世界で一番、可愛いおばけ

ことは

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5地獄から天国

5-4

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 亜紀は涙と鼻水で汚れた葵の顔をティッシュで拭いてやった。

「葵ちゃん、おやつ食べようか」

「うん」

 葵に笑顔が戻る。

 だが、亜紀がおやつの用意をしようと立ち上がると、
「だっこ、だっこ」
と亜紀から離れようとしなかった。

「しょうがないなぁ」

 亜紀が抱き上げると、葵は亜紀の首に手を回した。

「ママ、すき」

 葵がギュッと力を入れてくる。亜紀は幸せな気持ちになる。葵は本当に可愛かった。

 ダイニングテーブルの椅子に座り、葵を膝に乗せる。葵は亜紀の膝の上で、安心しきっている。小さな手でお皿のクッキーをつまみ、口に運ぶ。

 これからもこんなことが続けば、葵はどうかしてしまうかもしれない。亜紀は葵の精神状態が心配だった。

 幼い葵に、そらのことを理解させるのは難しい。だからと言って、このままそらを納戸に閉じこめ隠し続けるには限界がある。

 葵を守るには、どうしたらいいのだろう。

   ◇

 ガチャリと音がして、亜紀は目が覚めた。

 一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。だんだんと頭の中がはっきりしてきて、先程の音は玄関の鍵が開く音だと気づく。

 廊下を歩く音が聞こえた。孝之が帰ってきたのだと知ってホッとする。

 亜紀はいつの間にか、葵とソファで寝てしまっていたようだ。部屋は真っ暗だった。

「なんだ、寝てたのか」

 孝之が部屋の電気をつけた。もう午後7時だった。

「ごめん、夕飯の支度してない」

 亜紀はソファから体を起こした。

 葵はまだ寝ている。

「そんなの適当でいいよ。食欲ないし」

 孝之が、ダイニングテーブルの椅子に座る。

 亜紀が立ち上がろうとすると、孝之が椅子に座ったままソファの方へ体を向けた。

「ねぇ、亜紀。落ち着いて聞いてくれる?」

 孝之の神妙な顔つきに、亜紀はソファに座り直した。

「俺今、精神科に行ってきた。本人がいないと先生の診察は受けられないと言われたけど、相談窓口があって相談員さんと話してきた」

 孝之が静かに話す。

「ちょっと、待って。私、精神病なんかじゃないよ。そらちゃんが私の妄想なら、葵ちゃんに見えるわけないでしょ?」

 亜紀は必死に訴えた。

 亜紀はもう、葵を一人で守り切ることなんてできない。孝之の協力が必要だった。

 だが、孝之がそらのことを理解してくれなければ、きっと間違った方向に進むことになる。亜紀は焦りを感じた。

「感応精神病っていうのがあるらしいんだ」

「なにそれ」

「一人の妄想が、親しい関係にあるもう一人にうつることがある。夫婦とか親子なんかの家族の間で起こりやすいらしい」

「なによそれっ!」

 淡々と話す孝之に、亜紀は苛ついた。

「私の妄想が、葵ちゃんにうつったって言いたわけ?」

「俺は、そういう可能性もあるっていう話をしただけだ」

 孝之は、ソファで寝ている葵をチラッと見た。

「信じられない……」

 亜紀は孝之を非難がましい目で見た。両手をギュッと握りしめる。

「葵だけじゃないのよ。病院で会った女の子にも、友里にも、それから多分拓也くん……早苗の子どもなんだけど。その人たちにもそらのことが見えたの。私の妄想であるわけないじゃない」

 責め立てる口調の亜紀にも、孝之は冷静に答えてくる。

「三人とか四人とか、時には集団で、一つの妄想を見ることもあるらしいんだ」

 亜紀はため息をついた。

 孝之はすでに、そらを亜紀の妄想だと決めつけてしまっている。

「で、孝之は私に精神科を受診しろと?」

 亜紀は足と腕を組み、孝之を睨みつける。

「俺は葵のことが心配なんだ」

 孝之が眉間に皺を寄せる。

「私だって葵が心配よ。心配に決まってるじゃないっ!」

「だったら……」

 孝之が言いかけたのを遮るように亜紀は立ち上がった。

 葵がソファでぐっすり寝ているのを確認する。ドタドタと足を踏み鳴らしながら、亜紀はリビングを出て行った。

 廊下の電気をつけ、納戸を開ける。中は真っ暗だった。廊下の明かりが、ドアの隙間から内部を照らす。

 暗闇の中でそらは床で四つん這いになり、こっちを見ている。亜紀はそらを抱き上げた。

 リビングに戻って、孝之に迫る。

「ほら、ここにいるの。そらちゃんはいるのよ」

 亜紀は孝之の鼻先にそらを押しつけた。

 孝之は亜紀の気迫に押され、後ろにのけぞった。孝之の視線は、そらを通り抜け亜紀の顔を見ている。

「わかった、わかったよ」

 孝之が、亜紀の手を制した。

 亜紀はホッとしてそらを胸に抱いた。

「仮に亜紀が見ているのが、そらの幽霊だとする」

「仮に?」

「すべては可能性の話だ。確証はなにもないからな」

「なにが言いたいの?」

「やっぱりちゃんとお寺でお経をあげてもらって、水子供養をした方がいいと思うんだ。そらは成仏できてないんじゃないかって、俺も時々気になってたから、水子供養をしてくれるお寺を調べてある」

 精神病なら精神科を。幽霊なら供養を。孝之はそう言っているのだ。

 原因不明の体調不良に人は不安になり、病名がついた途端に安堵する。原因不明の現象や正体不明の存在に人が怯えるのは、その事象に名前がないからだ。

 この世にはびこるもの全てに私たちは名前をつける。そうして安心したいのだ。

 亜紀はそらを見つめた。

「仮に幽霊だとして、そらは成仏したいのかな」

 亜紀は呟いた。

 そらに問いかけてみたところで、答えは返ってこないだろう。

「お経を唱えて供養して安心したいのは、生きている私たちの方なんじゃない?」

 亜紀は孝之に目を向けた。

「それじゃぁ、ダメなの?」

 孝之が問う。

 亜紀は、人工死産を選択した時のことを思い出す。そらは、それでよかったのか。本当はお腹の中でちゃんと育ち、生まれてきたかったのだろうか。答えはわからない。

「そらを人工死産した時と同じだよ。結局私たちの都合じゃない。そらの気持ちなんてわからないのに。私たちの都合でそらをこの世界から消すの?」

「それじゃぁ、ダメなのか?」

 孝之が問う。

 亜紀はため息を漏らした。結局あの時と同じだ。亜紀の心は決まっていた。孝之の提案に従ってそらを供養する。亜紀はそうするに決まっている。

 亜紀はただ、自分の選択から目を逸らしたいだけなのだ。後ろめたさから逃れたいだけなのだ。

「俺たちのために、葵のために、それじゃぁダメなのか?」

 孝之が真剣な目で亜紀を見つめる。

「俺は亜紀に、安心して欲しいんだ」

「私に……」

 もしかしたら、孝之が供養をしようと言い出したのは、やはり亜紀の精神疾患を疑っているからなのかもしれない。

 そらを供養し成仏させれば、亜紀が安心できる。その結果、亜紀の幻覚症状が消える。孝之はそう考えているのではないか。

 それでもいいかと亜紀は思った。

 亜紀はソファに座り、寝ている葵の髪をなでた。

「可愛いね。葵は本当に可愛いね」

「あぁ」
と孝之がうなずく。

 亜紀は葵を守らなければならない。

「供養の日、いつが空いているかお寺に電話して聞いてみる」

 孝之がズボンのポケットからスマホを取り出した。

 その時、葵がパチッと目を開けた。

 目の前で髪を撫でる亜紀の顔を見て、にっこり笑う。

 葵の視線が、亜紀の顔から下に降りていく。

 そのとたん、葵の口が大きく開いた。声にならない叫びを上げる。

 少し遅れて、葵の喉から悲鳴がほとばしった。

「ギャーーーーーーーーー」

 孝之がスマホを床に落とした。

 葵が亜紀の胸を突き飛ばす。亜紀は体勢を崩し、ソファから転げ落ちた。

 亜紀の膝から、そらがハイハイで逃げていく。

「待ちなさいっ」

 素早い動きで、そらは亜紀の手を逃れる。ソファに寝ている葵の体の上を這っていく。

 葵は、自分に突進してくるそらを凝視している。大きく口を開けたまま、絶叫し続ける。

 亜紀はそらをつかまえようと手を伸ばした。

「葵っ!」

 孝之が叫ぶ。

「そらっ!」

 亜紀が手を伸ばす。

 そらは葵の足先からお腹、胸に這い上がり、口に手をかけた。

 一瞬のことだった。

 葵の大きく開いた口の中に、そらはスルリと全身を滑り込ませた。

「葵ちゃんっ!」

 亜紀は葵の口を覗き込んだ。

 開いた口の奥に、赤く小さな口蓋垂が見えた。そらの姿はどこにもない。

 葵は体を痙攣させ、白目を向いている。葵の体を起こし、亜紀は葵の喉に指をつっこんだ。

「なにやってるんだ亜紀、やめろっ」

 孝之が亜紀を後ろから押さえる。

 亜紀はそれを無視して、葵の喉のさらに奥に指をつっこむ。

 ゲボッと葵が嘔吐した。亜紀の胸が、葵の吐瀉物で汚れる。酸っぱい匂いが鼻をつく。

 葵が亜紀の胸を強くついた。

「ギーーーーーーー」

 葵は甲高い叫び声を上げた。髪を振り乱し、手足を振り回した。

「やめて、そらちゃん」

 亜紀は葵の右腕を掴んだ。すぐに振り払われてしまう。

「そらじゃなくて、葵だろ」

 孝之が葵を押さえながら言った。

 孝之の力に抗うように、葵は暴れる。

「そのまま押さえてて」

 亜紀は、葵の頬を両側から押さえた。葵の口が少し開いた。

「そらちゃん、出てきなさい。ママのところに来なさい」

 亜紀は必死で訴えた。

 葵がビクンと痙攣した。

「ママのところに来るのーーーーーっ!」

 亜紀は喉の奥から声を振り絞った。

 深く息を吸うように、亜紀は大きく口を開けた。

 葵の喉から真っ赤な塊が飛び出してくるのが見えた。

 次の瞬間、亜紀は喉の奥に焼けつくような熱を感じた。喉が燃えるように熱い。息が吸えない。吐けない。苦しい。

 熱い塊がのど元を過ぎた頃、脳天に針を刺されたような痛みが走った。頭の中を稲妻が走る。亜紀は背中をのけ反らせた。

 激しい痛みに意識が遠のきそうになる。目の前が真っ暗になった。

「亜紀っ」

 孝之の声が遠くで聞こえて、背中を支えられたのがわかった。

「ママっ」

 葵の声が耳に入った瞬間、すーっと体が楽になるのを感じた。意識が朦朧とする。体が宙に浮くような不思議な感覚がした。
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