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第二話
第二話 春川理容店 いつも空いてる指定席 ①
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◇◇
とある理容室の片隅で、白いユニフォームに身を包んだ中年の男性が、切りそろえたばかりのスポーツ刈りをした少年に対して、申しわけなさそうな顔で話しかけていた。
――ほんと、ごめんねぇ。痛かっただろう。
――ううん! 僕平気だよ!
元気よく答えた少年は、にかっと男性に笑顔を見せる。
男性はその笑顔にほっとして、少年の背後にある大きな鏡に目を移す。
そこに映った少年の首すじに貼られた大きなばんそうこうは、目に入るだけで痛々しい。
この日、理容師の男性はカミソリで少年の襟足をそろえている途中に、首すじにあった出来物を傷つけてしまったのだ。
とは言え、傷は浅く軟膏を塗った後はすぐに血も止まった。
――そうか、そうか。翔太くんは強いんだねぇ。
――うん! 僕はもっと強くなって、泣き虫のリョウジを守るんだ!
――弟の亮二くんを守るお兄ちゃん。かっこいいなぁ。……そうだ! これを持っていきなさい。
店の奥から取り出した二つのキャラメルの箱。
パッケージも味も昔ながら変わらぬその菓子は、どんな時代の子どもにも愛されている。
それは目の前で太陽のような笑顔を見せている翔太少年も変わらなかった。
――わぁ! キャラメルだぁ! どっちももらっていいの?
――うん、もちろんだよ。弟くんの分までね。
――ありがとう! おじちゃん!!
少年は小さな手でキャラメルの箱を受け取ると、左右のポケットに分けて突っ込む。
そして、育ちの良さが分かる丁寧なお辞儀の後に、理容室の扉に手をかけた。
扉につけられた鉄製の小さな鐘が、カラン、カランと音を立てる。
男性は少年の背中に向けて声をかけた。
――今日はいつもより暗いから、気をつけて帰るんだよ!
――うん! ありがとう!
◇◇
それは春川理容店の主人、春川 吉介(はるかわ きちすけ)の夢。
だがそれは架空のできごとではなく、実際に彼が体験したことだ。
そして、彼はいつも同じシーンで目を覚ます。
この日も同じだった。
まだ朝日が顔を覗かせる前、空がようやく白み始めた頃。
布団から出た彼は洗面所に向かった。
バシャッ。バシャッ。
と、二度だけ冷水を顔に浴びせると、ごしごしとタオルで拭く。
その直後、彼は鏡に映った自分の顔に目をやった。
しわくちゃの顔に、真っ白な髪。
明日で七〇歳を迎えるに相応しい年老いた自分に、彼は苦笑いを浮かべた。
毎朝の変わらぬ日課だ。
彼は何よりも『習慣』を大切にし、これまでの数十年もの長い間、休日以外はまったく同じ行動を繰り返してきた。
自宅を兼ねた理容店の玄関先へ行って、目の前の道路を掃除した後、彼の長年連れ添った妻の呼びかけに応じて朝食を取る。
その後は新聞に一通り目を通して、この日の客との会話のネタを仕込んでおき、朝一番で散髪にくる客に合わせて、午前七時半には店を開ける――
習慣から外れた行動を取れば、ろくなことにならない。
彼は過去の苦い経験から、そう信じてやまなかった。
もしあの日、いつも通りに髪を切りそろえるだけにとどめていたなら……。
余計なおせっかいを働かせて襟足にカミソリをあてなければ……。
後悔は彼の信念を変え、信念は行動を変えた。
あの日以来、彼は自分の習慣に基づく行動以外のことを拒絶し続けてきたのだった。
しかしこの日は違った。
鏡に映った自分に対して、普段とは異なる感情がこみあげてきたのだ。
それは救いを求めたくなるような苦痛を伴うもので、そのまま放っておく訳にもいかなかった。
そこで彼はたった一言だけ、鏡に向かって声をかけたのである。
「今日ですべて終わり……。きっと夢も見なくなるから安心なさい」
まるで幼子にかけるような優しい口調だ。
彼はその励ましに応えるように小さくうなずくと、洗面所を後にした。
なぜ彼が忌み嫌っていた『習慣に基づかぬ行動』をとったのか。
それもこの日が特別な日だったからかもしれない。
なぜなら今日は、彼がハサミを置く日……つまり理容師を引退する日なのだから。
――最後の日くらい、自分の心に素直になってもいいだろう?
そのように彼は、彼自身と心の中にいる『とある人物』に許しを得ていたのだった。
それでも一日は普段通りに進んでいく。
掃除、朝食、新聞そして開店……。
すべていつもと変わらない。
ほんの少し変わったことと言えば、いつもよりもちょっとだけお客が多いこと。
もちろん彼らは吉介の引退を知ってやってきた常連たちだ。
しんみりするくらいなら、時間を忘れるくらいに忙しい方がましというものだ。
彼はお客ひとりひとりに、いつもと変わらぬ丁寧な仕事をしていった。
そうしてお客が全員はける頃には、辺りはすっかり夕焼け色に染まっていたのであった。
今日は水曜日。
理容室の席ごとにつけてある予約表には、これ以降は一人の客の名前もない。
「今日くらい、早めに店じまいにしようかねぇ」
外を見ながらそう呟くと、扉に手をかけた。
カランッ、カランッ。
数十年前と何も変わらない鐘の音が響く。
そして外に置かれた三色のサインポールの電源を落とそうとした時だった……。
すっと目の前に伸びてきた黒い影に顔を上げると、視界に飛び込んできたものに、彼は口をぽかんと開けた。
「おまえさんは……」
そこに立っていたのは、薄い緑色のドラゴンの着ぐるみ……。
りゅっしーだった――
とある理容室の片隅で、白いユニフォームに身を包んだ中年の男性が、切りそろえたばかりのスポーツ刈りをした少年に対して、申しわけなさそうな顔で話しかけていた。
――ほんと、ごめんねぇ。痛かっただろう。
――ううん! 僕平気だよ!
元気よく答えた少年は、にかっと男性に笑顔を見せる。
男性はその笑顔にほっとして、少年の背後にある大きな鏡に目を移す。
そこに映った少年の首すじに貼られた大きなばんそうこうは、目に入るだけで痛々しい。
この日、理容師の男性はカミソリで少年の襟足をそろえている途中に、首すじにあった出来物を傷つけてしまったのだ。
とは言え、傷は浅く軟膏を塗った後はすぐに血も止まった。
――そうか、そうか。翔太くんは強いんだねぇ。
――うん! 僕はもっと強くなって、泣き虫のリョウジを守るんだ!
――弟の亮二くんを守るお兄ちゃん。かっこいいなぁ。……そうだ! これを持っていきなさい。
店の奥から取り出した二つのキャラメルの箱。
パッケージも味も昔ながら変わらぬその菓子は、どんな時代の子どもにも愛されている。
それは目の前で太陽のような笑顔を見せている翔太少年も変わらなかった。
――わぁ! キャラメルだぁ! どっちももらっていいの?
――うん、もちろんだよ。弟くんの分までね。
――ありがとう! おじちゃん!!
少年は小さな手でキャラメルの箱を受け取ると、左右のポケットに分けて突っ込む。
そして、育ちの良さが分かる丁寧なお辞儀の後に、理容室の扉に手をかけた。
扉につけられた鉄製の小さな鐘が、カラン、カランと音を立てる。
男性は少年の背中に向けて声をかけた。
――今日はいつもより暗いから、気をつけて帰るんだよ!
――うん! ありがとう!
◇◇
それは春川理容店の主人、春川 吉介(はるかわ きちすけ)の夢。
だがそれは架空のできごとではなく、実際に彼が体験したことだ。
そして、彼はいつも同じシーンで目を覚ます。
この日も同じだった。
まだ朝日が顔を覗かせる前、空がようやく白み始めた頃。
布団から出た彼は洗面所に向かった。
バシャッ。バシャッ。
と、二度だけ冷水を顔に浴びせると、ごしごしとタオルで拭く。
その直後、彼は鏡に映った自分の顔に目をやった。
しわくちゃの顔に、真っ白な髪。
明日で七〇歳を迎えるに相応しい年老いた自分に、彼は苦笑いを浮かべた。
毎朝の変わらぬ日課だ。
彼は何よりも『習慣』を大切にし、これまでの数十年もの長い間、休日以外はまったく同じ行動を繰り返してきた。
自宅を兼ねた理容店の玄関先へ行って、目の前の道路を掃除した後、彼の長年連れ添った妻の呼びかけに応じて朝食を取る。
その後は新聞に一通り目を通して、この日の客との会話のネタを仕込んでおき、朝一番で散髪にくる客に合わせて、午前七時半には店を開ける――
習慣から外れた行動を取れば、ろくなことにならない。
彼は過去の苦い経験から、そう信じてやまなかった。
もしあの日、いつも通りに髪を切りそろえるだけにとどめていたなら……。
余計なおせっかいを働かせて襟足にカミソリをあてなければ……。
後悔は彼の信念を変え、信念は行動を変えた。
あの日以来、彼は自分の習慣に基づく行動以外のことを拒絶し続けてきたのだった。
しかしこの日は違った。
鏡に映った自分に対して、普段とは異なる感情がこみあげてきたのだ。
それは救いを求めたくなるような苦痛を伴うもので、そのまま放っておく訳にもいかなかった。
そこで彼はたった一言だけ、鏡に向かって声をかけたのである。
「今日ですべて終わり……。きっと夢も見なくなるから安心なさい」
まるで幼子にかけるような優しい口調だ。
彼はその励ましに応えるように小さくうなずくと、洗面所を後にした。
なぜ彼が忌み嫌っていた『習慣に基づかぬ行動』をとったのか。
それもこの日が特別な日だったからかもしれない。
なぜなら今日は、彼がハサミを置く日……つまり理容師を引退する日なのだから。
――最後の日くらい、自分の心に素直になってもいいだろう?
そのように彼は、彼自身と心の中にいる『とある人物』に許しを得ていたのだった。
それでも一日は普段通りに進んでいく。
掃除、朝食、新聞そして開店……。
すべていつもと変わらない。
ほんの少し変わったことと言えば、いつもよりもちょっとだけお客が多いこと。
もちろん彼らは吉介の引退を知ってやってきた常連たちだ。
しんみりするくらいなら、時間を忘れるくらいに忙しい方がましというものだ。
彼はお客ひとりひとりに、いつもと変わらぬ丁寧な仕事をしていった。
そうしてお客が全員はける頃には、辺りはすっかり夕焼け色に染まっていたのであった。
今日は水曜日。
理容室の席ごとにつけてある予約表には、これ以降は一人の客の名前もない。
「今日くらい、早めに店じまいにしようかねぇ」
外を見ながらそう呟くと、扉に手をかけた。
カランッ、カランッ。
数十年前と何も変わらない鐘の音が響く。
そして外に置かれた三色のサインポールの電源を落とそうとした時だった……。
すっと目の前に伸びてきた黒い影に顔を上げると、視界に飛び込んできたものに、彼は口をぽかんと開けた。
「おまえさんは……」
そこに立っていたのは、薄い緑色のドラゴンの着ぐるみ……。
りゅっしーだった――
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