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初めての味
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そのころ春川は涼太とともに繁華街にいた。居酒屋やバーが並ぶその通りを抜けて、涼太が連れてきたのは奥にあるイタリアンレストランだった。と言っても肩の力を入れるような店などではなく、古いビルの一階にあるツタの絡まった店だった。
「よく来るんだ。いい店だよ。」
「へぇ。こんなところがあったんですね。」
「あまり繁華街には来ないようだね。」
「焼き肉屋で一ヶ月に一度あるかないかでバイトしてますけどね。」
「へぇ。焼き肉屋?」
確かにライターなどをしていているよりは、そういうものの方があっている気がする。体を動かして取材などをしているのだろう。体験するというよりは、見て、感じたことを文章にしている。彼女の文章を読んでいるとそう言う感じに受け取れた。
そして今日、すでに一時間ほど一緒にいるが、興味のあるところへふらふらと行ってしまう彼女。彼女の夫というのは大変だろうなと心の中で思っていた。
年齢の割に大人のようだが、そういったところが子供のようだ。そして普通では口にできないようなことも平気で口にする。そういう仕事なのだから仕方ないが、そんなにまっすぐにいわれたこともなかったので当初は面食らった。だがそれが心地いい感じもする。
「なんて読むんですか?」
イタリア語の屋号で読めなかったのだろう。
「Piacere。楽しみとか、喜びとかいう意味だね。」
古い木のドアを開けると中から出てくる暖かい空気が身を包み、同時にニンニクやトマトソースなどの香りがする。そしてあまり広くない店内に、お客さんが沢山居る。そのテーブルを器用に料理を提供する中年女性。黒髪で、髪をアップにした背の高い女性だった。というかすべてが大きい。胸も、尻もすべてが大きく、顔の彫りも深い。まるでこの国の人ではないようだった。
「いらっしゃい。涼。久しぶりねぇ。」
よく見るとあまり若くはない。顔のしわがそれを物語っている。
「ママ。席空けてくれてる?」
「えぇ、奥の席ね。あら、可愛らしいお嬢さん。涼の恋人かしら?」
「いいえ。初めまして。秋野と言います。」
「秋野さんね。どうぞ。いらっしゃい。メニューをお持ちするわね。今日はサワラが美味しくてよ。」
「楽しみだね。」
涼太はそういって彼女を見下ろすと、彼女は上っ面の笑顔を浮かべた。
やっと自分のペースに持ってこれた。涼太はそう思いながら、席に着く。向かいの席に春川がコートを預けて座る。そして店内をきょろきょろと見ていた。
「イタリアン、苦手だった?」
「いいえ。食べれないものはないんです。お酒だけ飲めないというだけで。こういう仕事をしてれば、何でも食べれたり飲めたりした方が有利なんですけどね。」
彼女はそういって、水に口を付けた。
「お酒飲めないの?まぁ、残念ねぇ。食前酒に今日くらいが飲み頃のサングリアを付けようと思ってたんだけど。」
メニューを手渡したママと呼ばれた女性が残念そうに言う。
「サングリアは甘くてジュースみたいだよ。一杯くらいなら飲めるんじゃないのかな。」
「アルコールを飲んだことがないんです。だから飲めるかどうかもわからなくて。」
その言葉に涼太もママも顔を見合わせた。
「どれだけお嬢さんなの?」
「旦那さんがそれだけ過保護とも言えるね。」
「あら、旦那さんがいるの。若そうなのに。まぁ、旦那の言うことは聞いておいた方がいいに越したことはないわ。ノンアルコールは後ろに書いてある。ノンアルコールカクテルなんてものもあるのよ。」
「あぁ。カクテルってそういったものもあるんですね。お酒だけと思ってました。」
「美味しいわよ。うちのは。」
すると向こうでママを呼ぶ声がした。その声に彼女は行ってしまう。
「本当に飲まない?サングリア。」
「止めておきます。口にしたことのないものを口にしたら、どうなるかわからないし。」
「それも経験だよ。そしてそれも文章の糧になるんじゃない?」
文章の糧という言葉に、彼女は薄く反応した。確かにそうだ。お酒を飲んでいないのに、お酒のコラムの話が来たらどうするのだろう。
想像で書くのか。それとも飲んでいる人の意見を書くのか。どちらにしてもリアルな文章とはほど遠い気がする。
だが目の前には、桂ではないし、祥吾ではない、出張ホストをしているという涼太がいる。もし酔って、彼に介抱されればきっと介抱だけではすまないだろう。彼も男なのだから。充がそうしたように、彼女が人妻だからと言って手を出さない理由にはならない。
彼女はその考えでメニューを見ながら心が揺れていた。その様子に涼太は少し笑って、彼女をみる。
「そんなに深く考えないで。そんなに酔っぱらうほど飲まなければいいのだから。」
「少しで酔ってしまうかもしれないから、迷っているんですよ。」
「そのときはちゃんと送り届けて上げるから。あぁ。それは別に料金に入れる気はないよ。俺が飲ませたんだし。」
紳士な男だ。桂にも祥吾にもないような感覚に、彼女はまたメニューに目を落とした。
「とりあえず食事を頼もうか。さっき言われたサワラも食べる?」
「あ、はい。」
メニューは涼太に任せて、春川はまた回りを見渡した。お酒を飲んでいる人がほとんどだが、家族で来ている人もいる。
父、母、子供が二人。外食にはしゃいでいる妹をたしなめるように姉が注意をしている。しっかりした姉だ。
自分の家族もこんな家族だった。もっとも仲が良くなかったし、貧乏だったから外食なんてできなかったが。
「秋野さんは、結婚してどれくらいになるって言ってたっけ?」
「七年です。」
「二十五って言ってたから十八の時に結婚したんだ。高校を卒業してすぐ?」
「えぇ。別に結婚までしなくても良かったんですけど、一緒に住んでいたので結婚した方が体裁がいいと言われたんです。」
「それって、好きで結婚したわけじゃないんじゃないの?」
「……まぁ。今、考えればそう思いますけど。でも私には身寄りがないので、どんな形でも家族ができるのはいいことです。住んでいれば家族になれるし、それなりに愛情が生まれるだろうと。」
「で、生まれた?」
その言葉に彼女は少し戸惑ったように手を止めた。しかし言えない。愛しているのは桂だけだというコトなんて。
そのときママが飲み物を持ってきた。涼太にはグラスワインを、春川にはノンアルコールのカクテルを前に置く。
「お待たせ。サラダももう少しで出来るからね。」
「ありがとうございます。」
うまく誤魔化せた。綺麗なオレンジ色のカクテルを見ながら、彼女は内心ほっとしていた。
「アルコール入っていないんですね。」
「そうだね。乾杯でもしようか?」
「はい。」
グラスをあわせる。そのとき、彼の目線が気になった。それは彼女を見ていないような気がしたから。彼女を誰かと重ね合わせている。そんな気がした。
「よく来るんだ。いい店だよ。」
「へぇ。こんなところがあったんですね。」
「あまり繁華街には来ないようだね。」
「焼き肉屋で一ヶ月に一度あるかないかでバイトしてますけどね。」
「へぇ。焼き肉屋?」
確かにライターなどをしていているよりは、そういうものの方があっている気がする。体を動かして取材などをしているのだろう。体験するというよりは、見て、感じたことを文章にしている。彼女の文章を読んでいるとそう言う感じに受け取れた。
そして今日、すでに一時間ほど一緒にいるが、興味のあるところへふらふらと行ってしまう彼女。彼女の夫というのは大変だろうなと心の中で思っていた。
年齢の割に大人のようだが、そういったところが子供のようだ。そして普通では口にできないようなことも平気で口にする。そういう仕事なのだから仕方ないが、そんなにまっすぐにいわれたこともなかったので当初は面食らった。だがそれが心地いい感じもする。
「なんて読むんですか?」
イタリア語の屋号で読めなかったのだろう。
「Piacere。楽しみとか、喜びとかいう意味だね。」
古い木のドアを開けると中から出てくる暖かい空気が身を包み、同時にニンニクやトマトソースなどの香りがする。そしてあまり広くない店内に、お客さんが沢山居る。そのテーブルを器用に料理を提供する中年女性。黒髪で、髪をアップにした背の高い女性だった。というかすべてが大きい。胸も、尻もすべてが大きく、顔の彫りも深い。まるでこの国の人ではないようだった。
「いらっしゃい。涼。久しぶりねぇ。」
よく見るとあまり若くはない。顔のしわがそれを物語っている。
「ママ。席空けてくれてる?」
「えぇ、奥の席ね。あら、可愛らしいお嬢さん。涼の恋人かしら?」
「いいえ。初めまして。秋野と言います。」
「秋野さんね。どうぞ。いらっしゃい。メニューをお持ちするわね。今日はサワラが美味しくてよ。」
「楽しみだね。」
涼太はそういって彼女を見下ろすと、彼女は上っ面の笑顔を浮かべた。
やっと自分のペースに持ってこれた。涼太はそう思いながら、席に着く。向かいの席に春川がコートを預けて座る。そして店内をきょろきょろと見ていた。
「イタリアン、苦手だった?」
「いいえ。食べれないものはないんです。お酒だけ飲めないというだけで。こういう仕事をしてれば、何でも食べれたり飲めたりした方が有利なんですけどね。」
彼女はそういって、水に口を付けた。
「お酒飲めないの?まぁ、残念ねぇ。食前酒に今日くらいが飲み頃のサングリアを付けようと思ってたんだけど。」
メニューを手渡したママと呼ばれた女性が残念そうに言う。
「サングリアは甘くてジュースみたいだよ。一杯くらいなら飲めるんじゃないのかな。」
「アルコールを飲んだことがないんです。だから飲めるかどうかもわからなくて。」
その言葉に涼太もママも顔を見合わせた。
「どれだけお嬢さんなの?」
「旦那さんがそれだけ過保護とも言えるね。」
「あら、旦那さんがいるの。若そうなのに。まぁ、旦那の言うことは聞いておいた方がいいに越したことはないわ。ノンアルコールは後ろに書いてある。ノンアルコールカクテルなんてものもあるのよ。」
「あぁ。カクテルってそういったものもあるんですね。お酒だけと思ってました。」
「美味しいわよ。うちのは。」
すると向こうでママを呼ぶ声がした。その声に彼女は行ってしまう。
「本当に飲まない?サングリア。」
「止めておきます。口にしたことのないものを口にしたら、どうなるかわからないし。」
「それも経験だよ。そしてそれも文章の糧になるんじゃない?」
文章の糧という言葉に、彼女は薄く反応した。確かにそうだ。お酒を飲んでいないのに、お酒のコラムの話が来たらどうするのだろう。
想像で書くのか。それとも飲んでいる人の意見を書くのか。どちらにしてもリアルな文章とはほど遠い気がする。
だが目の前には、桂ではないし、祥吾ではない、出張ホストをしているという涼太がいる。もし酔って、彼に介抱されればきっと介抱だけではすまないだろう。彼も男なのだから。充がそうしたように、彼女が人妻だからと言って手を出さない理由にはならない。
彼女はその考えでメニューを見ながら心が揺れていた。その様子に涼太は少し笑って、彼女をみる。
「そんなに深く考えないで。そんなに酔っぱらうほど飲まなければいいのだから。」
「少しで酔ってしまうかもしれないから、迷っているんですよ。」
「そのときはちゃんと送り届けて上げるから。あぁ。それは別に料金に入れる気はないよ。俺が飲ませたんだし。」
紳士な男だ。桂にも祥吾にもないような感覚に、彼女はまたメニューに目を落とした。
「とりあえず食事を頼もうか。さっき言われたサワラも食べる?」
「あ、はい。」
メニューは涼太に任せて、春川はまた回りを見渡した。お酒を飲んでいる人がほとんどだが、家族で来ている人もいる。
父、母、子供が二人。外食にはしゃいでいる妹をたしなめるように姉が注意をしている。しっかりした姉だ。
自分の家族もこんな家族だった。もっとも仲が良くなかったし、貧乏だったから外食なんてできなかったが。
「秋野さんは、結婚してどれくらいになるって言ってたっけ?」
「七年です。」
「二十五って言ってたから十八の時に結婚したんだ。高校を卒業してすぐ?」
「えぇ。別に結婚までしなくても良かったんですけど、一緒に住んでいたので結婚した方が体裁がいいと言われたんです。」
「それって、好きで結婚したわけじゃないんじゃないの?」
「……まぁ。今、考えればそう思いますけど。でも私には身寄りがないので、どんな形でも家族ができるのはいいことです。住んでいれば家族になれるし、それなりに愛情が生まれるだろうと。」
「で、生まれた?」
その言葉に彼女は少し戸惑ったように手を止めた。しかし言えない。愛しているのは桂だけだというコトなんて。
そのときママが飲み物を持ってきた。涼太にはグラスワインを、春川にはノンアルコールのカクテルを前に置く。
「お待たせ。サラダももう少しで出来るからね。」
「ありがとうございます。」
うまく誤魔化せた。綺麗なオレンジ色のカクテルを見ながら、彼女は内心ほっとしていた。
「アルコール入っていないんですね。」
「そうだね。乾杯でもしようか?」
「はい。」
グラスをあわせる。そのとき、彼の目線が気になった。それは彼女を見ていないような気がしたから。彼女を誰かと重ね合わせている。そんな気がした。
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