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第一部・第三章 窮途末路

黒姫と龍 〜別離〜①

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◇◇
 あふことの 絶えてしなくは なかなかに 人をも身をも うらみざらまし

 小倉百人一首、中納言朝忠(ちゅうなごんともただ)の詠った一句。
 
 もし、男女に恋の出逢いというものがなければ、ただ相手の事を想うことしか出来ぬ自分や相手を恨むことなどなかったのに……
 
 
 『あの一陣の風』が吹かねば、すれ違うことすらなかった二人。
 
 しかし、運命のいたずらは、出逢うはずもない出逢いを生み、
 生まれるはずもない恋を生んだ。
 
 
 ただし、それは絶対に叶わぬ恋。
 
 
 叶わぬと知りながら、人はなぜ恋に落ちるのだろうか。
 
 
 さながら乾いた草木に、火の粉が降りかかっただけでも燃え広がっていくように――
 

………
……
 飯山城に到着した景虎たち一行。

 各々の部屋に通されると、一息つく間も無く、饗応の時を迎えた。

 およそ二年前と異なり、見違えるような身なりで宴に列席した辰丸。

 その堂々とした態度に、彼のことを久方ぶりに目にした高梨政頼は、嬉しそうに目を細めた。


 そして、夜の帳が落ちると共に、饗応が始まった。


 この二年で辰丸も随分と酒には慣れたものだ。

 新星の如く長尾家に現れた辰丸の周囲には大きな人集(ひとだか)りができ、その一人一人に対して、辰丸は愛想を振りまいていた。

 視線の端には、各将に酒を注いで回っている黒姫の姿は捉えている。
 時折目が合うが、なぜか互いにすぐに逸らしてしまい、なかなかその距離を縮めることすらかなわない。

 
 そんなもどかしい時が延々と続くと……


 饗応は終わりを告げた。


 続々と部屋を後にする諸将。
 その中に辰丸の姿もあった。

 結局、辰丸と黒姫は饗応の場では一言も言葉すら交わすこともなかったのである。


 雲間に見え隠れする三日月。
 
 
 長旅の最中、疲れた身でありながらも、こうして眠気が来ないのは、
 湿気を帯びた初夏の不快な夜のせいだろうか。
 それとも、一人の人を想う胸の痛みゆえであろうか……
 

 辰丸は何を考えることもなく、自然と足を向けていた。


 それはとある部屋。
 
 そう……
 
 二年前、辰丸が黒姫に介抱されたあの部屋……
 
 
 変わらぬ部屋の風景。
 今宵の月だけは、二年前と比べると細く、その光も雲に覆われている為か、弱々しい。

 
 言葉を交わしたのは、ただの一度きり。
 この場所で交わしたあの時だけだ。
 
 それなのに、なぜ鮮明に彼女の声を思い出せるのであろう。
 
 そして、なぜ彼女の面影をこの部屋で探してしまうのだろう。
 
 
 思い出とは、こうも切なく、美しいものなのなのか。
 
 
 否、『思い出』ではなく……
 
 
 『恋』とすべきであろうか……
 
 
 
 辰丸は、縁側に腰をかけると、空を見上げて月を見つめていたのだった。
 
 
 
 雲がゆらぎ、月が見え隠れする合間のこと。
 ふと、人の影が辰丸の背中にかかると、彼は静かに振り返った。
 
 
 そこには……
 
 
 黒姫の姿――
 
 
 辰丸は彼女の姿が目に入った瞬間に、驚きに大きく目を見開いたが、それも束の間、いつも通りの穏和な表情に戻して、柔らかな声をかけた。
 
 
「お久しぶりでございます、黒姫様」


「ええ、辰丸殿」


 たった一言ずつの挨拶。
 
 二人はただそれだけの言葉で、あとは静かに見つめ合っていた。
 
 
 二年前と、何ら変わらぬ黒姫の美しさ。
 
 
 わずかに残されていたあどけなさもすっかり影を潜め、大人の女性として妖艶さすら醸し出すその姿に、辰丸は吸い込まれるような心持ちであった。
 しかし不思議と狼狽はない。
 むしろ凪の日の湖のように、鏡のように透き通った心で、彼女を包みこんでいた。
 
 
 しばらく続いた沈黙を、初めに破ったのは黒姫の方であった。
 
 
「どうしても一言、お礼を申し上げたいのです」


「お礼……? 」


「ええ、わらわの婚約破棄の件でございます。辰丸殿のご活躍によって、わらわが反逆者の妻とならずにすんだ、とうかがっております」


「いえ、私はかような大きな事をいたしておりません。全てのご決断は、お屋形様によるものでございます。
お礼ならば、お屋形様に……」


 そう言いかけた瞬間のことであった。
 
 
 柔らかな黒姫の手が、
 
 辰丸の白くて細い手に重ねられたのは……
 
 
 辰丸は目を丸くして、間近に迫った黒姫の顔を見つめた。
 
 
 そして……
 
 
 
 二人の口と口が、ゆっくりと重なった――
 
 
 
 二人の恋の華が開いたその瞬間……
 
 
 月の薄い光だけが、一つになった彼らを祝福していた。
 
 
 
 大輪開けども、決して実ることのない恋の華。
 
 
 
 黒姫の頬を伝う、一筋の涙は、
 
 彼らの哀しい未来を表していたのだった――
 

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