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4愛憎
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友里が帰った後、リビングは静まり返っていた。
聞こえてくるのは時計の針が時を刻む音。冷蔵庫が時折立てる低い音。葵の寝息。小鳥のさえずり。外を走る車がアスファルトをこする音。時々家のどこかが軋む音。
葵の隣で、亜紀は床に横になっていた。
フローリングの床の固さと冷たさを直に感じる。
刻々と時間だけが過ぎていく。
亜紀は葵の寝息にそっと耳を澄ませた。葵の胸に手を当て、心音を確かめる。
ウウンと、葵が唸った。目を覚ましそうになる。
亜紀は、トントントントンと一定のリズムで葵の胸を叩いた。葵は再び規則正しい寝息をたて始めた。
葵の胸を優しく叩く。トントントントン。トントントントン。
「このリズム……」
亜紀は気づいた。
そらは葵に焼きもちを焼いていたのではない。そらは葵を叩こうとしたのではない。
もしかしたらそらは、葵を寝かしつけようとしていたのではないか。葵が生まれてからも、そして生まれる前も。そらが亜紀の大きなお腹を叩いていたのは、このリズムではなかったか。
そらは眠らない。だが、亜紀は一度、そらを寝かしつけようとしたことがあった。そらの胸を指の先で優しく叩き、寝かしつけようとした。
そらは、亜紀を真似たのではないか。
亜紀は跳ね起きた。葵を抱き上げる。葵が驚いたように瞬きを繰り返し、泣き声を上げる。
「葵ちゃん、ごめんね。ママ、行かなくちゃ」
亜紀は葵を抱いて玄関を飛び出した。
外は薄暗くなっている。亜紀は車に乗りこみ、葵をチャイルドシートに寝かせた。
エンジンがうまくかからない。気ばかり焦る。何度かやり直す。エンジンはかからない。
ハンドルロックがかかってしまっていることに気づく。亜紀はハンドルを動かした。ロックが解除される。やっとエンジンがかかった。
後ろの席で、葵が泣き続けている。
「ごめんね、葵ちゃん」
亜紀は謝りながらアクセルを踏んだ。
◇
亜紀は駅前のタワーマンションに行き、エントランスで部屋番号を押した。すぐにオートロックが解除され、自動ドアが開けられる。
葵を抱いてエレベーターに乗ると8階の部屋に行き、チャイムを鳴らす。葵は泣き疲れたのか、亜紀の腕の中でまた寝てしまった。
玄関ドアが開き、友里が顔を出した。疲れた顔をしている。
「そらを返して欲しいの」
亜紀が言うと、
「ちょうどよかった、私も返そうと思ってたところ」
と早口で言った。
「えっ」
あっさり返してもらえるとは思ってなかったから、亜紀は拍子抜けした。
「せっかく洋服作ったのに、そらちゃん着てくれないんだよ。ミルクも全然飲まないし」
友里が深いため息をついた。
「あ、言ってなかった。そらちゃんはミルクも飲まないし排泄もしないの。お洋服も嫌みたい」
「そうなの?」
友里が目を丸くした。
「でも、そらちゃんを返そうと思ったのは、そんなことが理由じゃないの」
「旦那さんのこと?」
「旦那なら適当にごまかせる」
「じゃあ、なに?」
「そらちゃん、ずっと泣きっぱなしなんだよ」
亜紀は自分の耳を疑った。
「どういうこと? そらちゃんは泣いたりしないよ。私、そらちゃんの声、一度だって聞いたことないもん」
「だけど、泣きやまないんだよ、全然」
友里は眉間に皺を寄せている。
「ま、いいや。連れてくる。待ってて」
亜紀を玄関に残し、友里が奥の部屋に消えた。
友里はすぐにそらを抱いて戻ってきた。
「見て、この顔」
友里が亜紀の方へそらを差し出す。
もしも赤ん坊が激しく泣いているところをビデオに撮って、音声を消して再生したら、こんな動画になるだろう。
そらは確かに泣いていた。
涙も声も出ないが、顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
「早く、抱いてあげなよ」
呆然としている亜紀に、友里が言った。
「ほら」
亜紀は左腕に葵を抱いたまま、右手を差し出した。
友里が、亜紀の右手にそらを乗せる。亜紀はそのまま右手を胸の前に引き寄せた。そらを包みこむように抱きしめる。
「ほら、泣きやんだじゃない」
友里が、ほっとした声で言った。
「亜紀のこと、見てるよ。そらちゃん」
「うん」
亜紀はそれだけ言うのがやっとだった。
まだ、覚悟はできていない。葵とそらの二人を一緒に育てて行くだけの覚悟ができていない。
だが、そらを放っておくことなど亜紀にはできなかった。
そらは生きているのか、それとも死んだのか。どうしてそんなことすら、確信が持てないのか。なにもわからなかった。なにも。
聞こえてくるのは時計の針が時を刻む音。冷蔵庫が時折立てる低い音。葵の寝息。小鳥のさえずり。外を走る車がアスファルトをこする音。時々家のどこかが軋む音。
葵の隣で、亜紀は床に横になっていた。
フローリングの床の固さと冷たさを直に感じる。
刻々と時間だけが過ぎていく。
亜紀は葵の寝息にそっと耳を澄ませた。葵の胸に手を当て、心音を確かめる。
ウウンと、葵が唸った。目を覚ましそうになる。
亜紀は、トントントントンと一定のリズムで葵の胸を叩いた。葵は再び規則正しい寝息をたて始めた。
葵の胸を優しく叩く。トントントントン。トントントントン。
「このリズム……」
亜紀は気づいた。
そらは葵に焼きもちを焼いていたのではない。そらは葵を叩こうとしたのではない。
もしかしたらそらは、葵を寝かしつけようとしていたのではないか。葵が生まれてからも、そして生まれる前も。そらが亜紀の大きなお腹を叩いていたのは、このリズムではなかったか。
そらは眠らない。だが、亜紀は一度、そらを寝かしつけようとしたことがあった。そらの胸を指の先で優しく叩き、寝かしつけようとした。
そらは、亜紀を真似たのではないか。
亜紀は跳ね起きた。葵を抱き上げる。葵が驚いたように瞬きを繰り返し、泣き声を上げる。
「葵ちゃん、ごめんね。ママ、行かなくちゃ」
亜紀は葵を抱いて玄関を飛び出した。
外は薄暗くなっている。亜紀は車に乗りこみ、葵をチャイルドシートに寝かせた。
エンジンがうまくかからない。気ばかり焦る。何度かやり直す。エンジンはかからない。
ハンドルロックがかかってしまっていることに気づく。亜紀はハンドルを動かした。ロックが解除される。やっとエンジンがかかった。
後ろの席で、葵が泣き続けている。
「ごめんね、葵ちゃん」
亜紀は謝りながらアクセルを踏んだ。
◇
亜紀は駅前のタワーマンションに行き、エントランスで部屋番号を押した。すぐにオートロックが解除され、自動ドアが開けられる。
葵を抱いてエレベーターに乗ると8階の部屋に行き、チャイムを鳴らす。葵は泣き疲れたのか、亜紀の腕の中でまた寝てしまった。
玄関ドアが開き、友里が顔を出した。疲れた顔をしている。
「そらを返して欲しいの」
亜紀が言うと、
「ちょうどよかった、私も返そうと思ってたところ」
と早口で言った。
「えっ」
あっさり返してもらえるとは思ってなかったから、亜紀は拍子抜けした。
「せっかく洋服作ったのに、そらちゃん着てくれないんだよ。ミルクも全然飲まないし」
友里が深いため息をついた。
「あ、言ってなかった。そらちゃんはミルクも飲まないし排泄もしないの。お洋服も嫌みたい」
「そうなの?」
友里が目を丸くした。
「でも、そらちゃんを返そうと思ったのは、そんなことが理由じゃないの」
「旦那さんのこと?」
「旦那なら適当にごまかせる」
「じゃあ、なに?」
「そらちゃん、ずっと泣きっぱなしなんだよ」
亜紀は自分の耳を疑った。
「どういうこと? そらちゃんは泣いたりしないよ。私、そらちゃんの声、一度だって聞いたことないもん」
「だけど、泣きやまないんだよ、全然」
友里は眉間に皺を寄せている。
「ま、いいや。連れてくる。待ってて」
亜紀を玄関に残し、友里が奥の部屋に消えた。
友里はすぐにそらを抱いて戻ってきた。
「見て、この顔」
友里が亜紀の方へそらを差し出す。
もしも赤ん坊が激しく泣いているところをビデオに撮って、音声を消して再生したら、こんな動画になるだろう。
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「早く、抱いてあげなよ」
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「ほら」
亜紀は左腕に葵を抱いたまま、右手を差し出した。
友里が、亜紀の右手にそらを乗せる。亜紀はそのまま右手を胸の前に引き寄せた。そらを包みこむように抱きしめる。
「ほら、泣きやんだじゃない」
友里が、ほっとした声で言った。
「亜紀のこと、見てるよ。そらちゃん」
「うん」
亜紀はそれだけ言うのがやっとだった。
まだ、覚悟はできていない。葵とそらの二人を一緒に育てて行くだけの覚悟ができていない。
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