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「クリームシチューがあるの。夕飯の残りだけど、よかったら食べていかない?」

 瑞穂の提案に、すぐに飛びついてくるかと思ったのに、リナは「いらない」と即座に答えた。

「どうして? お腹空いていないの?」

 瑞穂の問いに、リナはうなずいた。

「リナちゃん、前はいつもお腹が空いていたの。でもね、すごく不思議なんだけど、お父さんとお母さんがいなくなってから、全然お腹が空かなくなったの」

 リナは自分のお腹に両手を当てながら言った。

 ガチガリにやせ細ったリナの体は、見ているだけで痛々しかった。

「お腹が空いていなくても、ちょっとだけでも食べてみたら? すごくおいしいよ」

「食べない」

 リナがはっきりと断ってきた。

「だって、毒が入っているかもしれないもん」

 申し訳なさそうな顔をしてリナが言う。

「あっ、そうか、そうだよね。知らない人が作った料理を食べるなんて、怖いよね」

 瑞穂は自分の善意が、押しつけがましかったかと反省した。だが、なにか食べさせないとリナの体が心配だ。

「手料理が不安なら、コンビニのおにぎりはどう?」

 リナは黙って首を横に振る。

「じゃぁ、チョコレートは? 昨日お店で買ってきたばかりだから、毒が入っているとか心配しなくても大丈夫だよ」

 リナはまた首を横に振った。

「手料理とか関係ない。食べ物は全部、毒が入っているかもしれないもん」

 これは手強い。

「リナちゃんは随分、慎重派なのね」

 瑞穂はため息をつきながら言った。

「食べ物に毒が入っていないか、いつもお父さんとお母さんが先に食べて確かめてくれるの。だからリナちゃんは、お父さんとお母さんが残したものしか食べないの」

「もしかして、お母さんとお父さんが食べ終わるまで、リナちゃんはご飯を食べられないの?」
 
 瑞穂は驚いて聞いた。

「うん。でも、お父さんが全部食べちゃって、ご飯が残ってない時もある」

「そんなのひどい」

 瑞穂は思わず強い口調になってしまった。

「しかたないよ。毒見をするのってすごく難しいの。だから全部食べないと、毒が入っているかわからない時もあるんだって」

 リナはまるで豆知識を披露するかのように言う。

「リナちゃんが毒入りのご飯を食べて死なないように、お父さんとお母さんは、自分を犠牲にして守ってくれているんだよ。すごいでしょ」

 リナは嬉しそうな顔をしている。

 瑞穂は即座にそれは違うと言いたかったが、それをリナに理解させるには相当時間が必要だと感じた。

「リナちゃん、もう帰る」

「待って。リナちゃんを安全な場所に連れて行ってくれる人がいるの」

 児童相談所に電話して、今すぐ家に来てもらおうと瑞穂は考えた。リナが瑞穂の部屋にいるうちに。

 このままリナを隣の部屋に帰してはならない。

 瑞穂はスマホの画面を開いた。

「どこに電話するの?」

 リナが早口で聞いてくる。

「もしかして知らないおばさんが来るの?」

 リナは不安げな顔をして後ずさった。

「大丈夫。リナちゃんを守ってくれる人だよ」

 瑞穂はできるだけ優しい調子で言ったが、リナの表情はみるみるうちに曇っていく。

「ダメ、絶対に電話しないで」

 リナが声を荒げた。

「それ、悪い人だよ。だってリナちゃんを守ってくれるのは、お父さんとお母さんだけだもん」

「違う、違うの」

 瑞穂は必死でなだめようとしたが、リナはどんどん呼吸を荒くしていく。

「いや。前に知らないおばさんが来て、リナちゃん、どこか知らない場所に連れていかれたことがあるもん」

 ああ、そうか。今日、児童相談所の職員が訪問してこなかったのは、そういうことか。

 既に児童相談所は、リナが虐待されていることを把握していたのだ。

 瑞穂はこのアパートに引っ越してきたばかりだ。瑞穂がこのことを初めて知っただけで、児童相談所はもうずっと前から対応してきていたのだ。

「リナちゃん、どこかに連れていかれたら嫌。お母さんが帰ってきた時、会えなくなっちゃうもん」

「ごめんね、電話はやめるね」

「絶対にしない?」

「うん」

「絶対に絶対に絶対に約束だよ。約束破ったらリナちゃん、許さないからね」

「うん、絶対に絶対に絶対しない」

 瑞穂はスマホをズボンのポケットにしまった。

「帰る」

 リナはくるりと向きを変えると、玄関扉を開けて出て行ってしまった。

「待って」

 瑞穂は慌てて追いかけた。扉を開けて、スリッパのまま外に出る。

「あれ? リナちゃん?」

 リナの姿はもうそこにはなかった。

 瑞穂は隣の102号室の玄関扉を見つめた。

「ちゃんと、部屋に戻ったよね?」

 まるでリナは一瞬で消えてしまったようだった。102号室に戻るところを見届けられなかった。

「リナちゃん、ごめんね」

 隣の部屋の扉に向かって、瑞穂は呟いた。なにもできない自分がもどかしかった。
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