セックスの価値

神崎

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初めての味

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 駅前に車を停めて、春川は駐車場から出た。クリスマスのイルミネーションがそこら彼処に町を彩っている。
 祥吾はそう言ったイベントが嫌いなので、ケーキ一つ、プレゼント一つ用意したことはない。だが桂は別かもしれない。彼女の左腕に飾られたブレスレット。このお礼をまだしていない。どんなものが男が喜ぶのだろう。いつか見た出張ホストで北川と達哉がショッピングをしていたときは腕時計を買っていたようだったが、そういったものがいいのだろうか。
 駅前にあるショーウィンドウを見ながら、彼女はそう思いを馳せていた。そのときだった。
「秋野。」
 声をかけられて彼女は振り返る。そこには充の姿があった。イヤな人に会ったと思ったのだろうか、彼女の表情が怪訝そうに変わる。
「そうイヤな顔をするんじゃねぇよ。」
「会いたくなかったからよ。」
 彼女が見ていたショーウィンドウの腕時計を見て、彼はニヤリと笑った。
「彼氏のプレゼントか?」
「私は既婚者よ。恋人なんかいないわ。買うとしても夫のものよ。」
「旦那がいても恋人はありだと思うけどな。」
 にやにやと笑いながら彼女に近づいてくる。その体を彼女は避けるように後ろに下がった。
「俺、明奈と知り合いなんだよな。」
 明奈の名前に彼女の表情が変わる。姉のことを知られたのだろうか。だが彼女は冷静に彼に言う。
「ヤク中のAV女優と知り合いなんて、たかが知れてるわ。」
「あんたはそのヤク中のAV女優の妹だろ?」
 さすがに彼女の表情が変わる。だが誤魔化さなければいけない。彼女はぐっと拳を握り、彼の方を向かずに言った。
「人違いでしょ?」
「明奈は間違いないって言ってた。あんたの本名は浅海春だろ?」
「……浅海なんて名字はどこにでもあるわ。」
「ねぇよ。ある地域の限定した地域でしかいない。漁港のある海辺の地域。その辺には沢山いるようだがな。」
「……。」
「その地域に十年近く前、殺人事件があった。夫が妻を殺した事件だ。その夫はその後自殺してる。夫婦には娘が二人いた。姉は行方不明。妹は施設に入り、その後、ある男と結婚した。」
「妹の方が幸せになれているわね。小説の題材になりそうなネタ。あなたノンフィクションで本を出したら?」
「あんたのことを出していいのか?」
「私のことではないわ。」
「秋野。」
「もう行かないと。今から打ち合わせなの。」
 自分のことだ。だから彼女は誤魔化したのだ。それを感じ、彼は彼女を呼び止める。
「そのある男ってのが、作家の冬山祥吾。冬山は妹のネタをいつか小説にしようとしている。だから妹を妻という鎖でつないでいるんだ。妹は、どんな形でも家族が欲しかった。だから冬山が女で遊んでいても何も言わない。」
「先生はそんなことをしないわ。」
 その言葉に彼はニヤリと笑う。
「先生ね……。」
 しまった。自分がその「妹」だと言ってしまったようなものだ。うまく誤魔化していたと思ったのに、ついムキになってしまった。
「……確かに私はライターをしながら、先生の助手もしているわ。主に資料集めだけど。」
「妻ではないのか?」
「先生がいくつだと思っているの?私のような子供みたいな人を、妻にするわけはない。」
「あんたさぁ。」
 充はそういって彼女に近づいてくる。
「桂さんにもそんなこと言ってんのか?」
「桂さんがどうしてそこで出てくるの?」
「まぁ、この際桂さんはどうでもいいわ。自己評価低すぎねぇか?二十五ちゃ、もういい大人なのにさ。」
「……あんたには関係ないわ。ノンフィクションを書くのは何も言わないけれど、ちゃんと許可を得て書いてね。それが事実なら、妹も姉も深く傷ついているのだから。」
 折れてはいけない。充に屈してはいけないのだ。彼は知りすぎている。ここで認めたらどこでどんな風に漏れるかわからないのだ。
「いい女だよな。あんた。」
「あなたは変わった趣味ね。」
「いいや。不発とは言え、一応キスした仲じゃねぇか。」
「不本意よ。」
「一度寝とくか?AV男優よりは落ちるだろうけど、俺のも気持ちいいぜ?」
「やめておくわ。夫以外のち○ぽなんてエリンギかシメジでしょ?」
 少し笑い、彼女は彼を見上げる。
「エノキかしら。」
「お前……。」
「何にしてもかまわない。あなたと寝ることも、キスすることもこれからない。」
「いい度胸かも知れないが、裏付けはとれてる。明奈が全部話したからな。」
「私である証拠もないわ。」
「かも知れねぇ。けど明奈に会えばすべて終わりだ。あんたがこういう世界にいれば、いずれ明奈と会うだろう。」
「……今度は脅迫?いやらしいゴシップ記者ね。」
「あんたが明奈と会いたくなきゃ、この世界から身を引きな。作家だけで食っていけるだろ?それか俺が黙っておくか。」
「見返りを求めてるの?」
「あぁ。俺と寝ろよ。」
 興味がある。桂が惚れている女。誰よりも守りたい女だろう。そこまで夢中にさせる理由が知りたい。だが彼女は強気にいう。
「あなたと寝ることは絶対ない。」
「旦那とレスだっていってたもんな。欲求不満の人妻。」
「旦那としなくても、欲求不満を解消させるすべなんかいくらでも知っているわ。あなたに頼らなくても結構。」
「俺はバイブ以下かよ。」
「えぇ。そうね。バイブ以下と言うよりも人のことをかぎ回す嫌らしいゴシップ記者。名誉毀損で訴えるわよ。それともセクハラって言った方がいい?」
「生意気な女。でもそういう感じ嫌いじゃない。春川。イヤ……春か。むしろあんたを俺は気に入ってる。」
「あんたが好きなのは私の文章だけよ。」
 そのとき彼女の携帯電話がなる。編集者からだった。
「もう行くわ。さようなら。もう会うこともないと思うけど。」
「また会うよ。」
「会いたくない。」
「いい思いさせてやるよ。」
 そういって彼は素早く彼女の唇にキスをしようとした。しかし彼女の反応の方が素早い。手で彼の唇を防いだ。そして彼に背を向けて去っていく。

 ビルから出てきた春川は、ぐっと伸びをした。新しい本の打ち合わせだったのだ。浜崎が自殺して、その後任として着任した新しい担当編集者はたどたどしくもきちんと仕事をこなしてくれる人で、相談やアドバイスもしてくれる若い男だった。
 男性向けの官能小説を主に書いていたその出版社では女性よりも、男性の方が都合がいい。それに女性はどうしてもそういう言葉にいちいち恥ずかしがる。気にしないで欲しい。ただの言葉なのだから。
「春。」
 彼女は声をかけられて、ふと振り返った。そこには祥吾の姿がある。
「先生。」
「君の用事はこの出版社だったのか。」
「えぇ。一緒でしたら一緒に行けば良かったですね。」
「君は別にも用事があるだろう?気にしなくて大丈夫だ。それよりも今日はこれからまた用事は?」
「これから大学の図書館へ。」
「そうか。だったら急ぐ用事ではないね。どうだろう。少し歩かないか?」
「え?先生とですか?」
「あぁ。外の空気のリアリティを知りたいと思ってね。それにほら。」
 彼が指さしたのは、クリスマスムードに染められたツリーだった。
「あぁ言ったものを君と見たことはないからね。」
「先生は嫌いだと思ってました。」
「ネタとしては最高だと思うよ。それに恋人同士の感覚を思い出したくてね。」
「そうですね。では少し歩きましょう。」
 和服の祥吾と、どこか近所からやってきたような気合いの入っていない格好の春川。
 誰がこの二人を夫婦と思うだろうか。誰も思わない。良くても親子だろう。だが祥吾も春川もそんなことは気にしていない。
 しばらく忘れていた。こんな感覚を。隣で歩くだけでときめいていたあのころ。でも今はその手に触れようとも思わない。もうこの人に恋をしていないのだ。
 そして触れたいのは、桂だけだと思う。
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