懇願は、号泣へと変わっていった。
「やべでぐらざい……」
「時宗殿!! いかがされたのですか!? 」
と、そこに様子を見に来た黒川清実が、小さくなって震えている時宗を見て、急いで彼を抱き締めた。
すると時宗は、震える手で必死に清実の袖を掴むと、声を大きくして泣き叫んだ。
「清実、清実! われは悪くない! われは悪くないのだ!! 」
「時宗殿! その通りでございます! 時宗殿は何も悪くはございませぬ!! だから気をしっかりと持ちなされ!! 」
「ならばなぜ……! なぜこやつらは、われの手足を縛るのだ!? われの心を喰らうのかぁぁ!! 」
清実は、ようやくこの時に気づいた。
時宗は今、死んでいった佐野軍の怨霊の幻に囚われているのだと。
「時宗殿! ここには誰もおりません! この黒川清実、すなわち時宗殿の味方しかおりません! だからどうか、気を確かに!! 」
その大きな声に、ハッとしたように時宗は、清実の顔を見上げた。
涙をいっぱいに溜めた瞳。
あどけなさを残す顔立ち……
清実は時宗の顔を見てあらためて思い知らされたのだった。
ーーまだ年端もいかぬ少年なのだ……長尾時宗という人は……
そして時宗は、震える声で問いかけたのだった。
「清実……お主は、まことにわれの味方なのか……? 」
と……
清実は、時宗の今にも消え入りそうな言葉を耳にした瞬間、鼻の奥に鋭い痛みを覚え、思わず涙を両目に浮かべた。
ああ……
このお方は孤独なのだ……
生まれた頃から……
当主の長尾景虎と、家中で敵対する家の長男として生まれた彼の背負った宿命。
その重みを知っている者がどれほどいようか。
生き残る為に、捨てられぬように、必死に生きてきたことを、誰が理解していようか。
確かに彼と自分が出した答えは、悲劇を生んだ。
それは避けては通れぬ事実であり、彼も自分も背負うべき重荷だ。
しかし、まだ右も左も知らぬ少年に、そのような暴挙をさせてしまったのは、他ならぬ家中の膿(うみ)ではないか。
彼を孤独へと追いやったのは、他ならぬ長尾景虎という当主の手腕が未熟であったからではないか。
清実は、そっと時宗の背中をさすると、優しい声で答えた。
「ご安心くだされ。それがしは今も、そしてこれからも時宗殿のお味方でございます。
決して時宗殿を一人にはいたしませぬ」
その言葉を聞いて、ふっと口元を緩めた時宗は、そのまま意識を失った。
その寝顔は無邪気な少年そのもの。
優しさに包まれた安心感で、穏やかに眠ったのであったーー
「時宗殿……時宗殿は決して悪くございませぬ」
黒川清実は、時宗を寝室まで連れていって、そっと寝かせると、いつまでも側に座っていた。
しかしその穏やか表情とは裏腹に、胸の中は憎悪の炎にまかれていた。
その相手は……
長尾景虎……
そして……
辰丸ーー
そして夜が明けた。
太陽が完全に地平線から顔を出したその頃。
長尾、佐野の連合軍が、壬生城に凱旋してきた。
大歓声に包まれる壬生城。
その輪の中心はもちろん、長尾景虎と佐野昌綱の二人だ。
そして、長尾家の人々にとっては、もう一人の姿を見て、歓喜していた。
それは……
『群青色の母衣』をまとった、消えた使番……
すなわち、辰丸であった。
そしてその凱旋と時同じくして、壬生城の本丸に兵たちが大挙として押しかけた。
「離せ! 離さんかぁぁ!! こんな事をして、後でただですむと思うなよ!! 」
すっかり酔いから醒めた時宗の喚き散らす声は、もはや誰の耳にも届かない。
こうして、長尾時宗と黒川清実の二人は、きつく縄で縛り上げられたのだった。
長尾時宗と黒川清実の二人が壬生城の本丸に軟禁状態にされてから、早くも数刻が経った。
既に辺りは暗く、誰もいない城内は、静寂に包まれている。
やる事もなく寝室に引きこもった清実。
一方の時宗は、台所で酒を浴びるように呑んでいた。
しかし……
いくら酒で忘れようとしても、胸の内を巣食った『恐怖』は消えることはなかった。むしろ時が経つにつれて、どんどん大きくなっていく。
普段ならすぐに酔いつぶれてしまう時宗であったが、どれほど酒をあおっても、意識を飛ばすことはなく、研ぎ澄まされていく一方なのであった。
気付けば周囲は暗闇に包まれている……
そしてここには誰もいないはず……
しかし誰かに見られている気がしてならない……
そんな錯覚に、彼は震えながら大声をあげた。
「ええい!! 出てこい!! そこにいるのは分かっておるのだぁぁ!! 」
ーーガシャン!!
時宗は腰に差した得物を抜くと、台所の至るところを斬り込み続けた。
もちろん誰もいないし、そんな事をしても気が晴れるはずもない。
しかし彼は戦っているのだ。
目に見えぬ『恐怖』と……
そしてその『恐怖』をもたらした元凶と……
「おのれぇぇ! あの下賤の使番がぁぁ!!
そもそもてめえが人の妻に手を出したのが悪いのだ!
われは何も悪くない!! 悪くなどないのだぁぁぁ!! 」
意識だけははっきりとしているのは確かだ。
しかし、体は酒に呑まれていた。
足元は定まらず、手の感覚はない。
だが、『恐怖』は容赦なく、彼に襲いかかる。
彼の浅はかな陥穽によって、無残にも命を落としていった佐野軍の兵たち、そして佐野豊綱……
彼らの怨霊が、時宗の手足の自由を奪い、わずかに残された自我すらも削り取っていくように、時宗には思えた。
「ひいいい! やめろぉぉ! やめてくれぇぇぇ!! 」
思わず頭を抱えて、その場で座り込む時宗。
いつの間にか懇願は、号泣へと変わっていった。
「やべでぐらざい……」
「時宗殿!! いかがされたのですか!? 」
と、そこに様子を見に来た黒川清実が、小さくなって震えている時宗を見て、急いで彼を抱き締めた。
すると時宗は、震える手で必死に清実の袖を掴むと、声を大きくして泣き叫んだ。
「清実、清実! われは悪くない! われは悪くないのだ!! 」
「時宗殿! その通りでございます! 時宗殿は何も悪くはございませぬ!! だから気をしっかりと持ちなされ!! 」
「ならばなぜ……! なぜこやつらは、われの手足を縛るのだ!? われの心を喰らうのかぁぁ!! 」
清実は、ようやくこの時に気づいた。
時宗は今、死んでいった佐野軍の怨霊の幻に囚われているのだと。
「時宗殿! ここには誰もおりません! この黒川清実、すなわち時宗殿の味方しかおりません! だからどうか、気を確かに!! 」
その大きな声に、ハッとしたように時宗は、清実の顔を見上げた。
涙をいっぱいに溜めた瞳。
あどけなさを残す顔立ち……
清実は時宗の顔を見てあらためて思い知らされたのだった。
ーーまだ年端もいかぬ少年なのだ……長尾時宗という人は……
そして時宗は、震える声で問いかけたのだった。
「清実……お主は、まことにわれの味方なのか……? 」
と……
清実は、時宗の今にも消え入りそうな言葉を耳にした瞬間、鼻の奥に鋭い痛みを覚え、思わず涙を両目に浮かべた。
ああ……
このお方は孤独なのだ……
生まれた頃から……
当主の長尾景虎と、家中で敵対する家の長男として生まれた彼の背負った宿命。
その重みを知っている者がどれほどいようか。
生き残る為に、捨てられぬように、必死に生きてきたことを、誰が理解していようか。
確かに彼と自分が出した答えは、悲劇を生んだ。
それは避けては通れぬ事実であり、彼も自分も背負うべき重荷だ。
しかし、まだ右も左も知らぬ少年に、そのような暴挙をさせてしまったのは、他ならぬ家中の膿(うみ)ではないか。
彼を孤独へと追いやったのは、他ならぬ長尾景虎という当主の手腕が未熟であったからではないか。
清実は、そっと時宗の背中をさすると、優しい声で答えた。
「ご安心くだされ。それがしは今も、そしてこれからも時宗殿のお味方でございます。
決して時宗殿を一人にはいたしませぬ」
その言葉を聞いて、ふっと口元を緩めた時宗は、そのまま意識を失った。
その寝顔は無邪気な少年そのもの。
優しさに包まれた安心感で、穏やかに眠ったのであったーー
「時宗殿……時宗殿は決して悪くございませぬ」
黒川清実は、時宗を寝室まで連れていって、そっと寝かせると、いつまでも側に座っていた。
しかしその穏やか表情とは裏腹に、胸の中は憎悪の炎にまかれていた。
その相手は……
長尾景虎……
そして……
辰丸ーー
そして夜が明けた。
太陽が完全に地平線から顔を出したその頃。
長尾、佐野の連合軍が、壬生城に凱旋してきた。
大歓声に包まれる壬生城。
その輪の中心はもちろん、長尾景虎と佐野昌綱の二人だ。
そして、長尾家の人々にとっては、もう一人の姿を見て、歓喜していた。
それは……
『群青色の母衣』をまとった、消えた使番……
すなわち、辰丸であった。
そしてその凱旋と時同じくして、壬生城の本丸に兵たちが大挙として押しかけた。
「離せ! 離さんかぁぁ!! こんな事をして、後でただですむと思うなよ!! 」
すっかり酔いから醒めた時宗の喚き散らす声は、もはや誰の耳にも届かない。
こうして、長尾時宗と黒川清実の二人は、きつく縄で縛り上げられたのだった。
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