小江戸・川越 神様のいるドッグカフェ 楓庵

友理潤

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第二幕 星になって見守るから

17.後悔していることを謝らないで

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◇◇

「朝食を用意するのは兄の役割でした。
 といっても耳を焦がしたトーストにヨーグルトとバナナ、それに一杯の牛乳だけなんですけどね。
 ――ちょっと焦げちゃった、ごめんな。
 毎朝、同じことを言うんですよ。
 少しは学習すればいいのに――。そんな風に冷めた目で見てました。
 ものごころついた頃には母がいなかったので、私にはどうしてうちは他の家族と違うのか理解できなかったんです。
 食事、洗濯、掃除、買い物――すべて父と兄が二人でこなしてました。
 私は……。やってもらうのが当たり前で、雨が降った時に洗濯ものをベランダから取り込むくらいしか手伝ってませんでした。しかもブーブーと文句を垂れながら――」

 二人でカフェを出た後、瑞希さんは「美乃里さんにはどうしても聞いてほしいんです」と言って、これまでの生い立ちを語り始めた。
 ソラに言われた時間まではあと15分ある。
 私が歩きながら彼女に小さくうなずいてみせると、彼女は落ち着いた口調で続けた。
 
「流星亡き後、私が寂しくて仕方ない時は、父と兄が二人して寄り添ってくれました。
 それでも授業参観の時なんかは大泣きして、父と兄を困らせましてね。
 みんなはお母さんがきているのに、なんで私の教室にはお母さんがこないの?
 って。
 小学4年生の時でした。兄がきてくれたんです。
 兄と私は3つしか年が離れてなかったので、自分だって学校あるのに、わざわざ休んで。
 私の担任の先生に追い出されそうになっても、兄は一歩も動こうとしなかったの。
 ――俺が瑞希の母ちゃんの代わりなんだ。
 ってね。
 でもかえって恥ずかしく仕方なかった。
 今となっては『なんて不孝者なんだ!』と思いますよ。でもあの時は自分のことしか考えられなかったんです。
 その頃からです。私が兄を遠ざけるようになったのは……」

 森の中に戻ってきた。
 ザクザクと落ち葉を踏む音と、しんみりした瑞希さんの声が調和し、秋特有の寂しさを深めている。
 そんな中で足元の灯りだけは、この世のあらゆる懺悔を許してくれるような柔らかな温もりで私たちを包んでくれていた。

「私が中学2年の頃です。
 過労で父が倒れたのは。それからわずか半年で他界しました。
 兄は高校に通いながら家事をすべてこなして、私が高校受験に集中できるようにしてくれたんです。
 それだけじゃありません。
 高校卒業後、すぐに就職して金銭面でも私が困らないように面倒を見てくれました。
 昼は工事現場で働いて、夜は家事。友達づきあいも、恋愛も、遊びも、全部を犠牲にして私のために身を粉にして……。
 ――瑞希はなんの心配もするなよ。大学いって、好きなことをするんだ!
 なんて真っ黒に日焼けした顔に白い歯をのぞかせて言うんですよ。
 でも私には兄の献身は重すぎました。
 高校卒業とともに住み慣れた実家を出たんです。
 別にやりたいことなんてなくて、進学もせず、バイトをしては友達の家をいったりきたり。
 でも行き場所がなくてたまに帰ると、どんなに夜遅くても笑顔で迎えてくれたんです。
 ――ちゃんと食べて、寝てるか? 体が資本だからな。
 って言いながら。
 それからくしゃくしゃの5000円札を持たせるんですよ。
 自分のことには一銭も使わないくせに……」

 瑞希さんの頬が涙で濡れている。
 いつの間にか私の頬にも一筋の涙が伝っていた。
 滲む視界の先には『楓庵』の看板。
 私たちの足は自然と速くなっていった。

「小さな会社の契約社員になって、自分で部屋を借りたのは20歳を過ぎた時です。
 私はようやく兄の呪縛から解き放たれた気持ちでした。
 それでも兄は時々、手紙で「元気か?」なんて送ってきたんですよ。
 当時は普通に携帯が普及していた頃です。それなのに手書きの手紙なんて……ありえないですよね?
 一緒に送られてくるのは、きまって私の好きなクッキー。しかも50枚入りの大きな箱で。一人で食べきれるわけがないので、オフィスに持っていくんです。みなさんどうぞって具合に。
 いつしかついたあだ名が『クッキーさん』。やってられませんでした。
 でもおかげで夫になる人に覚えてもらえたんです。
 兄と同い年の正社員さんで。今から思えば、優しいところやお酒が飲めないところも兄にそっくり。
 私の方から惚れて、飲み会や会社の行事で徐々に距離をつめていったんです。
 そして今から3年前。
 彼の方からプロポーズをしてくれました。天にも昇る気持ちで、もちろん答えは「Yes」。
 でも彼はこう言ったんです。
 ――君のお兄さんにちゃんと報告しよう。
 って……」

『楓庵』の看板の前で立ち止まる瑞希さん。
 でもすぐにはお店に入ろうとしなかった。
 私は彼女の横に立って、そっと肩に手を置いた。
 最後まで話してください、という言葉を瞳に映して。
 彼女はこくりとうなずいた後、小さな声で続けた。

「私が彼を連れて久しぶりに実家へ帰ると、兄はリビングで正座して待ってました。リビングはフローリングした床なんですよ。せめて椅子に座っていればいいのに。
 でも私の彼はそんな兄の前に正座して頭を下げたんです。
 ――妹さんを僕にください。
 と。
 あの時の兄の顔。今でも忘れません。
 閉じた口がもごもご動いて、目を何度もぱちくりさせて。
 泣いていいのか、笑っていいのか、よく分からなそうで。
 それから黙ったまま飲めないお酒をぐいっとあおったんです。
 そして真っ赤な顔でこう叫んだですよ。
 ――妹を……。瑞希を幸せにしてやってください! ちょっと意地っ張りなところはあるけど、いい子なんです! 誰よりも思いやりがあって、誰よりもよく笑う子なんです! お願いします! 一生、笑顔でいられるように大切にしてやってください!
 と。
 この時、私、不覚にも泣きました。
 やっと兄の愛を素直に受け入れられたんです。遅すぎますよね。
 大泣きして、その後のことはあまり覚えてません。でも幸せな時を過ごしたことだけは、はっきりと胸の奥に残ってます。
 半年後、私たちは結婚式を挙げました。バージンロードの兄は緊張のあまり顔が白くて。でも私以上に幸せそうに笑ってくれたんです。嬉しかったなぁ……。
 次は兄の番。誰よりも頑張ったんだから、誰よりも幸せになってほしい。
 本気でそう祈ってました。
 私が結婚した直後、兄は犬を飼い始めました。
 それがエトワールです。
 でも3年後。先週のことです。
 兄から突然メールがきたんです。
 ――エトワールたのむ
 たったそれだけ。
 心臓発作だったそうです。苦しみながら携帯を取り出して、必死にメールしたんでしょうね。救急が駆け付けた時には携帯を握りしめたまま息をしてなかったって……。
 私は夫と相談して実家にすぐ帰りました。
 夫もエトワールを引き取ること、そしてしばらくは誰もいなくなった私の実家で暮らすことに賛成してくれてます。
 でも私は……。兄に申し訳なくて……。
 今まで散々好き勝手やって、兄のすべてを奪っておいて……。
 なんで、なんで兄なの? 私じゃないの?
 私は……。私は……」

 泣きじゃくる瑞希さんを私はそっと抱き寄せた。

「大丈夫、大丈夫だから」

 そう何度も繰り返す。
 そうして彼女が少し落ち着いたところで、

「智也さんは瑞希さんの幸せをいつでも願っていた。今もそれはきっと変わらない。だから後悔していることを謝らないで。
瑞希さんが過去を引きずっていたら智也さんは心配するだけだから。
未来の幸せを素直に報せればいいの。さあ、行って」

 ぽんと背中を押した。
 瑞希さんは震える手でドアノブをつかむと、ぐいっとそれを引いたのだった。
 
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