小江戸・川越 神様のいるドッグカフェ 楓庵

友理潤

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第四幕 よみがえりのノクターン

37.よかったら話してくれませんか?

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◇◇

 薄っすらと目を開けると、白い天井が目に映った。どうやらベッドの上で寝かされているらしい。部屋の中は暗い。そして懐かしさすら感じる独特なにおい――ここは病院?

「目、覚めたようだね」

 左隣から聞きなれた声が聞こえてきた。
 声の主の方へ顔を向けると、やっぱり思った通り。
 柔らかな笑みを浮かべた八尋さんだ。

「お店は!?」

 体を起こそうとすると、ズキッと頭に痛みが走る。

「いてっ!」

「無理しない方がいい。今夜はここで過ごすんだ。いいね?」

 穏やかだけど芯の通った声色に、私は大人しく従わざるを得なかった。
 再び枕に頭をうずめて天井を見上げる。
 八尋さんに対して申し訳ない気持ちと、自分に対して情けない気持ちが入り混じり、言葉が出てこない。
 本当は聞きたいことはたくさんある。でもお店に迷惑をかけておきながら、自分の興味本位であれこれ聞くのは、さすがに気が引ける。
 時折、誰かがスリッパで廊下を歩くパタパタという音以外は何も聞こえてこない静寂がしばらく流れた。
 すると八尋さんの方から話を切り出してきたのだった。

「ソラ様から聞いたよ。店にくる前に、僕が飼っていた猫のことを聞いたようだね」

 私が勝手に詮索しているのを知っているにも関わらず、八尋さんの声が変わらず優しくて、鼻の奥にツンとした痛みが走る。だから私は彼の顔を見ることができず、天井を見上げたまま「はい」とか細い声で答えた。
 再び私と八尋さんの間に沈黙が流れる。
 怒られても仕方ない、そう覚悟を決めていたのだが、彼の口から出てきた言葉は意外なものだった。

「僕はね……。こう見えても昔は名の知れたピアノの演奏家でね」

「八島凛之助……ですか……?」

 私がさらりと返したのが意外だったのか、八尋さんの言葉がわずかの間止まった。

「ああ。その名前を耳にしたのは久しぶりだったから、ちょっと驚いたよ。そう、もう20年以上も前になるね。その名前を知っているということは、僕がピアノの世界から姿を消した理由も知っているということかな?」

「奥様のこと……でしょうか……」

「ああ、その通りだ」

 八尋さんの声が鉛がついたように重くなる。

「ごめんなさい。いらぬことを聞いてしまって……」

「美乃里さんが謝る必要なんてないよ。後ろめたい過去を隠していたのは僕の方なんだから。いや、むしろ、僕はいつか君の方から過去のことを聞かれるのを待っていたのかもしれないし」

「どういうことですか?」

 八尋さんの方へ顔を向ける。わずかな部屋のあかりを背にした彼の顔には深いしわが影となって浮かんでいる。彼は見てるだけで胸がぎゅっと締め付けられるような沈痛な面持ちに、乾いた笑みを浮かべて続けた。

「楓庵での君の振る舞いを目の当たりにしてね。君ならもしかしたら……いや……」

 言葉を濁した八尋さんが私から顔をそらし、膝の上に置いていたコートを手に取る。

「じゃあ、ゆっくり休んで。お店に出てくるのは元気になったらでかまわないから」

 そう言って立ち去ろうとした彼を、私は呼び止めた。

「待ってください!」

 八尋さんの瞳には救いを求める色が濃くなっていると、私には思えてならなかった。自然と言葉が口から飛び出す。

「よかったら話してもらえませんか? 奥様とノクターンのこと」

 八尋さんは立ったまま私をじっと見つめている。真一文字に結ばれた唇がかすかに震えているのは、葛藤のあらわれだろう。
 私も彼から目をそらさなかった。
 ピンと糸が張りつめたのような緊張が私たちの間に走る。
 もし彼の話を聞いてしまったら、これまでのような心地よい関係が終わってしまうだろう。そんなことは分かっている。それでも私は彼の話を聞かねばならない。八尋さんを後悔の海から引きずり出してみせると、年始に誓ったからだ。
 そんな私の覚悟が伝わったのか、八尋さんは元の椅子にすとんと腰を下ろした。

「ちょっと長くなるけどいいかな?」

「ええ。おかげさまで個室ですし、夜は長いですから」

 八尋さんはわずかに口角を上げた後、いつになく重い口調で話しはじめたのだった。

◇◇

 僕がはじめて鍵盤に触れたのは5歳の時だった。
 この日は保育園がいっぱいだからということで、母の職場であるピアノ教室へ連れられていってね。待合室の片隅に置かれていたピアノのおもちゃで遊んでいたところで、教室長のおじさんに声をかけられたんだよ。

「本物を弾いてみないか?」

 目を輝かせた僕は、無心で鍵盤をたたいた。今思えば、心のままにピアノを弾いたのは、あの時が最初で最後だったかもしれない。母が家のピアノでよく弾いていたショパンの音色を思い浮かべながら、指を自在に走らせたんだ。

「小枝子さん! ちょっと来てくれ! 授業中? いいから! 凛之助くんのピアノ!! 天才だよ! 天才!!」

「りんくん……。りんくん! すごい!!」

 大慌てしたおじさんの声。
 大喜びする母の声。
 その他にも色々な人たちから褒められたよ。
 僕は幼い頃から引っ込み思案な性格で、人と接するのが上手くなかった。
 父と母がものごころつく前に、些細な喧嘩がもとで離婚していたのも影響していたのかもしれないね。
 だからこの日、大人たちが声をかけてくれることがすごく嬉しかったんだ。
 
 ――もっと上手に弾けたら、もっと多くの人から褒めてもらえるのかな?

 僕がピアノを始めたのはそんな単純なきっかけだった。
 母も最初は本気で教える気はなかったようだったんだけどね。
 自分で言うのもなんだけど、僕は母から教わったことをまるでスポンジのようにあっという間に吸収して、音で表現することができた。
 母にとってもそれは格好のストレス発散だったのかもしれない。体力には自信があるからと昼夜関係なく働きながら子育てをしていた母だったが、それでも心身への負担は相当なものだっただろう。でも僕にピアノを教えている時だけは、疲れた顔ひとつせずにいきいきとしていてね。

「すごいわ! りんくん!!」

 母のあの顔がもっと見たくて、懸命に母の言葉に耳を傾け、彼女の指先に目を光らせた。
 でもね。僕は夢中になるあまり、気づいていなかったんだよ。
 母が変わってしまったことに……。
 それは僕が7歳の時。母の誕生日だった。
 僕は「ハッピーバースデー・トゥーユー」のメロディを母に内緒で勉強してね。稽古の前にそれを披露したのだけど、母は鬼のような形相で激怒した。

「おまえは私から教わったことだけやっていればいいの!!」

 とね……。
 もうこの頃から母にとって僕は『自分だけの忠実な奴隷』だったんだよ。だから母は少しでも自分の思い通りにならなかったら、すぐに癇癪を起すようになった。
 そして友達と遊ぶことはおろか、会うことすら禁じられた。
 来る日も来る日もピアノづけの毎日。当然、はじめは反抗したさ。
 母はそんな僕を甲高い声で叱りつけた。

「口ごたえするな!! 私がいなくちゃ何もできないくせに!!」

 それでも聞かない時は、容赦なく引っ叩かれたな。顔の形が変わるくらいまで。そんな日々を送るうちに僕の心は壊れてしまった。痛みも苦しみも恐怖も、何も感じなくなった。その代償に喜びも興奮も、そして希望すら僕の心から消え去ってしまった。

 けど、あれは小学4年生の冬。
 僕は死んだ心をよみがえらせる人に出会った。
 後に僕の妻となる女性……花音かのんだったんだ――。
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