夜の声

神崎

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一年目

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 コンビニから家があるアパートまではそんなに距離があるわけじゃない。そもそも、「窓」でバイトしたいと言ったときも、近所にある店だからと行って母がOKしてくれたのだ。
 それよりさらに近くのコンビニだから、柊さんが送ると言っても時間的には五分ほどだった。その間、手を繋ぐでもない。会話を楽しむわけでもない。私たちは何もなかった。
「ここでいいか。」
「……はい。」
 短い時間に、私は思わずうつむいてしまった。せっかく会えたのに。こんなに短い時間でさようならなんて、寂しすぎる。
「桜。俺の家、この裏だ。」
「え?」
 思わぬ柊さんの言葉に、私は思わず顔を上げた。確かにこのアパートの裏には、小さな古いアパートがある。そこが柊さんの家だというの?
「あまり時間はないが……桜。連れて帰ってもいいか?」
 その問いに、迷いはなかった。頷いて手を伸ばし、彼の黒い袖をつかむ。
 すると彼の大きな手が私の手をつかんだ。ごつごつした大きな手だった。皮が厚くて、まるでグローブのような手はとても温かい。
 アパートの裏手に回ると、アパートと金網フェンスの間に人が通れるくらいの隙間があった。そこを通れば、狭い路地にでる。街灯もない暗い路地の向こうに、古いアパートがある。二階建ての小さなアパートで、母に言わせると「ろくでもない人」が集まっているという。
 売れる見込みのないロッカー。歳をとった風俗嬢。どこの国の人かわからない片言の日本語を操る男。
 あまり夜にはその人たちはそこにいないらしく、アパートの外には電灯の明かりはあるが部屋から明かりは漏れていない。
 鉄製のさびた階段を上がり、一番奥の部屋に鍵を差し込んだ。そしてそこをあける。彼が入ると、私も続けて入った。思えば、男の人の部屋にはいるのは初めてかもしれない。他人の家の匂いとかって言うけれど、この家には油のような匂いがする。多分、彼が仕事で機械を扱っているからだろう。
 靴を脱ぐと、そこに上がり込んだ。まだ電気はついていなくて、周りがどういう感じの部屋なのかわからない。
 やがて電気がつくと、やっと部屋の雰囲気がわかった。引き戸のドアを一枚隔てて、ベッドやテーブル。そして棚には本が数冊。そして大量のCD。そしてコンポ。そしてレコードプレイヤーと数個トートバッグの中には大量のレコードがあるようだった。テレビなどはない。そして学校でよく見る作業服は壁に掛けられている。
 引き戸のこちら側には、キッチンやトイレ、風呂場があるようだった。
「すごい。CDの量ですね。」
「あぁ。音楽は聴くのが好きだ。」
 上着を脱いで、ハンガーに掛けると作業着と同じように壁に掛けた。そしてポケットから煙草を取り出して、テーブルに置く。
「珍しいか。CDとかレコードが。そうだな。今はダウンロードが主流か。」
「いいえ。あまりCDも持っていないんです。ダウンロードもしないし。」
「音楽に興味がないのか。」
「いいえ。そういうわけではないんです。……音楽ならラジオで事足りてるし。」
「ラジオ?今時珍しいな。」
「マイナーって言われるんですけど。」
「今時の女子高生の聴くものじゃないな。」
 思い切っていってしまおうかと思った。だけど失礼になるだろうか。柊さんに椿さんの声を重ねていたなんて、いったらどんな反応をするだろう。

”実行して後悔するよりも、実行しなくて後悔した方が後悔の度合いは大きいのです。問題なのは実行する勇気があるのかどうかなのです。”

 そうだ。その通りかもしれない。私は、ベッドに腰掛けている柊さんの隣に座った。そして彼を見上げる。
「柊さん。」
「どうした。改まって。」
「私……あなたの声が好きです。」
「声?」
「とてもよく似ていて。」
「誰の声に?」
「ラジオの向こうの人に。」
 その言葉に、彼の表情がわずかに変わった。やはりそんなことはイヤなのかもしれない。ラジオの向こうの人に自分を重ねていたなんて。
「……そんなに似ているか。」
「えぇ。よく私ヘッドフォンで聴いているんですけど、囁かれている感じがとても嬉しくて。」
 すると彼は手を伸ばしてきた。叩かれるかと思い、目を瞑る。すると耳元で囁かれた。
「桜。」
 名前を呼ばれて、私はふっと力が抜けたような気がした。彼に頭を倒して体にもたれる。
「ごめんなさい。その人に重ねるような真似を。」
「桜。そんなことは気にしていない。だいたい、お前に初めて会ったとき、お前の行動が挙動不審なことで何かあるとは気が付いていた。」
 その言葉で私は彼から体を起こした。
「意地悪です。」
「何が?」
「何で何も聞かないんですか。」
「聞けるほど俺たちはまだ何も知っていないだろう。桜。お前は俺のことを知りたいのか。」
「……柊さんのこと?」
「そう。軽蔑するかもしれないし、この場からお前は逃げ出すかもしれないくらい、イヤなことも体験してきた。」
「私と一回りほど年上ですから。十二年か、十三年か、いろんなことがあっても不思議じゃないですよ。」
 すると彼は口元だけで笑い、私の方に手を置いた。そしてぐっと肩を引き寄せる。
「まるで大人みたいなことを言う。桜。」
 彼はそういって私の体ごと引き寄せて抱きしめた。そして軽くキスをする。そのままベッドに押し倒されるのかと思った。だけど、その甘い空気ははある声でかき消される。

「あん!あああん!」
「だらしないま×こがまた締まったぞ。ほら。奥がいいのか?ついてやるよ!」
「あっ!そんなに激しくしたら、イく。イく。イっちゃう!」

 女の人のあえぎ声と男の人の声。そしてきしむベッドと壁を叩く音が隣の部屋から聞こえてきたからだ。
「またか。」
 彼はため息を付いて、立ち上がり上着を手にする。まるでさっきまでの空気が台無しだ。
「ちょっと俺、今から用事がある。お前も帰れ。」
「……はい。」
 不満だ。うん。あの。なんていうか。かなり不満だ。胸がもやもやする。この空気を台無しにした隣人に水をかけてやりたい。
「そんな顔をするな。桜。今度は制服じゃない格好で来い。」
「制服?」
 そういえば学校から直でバイトにきたから、まだ私制服だったんだ。
「そういうのも嫌いじゃないが、どうしても後ろめたさがある。」
「わかりました。」
 今度はあるんだ。嬉しくて顔がにやけてきそうだと思った。
 それを抑えて私も立ち上がり、部屋を出ようとしたときだった。彼は不意に私の二の腕をつかんだ。そして再び唇を合わせてきた。
「んっ……。」
 唇を割り舌を絡ませてきた。砕けそうになる足下を、必死にこらえ、私はそれに答えた。
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