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1巻
1-3
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「――シメオン様、寒かったんですか? しっぽを抱き締めて寝てましたよ。可愛い」
起きた途端、アナベルから開口一番投げられた言葉に、シメオンは布団を被った。
そして、朝食後。
「二人共調子が悪そうですね、二日酔いですか?」
フォルクスが明らかに精彩を欠いたチャドとシメオンに声を掛けた。
「……ああ、まあ、な」
チャドは窓枠に腰掛け、窓におでこを押し付けている。シメオンは机に突っ伏していた。
「昨日は楽しんできたんじゃないのお? 酒場で美女に挟まれてるのを見掛けましたよ」
レッサードが王の伏せられた耳を摘まんだ。
「え、うーん、いや……」
その、ハッキリとしない返しを聞き、ドルマンとフォルクスが目を合わせる。
「どうもその気にならなかったんじゃないですか?」
フォルクスの言葉に、シメオンは顔を上げ、チャドが振り向く。
「……皆もここ数年、精力が落ちている自覚はないか? 女に言い寄られても断っているだろう。以前なら手当たり次第だったレッサードも、最近は大人しいもんだ」
フォルクスとドルマン以外の面々は戸惑いながらも頷いた。
「現に昨日の晩も、あんないい女を目の前にしてまったく反応しなかった」
チャドは腕を組み、嘆く。
「実は私も一年ほど前から精力の減退に悩んでいて、メルバ婆に薬を処方してもらっている。原因にまったく心当たりがないので、疑問に思って調べていたのだが……」
ドルマンが言葉を引き継いだ。
「昨日、私達の股間がこぞって大人しくなってしまった原因が分かった」
皆の視線が二人に集まる。
「――壁の着色材ぃ?」
四人の声に、ドルマンは頷く。
そもそものきっかけは、資材屋が壁材のボラカルとソラン草を間違えたことにあった。
執務室に塗られた特殊なオレンジの壁、その色を出すために用いた赤の染料。そう、赤の染料ボラカルと思い込んで土に混ぜ込んだ汁は、実はソラン草のものだったのだ。
「ソラン草は薬草で、その薬効は精力の抑制、減退だ」
皆は唖然とした表情でドルマンを見た。
「メルバ婆曰く、壁に塗り込むという前例はないが、気化した成分を毎日浴びるうちに慢性化したのかもしれないと。二年も経つので壁の薬効は抜けている可能性が高いが、念のために壁を剥いで塗り直したほうがいいと言っていた。『朝晩服用するんだ。個人差はあるが徐々に回復するはずだ。一日も欠かしちゃならないよ!』だそうだ。――と、いうわけで」
ドルマンはシメオンのデスクに二つの薬瓶を置いた。
「性欲増幅剤と解毒剤。これから朝晩、皆でこれを服用しましょう。〝天下の獣人王とその側近が不能なんて由々しき事態だ〟とメルバ婆がお怒りです」
フォルクスがシメオンに書類を差し出す。
「壁の塗り替え工事の許可書にサインを。ただいま東側の会議室を仮の執務室に改装中です。準備ができ次第、お移りください。お前達も荷物を運ぶのを手伝えよ」
側近達は揃って頷く。
「流石、フォルクスだな。俺はまったく気付かなかった。面目ないことだ。それにしてもよく原因が分かったな」
フォルクスとドルマンは目を合わせて頷き合うと、シメオンに告げた。
「実は、今回の件の一番の功労者はアナベル姫です」
* * *
「姫さん、次はすりこ木ですり潰しておくれ。だまがなくなるまでだよ」
「はーい」
その頃。
アナベルはメルバ婆に薬の作り方を教わっていた。
「しかし、変わってるね。なんでまた薬学を学びたいんだい? あんたにゃ必要ないだろう。王の側室なんだから」
メルバ婆が乾燥した葉を枝から毟り取りながらアナベルに訊ねる。
「シメオン様に番が見つかったら城を出ようと思っているのよ。だから、今の内に手に職をつけたいの」
「なんだって⁉」
驚いて声を上げたメルバ婆に、アナベルは苦笑いをした。
「母国は厄介なところでね、私がここにいることは、獣人国にとって利益がないばかりか危険でしかない。まあ、向こうにしたら粗大ごみを引き取ってもらったくらいにしか捉えてないかもだけど」
「しかし、シメオンは姫さんを一人で放り出すなんて無体なことができる男じゃないよ」
だから、尚更辛いのだ。彼の優しさに甘んじてしまえば、傍を離れられなくなる。
アナベルは黙った。
「……あれはいい男だからねぇ」
何かを察したようにメルバ婆は言い、アナベルにザルを差し出す。
「よし、こうなったら、あんたは筋がいいしアタシが弟子に取ってやるよ。いい男も紹介してやる。さあ、それをザルに広げな」
「ありがとう、メルバ婆」
アナベルはザルを受け取った。
獣人国で出会う人は皆、優しい。すっかり涙腺が緩くなった彼女は、涙を堪えて唇を噛む。
「でも、まあ、どうなるか先のことはまだ分からないよ。あんまり悲観しないことだね」
メルバ婆はシワシワの顔に笑みを浮かべた。
城に戻ったアナベルは、初めて登城した時のように側近達に囲まれた。
「姫さん、ありがとうな!」
「知らない内に大変なことになっていたんだなぁ」
「これで番を探せる!」
「先ほど皆で薬を服用しましたよ」
「お役に立ててよかったわ」
笑みを浮かべて頷く彼女の手を、フォルクスが取る。
「こちらへ。王が姫様にお礼を申し上げたいそうです」
* * *
シメオンは新しく設えられた仮の執務室でアナベルを待っていた。
「アナベル!」
彼女の姿を見ると、立ち上がり駆け寄ってその手を握る。
「フォルクスとドルマンからすべて聞いた。ありがとう! アナベルは俺達の恩人だ! それにしても素晴らしい分析力、推理力だ。よく原因を突き止められたな」
アナベルが照れ臭そうに笑った。
「偶然です。最初に異変に気付いたのはフォルクスですし、私はお手伝いをしただけですから」
「レッサードが張り切っておりますよ。盛大なお見合いパーティーを開催するとね」
「そうですか。早く皆に番が見つかるといいですね」
シメオンはその言葉を聞き、複雑な気持ちになる。
番が見つかれば、アナベルは出ていくと言っていた。
それを思うと積極的に番を探す気持ちになれない。
「……昨晩はアナベルにしっぽをブラッシングしてもらえなかったな」
「えっ」
シメオンの呟きを聞きつけたフォルクスが、顎が外れるかと思うほどあんぐりと口を開く。
「アンタ、姫様にそんなことさせてるんですか!」
驚愕の面持ちで問い詰めるフォルクスを見て、アナベルが焦って説明した。
「いや、どちらかというと私が無理やりお願いしてやらせてもらってるのよ!」
「とても気持ちが良いのだ」
誇らしげに胸を張るシメオンを、フォルクスがじっと見つめる。
「……それを聞いたら皆、羨ましがるでしょうね」
「じ、じゃ、皆のしっぽもやろうか?」
「駄目だ!」
すかさず叫んだシメオンに、フォルクスとアナベルが注目した。シメオンはどもりながら続ける。
「あれは結構重労働だし、アナベルが疲れてしまう。皆の分をやればオイルがなくなってしまうし」
口を開きかけたアナベルを、フォルクスがそっと制した。
「そういうことなら仕方ないですね。皆には内緒にしておきましょう」
部屋を退出するフォルクスを見送って、アナベルがシメオンを振り返る。
「ブラッシングをお気に召していただけているようで何よりです。シメオン様、今夜はお出掛けのご予定はないのですか? 一緒にお休みできますか?」
「ああ」
「じゃあ、いつもより丁寧にブラッシングします。しっぽと頭皮のマッサージもやってみます?」
シメオンは目を輝かせて頷いた。
長い上着の下でしっぽがパタパタ揺れる。
「美容サロンでも経営しようかなぁ」
アナベルは嬉しそうに笑っていた。
シメオンはその様子を眺めながら胸がチクチクと痛むのを感じる。
その言葉の後に続くのは、「この城を出たら」だ。
それはシメオンが彼女の傍にいない未来の話であった。
その晩。
シメオンはアナベルに耳と頭皮のマッサージを受けた。
「どうですか?」
「うん、気持ちがよい」
シメオンは頭上から聞こえる声に返事する。アナベルは彼の背後で膝立ちしていた。
「ああ、そのようですね。だいぶ分かってきましたよ、シメオン様のことが」
「そうか?」
「機嫌がいいと、しっぽがパタパタするんですよね」
シメオンは照れ臭くなって目を伏せる。
「さあ、これで終了です」
アナベルが背後から這い出てきた。それを名残惜しく感じる。
もっと触れてほしいと思うのは、なぜなのか。
「そういえば、その耳飾り、つけてくださっているのですね」
顔を向けると、アナベルが目を輝かせてシメオンの耳をみつめていた。
「ああ、とても気に入っている」
しかし、彼女は嬉しそうに微笑んだ後、ふと眉を寄せる。
「でも……いずれお迎えになる王妃様は、よく思われないかもしれませんね。他の女性から贈られたものを身につけているなんて」
シメオンは思わず息を止めた。
「お暇する時に返していただいたほうが……」
バッと頭上の耳を押さえ、叫ぶ。
「だっ、駄目だ!」
アナベルはキョトンとし、あはは、と笑った。
「可愛い、シメオン様。そんなに気に入っていただいたなら、そのままお召しください。けれど、私が差し上げたことは内緒で」
人差し指を鼻に当てて悪戯っぽくウィンクするその可愛らしい仕草に目を奪われながら、シメオンはウンウンと頷いた。
「アナベル、番といってもいつ見つかるか分からない。先のことなど心配せずともよい。それに、お前の面倒は一生引き受けるつもりだ。お前は俺の側室なのだから……」
アナベルは困ったように微笑んで目を伏せる。
「そういうわけには参りません。王妃様はきっと私の存在をよく思わないはずです。どんなにお心の広い方だとしても、憂いは免れないと思うのです」
「アナベルのことも耳飾りのことも、きちんと説明するつもりだ。それでもやはり気にするものなのだろうか」
彼女はシメオンに背中を向けてベッドを下りようとしていた。
「私もそういったことには疎いのですが、おそらく面白くはないと思います。シメオン様はいかがですか? たとえば、王妃様が以前の恋人から贈られたものを身につけていたら」
「……想像できないが……大切にしているものを無下に取り上げるのもなぁ」
果たしてこの耳飾りを捨てろ、などと言う女と番えるだろうか……とシメオンは思う。
アナベルは背中を向けたまま、フフと笑う。
「本当にシメオン様はお優しい。王妃になられる方が羨ましいです」
シメオンは彼女の後ろ姿を凝視した。
しっぽがパタパタしそうになって、慌てて抑える。
「アナベル……」
「私もしっぽと耳が欲しいなぁ」
俯く華奢な背中を抱き締めたくなり、手を伸ばす。
しかし指先が届く寸前、アナベルはベッドを下りた。そして、スタスタと自分のベッドに向かう。
シメオンは宙に浮いた手を下ろしてグッと握った。
「変なことを申しました。気にしないでください。……おやすみなさい、シメオン様」
アナベルが布団を被る。
シメオンは暫く、その盛り上がった布団から目が離せなかった。
言えない想い
以前、側近達が話していたように、獣人にとって番を見つけるのは容易なことではないらしい。
それを助ける目的で行われるのが〝お見合いパーティ〟である。
飲食店などの民間や地方の自治体が開催するものなど多岐に亘るが、その中で最も大規模なものが王城主催のパーティだ。
全国から参加者を募集し、広大な敷地内で数々のイベントが催される。番が見つかる確率が高く、豪華な食事もふるまわれるとあって、大勢の獣人が王都にやってくる。それにより、周辺にある商店の収益も上がるというわけで、獣人国にとっては重要な催しの一つだ。
そのお見合いパーティーの開催まであと僅かとなり、城内はにわかに慌ただしくなった。
当日は顔を出すのを控えようと思っているアナベルだが、一人やることもなくぶらぶらしているのは耐え難い。毎日忙しく走り回る皆を黙って見ていることにいたたまれなくなった彼女は、責任者であるレッサードに手伝いを申し出た。
そして今、彼の補佐役として、パーティの準備に奔走している。
「貸出衣装のほうはバッチリよ」
レッサードが手元の帳面から顔を上げた。
「ありがとうございます。姫様の発案のお陰で、今回のパーティーの出席率は過去最高となる予定ですよ!」
アナベルは彼の嬉しそうな表情に安堵する。
招待状は国内の未婚の男女に等しく送られるが、出席率が中々上がらないとレッサードはぼやいていたのだ。城下町から離れた田舎からの出席者数が芳しくないらしい。
どうも華々しい町に気後れして諦める若者が多いようであると。
そこで、アナベルが衣装の貸し出しを提案した。
毎回最新のデザインの衣装を格安で借りられるならば、わざわざあつらえる必要がない。流行遅れを気にする必要もなく、荷物が軽くて済む。
ヘアアレンジのサービスも加えて招待状に追記したところ、予想以上の反応が返ってきた。
「ねえ、姫様。なんとかずっとここにいてもらうことはできませんか?」
レッサードが大きな瞳を潤ませて懇願する。アナベルは苦笑いで答えた。
「ありがとう、その気持ちは嬉しいけど」
「もし、パーティーで僕に番が見つからなかったら、その時は……」
「レッサード、料理長が探していたぞ」
降ってきた声に顔を向けると、チャドが腕を組んで睨んでいた。
「しまった! 打ち合わせ」
レッサードは慌てて調理場に駆けていく。
「アイツめ、性懲りもなく。姫さんもほどほどにしとけよ、すっかり甘えちまっていけねぇ」
「だって、私だけ手持ち無沙汰なんだもの。当日も裏方をやらせてもらえないかしら」
「姫さんもパーティーに出席すりゃあ、いーだろ」
「そういうわけにはいかないでしょ。シメオン様の番がいらっしゃるかもしれないのに。私はなるべく表に出ないほうがいいわ」
チャドが頬をポリポリ掻いた。
「その王に今一つやる気が感じられないんだけどな」
「まだ症状が改善してないのかしら……」
アナベルは心配で眉を寄せる。
「さあな。まあ、王のことは放っておけ。その内、腹を括るだろ。姫さんも細かいことは気にしねぇでパーティーを楽しめよ。俺が一肌脱いでやるからよ」
チャドは長い睫毛に覆われたタレ目でウィンクした。
書類と格闘しているというシメオンに差し入れをするために、アナベルは仮の執務室に向かっていた。
前方に廊下で立ち話をするドルマンとベアルの姿が目に入り、声を掛けようと口を開きかける。
しかし偶然、話の内容が聞こえてきて、咄嗟に柱の陰に隠れてしまった。
「他の奴らは殆ど回復してるのに、王だけあの調子なのだ」
「番探しに全然乗り気じゃない上に飲みに誘っても乗ってこないって、チャドがぼやいていたな」
「この調子じゃパーティーでも碌な成果を期待できない。故郷に帰る度に古参連中に突っつかれるのだ。王に番はまだ見つからぬのか、跡継ぎはどうするのだ、と。煩くてかなわん」
「パーティーの出席者の中から王好みの女を探してあてがうか。久しぶりに女を抱けば、気が変わるかもしれんな」
「そうだなぁ、いっそのこと媚薬でも盛るか」
アナベルは身を竦めた。
(媚薬ですって!)
やがて二人は話しながら廊下の向こうに消える。
アナベルは柱の陰から出たが、先ほどの話が頭から離れない。ふと窓の外を見た。
一年中温暖なこの国は、常に豊かな緑に包まれている。寒さ暑さがはっきり切り替わる母国とはまるで違う。
変化のない穏やかな毎日に流されるまま、皆の優しさに甘えて生活してきたが、獣人の国に来てからもう数ヶ月が経とうとしていた。
それに気が付き、アナベルは目を伏せる。
(この場所を離れたくない。皆の、シメオン様の傍にいたい)
美しく優秀で可愛らしい一面を持つシメオンに、彼女はどうしようもなく惹かれていた。
しかし、この溢れる想いは邪魔なだけだ。
だって、アナベルは人間だから。
番として子を産むこともできない。形ばかりの側室がどれだけ想っても、実ることはないのだ。
それでも、シメオンのためにできることはないかと、アナベルはいつも模索している。
積極的に番を探すシメオンの姿なんて、本当は見たくない。
番を見つけて、その存在に虜になる場面など見たくなかった。
きっと、胸が潰れそうになるに違いない。
想像するだけで呼吸が止まりそうになるのだから……
それでも、想いを遂げられないなら、せめて役に立ちたかった。
いずれは離れなくてはならないのだから、貰った優しさを少しでも返したい。
アナベルは切なく疼く胸を押さえながら、決意を新たにするのだった。
執務室をノックして、アナベルはドアから顔を出した。
シメオンはデスクに座り、山積みになった書類を捌いている。
「シメオン様」
そっと声を掛けると、彼は顔を上げた。
「休憩されませんか? パーティーの手伝いからお暇を言い渡されたので、お付き合いいただけると嬉しいのですが」
「ああ、そうだな。俺も少し根を詰めすぎた」
アナベルはお茶の用意する。
「フォルクスからお団子を貰ったので一緒に食べましょう」
大きな葉っぱにくるまれた包みを指差す。
シメオンは頷いてソファに腰掛けた。アナベルもお茶をテーブルに置いた後、隣に座る。
「お忙しいようですね」
「パーティーの準備に人が取られるからな、どうしても書類が溜まってしまう」
「お手伝いできることはありますか?」
シメオンは少し考えた後に答えた。
「では、書類の分類をお願いしようかな」
アナベルは喜ぶ。
「過労は精力減退の要因になると言いますからね、あまり根を詰めすぎないようにお気を付けください。皆が心配しておりました。パーティーまでは私もできるだけ協力します」
すると、なぜかシメオンは黙り込んでしまった。アナベルは彼の顔色を窺う。
「シメオン様、お団子はお好きではなかったですか?」
「アナベルは俺にそんなに番を見つけてほしいのか」
虚をつかれて、一瞬、言葉に詰まった。
「え、あの、でも、早く王妃様を迎えてほしいと皆が思って……」
シメオンがアナベルの腕を掴んだ。アナベルはハッとして彼を見る。
鼻の付け根にシワを寄せ、アナベルを睨むシメオン。長い前髪の向こうにある瞳には初めて見る光が宿っていた。
アナベルは動けない。
「何を心配しているのか知らないが、体調は申し分ない」
「で、出すぎたことを申しました」
どうにか声を絞り出す。
「証明してみるか? 以前してみせたように誘惑してみるがいい」
ワンピースの襟元に指を掛けられ、アナベルはビクリと震えた。
「そ、その節は無礼な真似をいたしました。お許しください」
「謝罪など聞きたくない。俺を誘ってみろと言っている」
有無を言わさぬ口調に、呼吸が浅くなる。命令に抗えず、ワンピースのボタンを外そうと手をやった。
しかし、指が震えて上手くいかない。指先が滑って布を掠めるばかりだ。
その内、視界がぼやけてきた。
ポトリと雫が膝に落ち、黒い染みを作る。
アナベルはまさか自分が泣いているなどとは思わなかった。
クソ王に蹴られた時だって、ヒステリックな家庭教師に平手打ちされた時だって、涙の一つも出やしなかったのに。
優しいシメオンを怒らせてしまったことが辛い、何より……
シメオンがアナベルの涙に気付き、息を呑んだ。そっとその瞼の下に指を伸ばして涙を掬う。
「アナベル……すまない、怖がらせてしまった」
いつもの優しい声を聞いて、アナベルの涙は止まるどころか決壊した。
シメオンはおろおろしている。しっぽはしなだれてソファの下に落ちていた。
なのに、止めようと思っても涙が止まらない。
「うー、すっ、すみません、でもっ、お願いですから、シメオン様っ、嫌わないでくださいぃ」
その途端、シメオンにぎゅっと抱き締められる。
「何を言う! 嫌うわけがない!」
「シメオン様には、嫌われたくないですぅ」
「大丈夫だから、アナベル」
あやすように背中を撫でてくれるシメオンに、アナベルは身体を預けた。
本当はシメオンの傍で暮らす日々を失いたくない。優しい眼差しを失いたくない。
いつかは自ら手放さなければならないとしても、拒否されたくはなかった。
「ずっと、この城で、俺の傍で暮らせばよいのだ」
それは叶わない。
だけど、シメオンが嘘偽りない気持ちでそう言ってくれていることは分かる。
それで充分だ。
起きた途端、アナベルから開口一番投げられた言葉に、シメオンは布団を被った。
そして、朝食後。
「二人共調子が悪そうですね、二日酔いですか?」
フォルクスが明らかに精彩を欠いたチャドとシメオンに声を掛けた。
「……ああ、まあ、な」
チャドは窓枠に腰掛け、窓におでこを押し付けている。シメオンは机に突っ伏していた。
「昨日は楽しんできたんじゃないのお? 酒場で美女に挟まれてるのを見掛けましたよ」
レッサードが王の伏せられた耳を摘まんだ。
「え、うーん、いや……」
その、ハッキリとしない返しを聞き、ドルマンとフォルクスが目を合わせる。
「どうもその気にならなかったんじゃないですか?」
フォルクスの言葉に、シメオンは顔を上げ、チャドが振り向く。
「……皆もここ数年、精力が落ちている自覚はないか? 女に言い寄られても断っているだろう。以前なら手当たり次第だったレッサードも、最近は大人しいもんだ」
フォルクスとドルマン以外の面々は戸惑いながらも頷いた。
「現に昨日の晩も、あんないい女を目の前にしてまったく反応しなかった」
チャドは腕を組み、嘆く。
「実は私も一年ほど前から精力の減退に悩んでいて、メルバ婆に薬を処方してもらっている。原因にまったく心当たりがないので、疑問に思って調べていたのだが……」
ドルマンが言葉を引き継いだ。
「昨日、私達の股間がこぞって大人しくなってしまった原因が分かった」
皆の視線が二人に集まる。
「――壁の着色材ぃ?」
四人の声に、ドルマンは頷く。
そもそものきっかけは、資材屋が壁材のボラカルとソラン草を間違えたことにあった。
執務室に塗られた特殊なオレンジの壁、その色を出すために用いた赤の染料。そう、赤の染料ボラカルと思い込んで土に混ぜ込んだ汁は、実はソラン草のものだったのだ。
「ソラン草は薬草で、その薬効は精力の抑制、減退だ」
皆は唖然とした表情でドルマンを見た。
「メルバ婆曰く、壁に塗り込むという前例はないが、気化した成分を毎日浴びるうちに慢性化したのかもしれないと。二年も経つので壁の薬効は抜けている可能性が高いが、念のために壁を剥いで塗り直したほうがいいと言っていた。『朝晩服用するんだ。個人差はあるが徐々に回復するはずだ。一日も欠かしちゃならないよ!』だそうだ。――と、いうわけで」
ドルマンはシメオンのデスクに二つの薬瓶を置いた。
「性欲増幅剤と解毒剤。これから朝晩、皆でこれを服用しましょう。〝天下の獣人王とその側近が不能なんて由々しき事態だ〟とメルバ婆がお怒りです」
フォルクスがシメオンに書類を差し出す。
「壁の塗り替え工事の許可書にサインを。ただいま東側の会議室を仮の執務室に改装中です。準備ができ次第、お移りください。お前達も荷物を運ぶのを手伝えよ」
側近達は揃って頷く。
「流石、フォルクスだな。俺はまったく気付かなかった。面目ないことだ。それにしてもよく原因が分かったな」
フォルクスとドルマンは目を合わせて頷き合うと、シメオンに告げた。
「実は、今回の件の一番の功労者はアナベル姫です」
* * *
「姫さん、次はすりこ木ですり潰しておくれ。だまがなくなるまでだよ」
「はーい」
その頃。
アナベルはメルバ婆に薬の作り方を教わっていた。
「しかし、変わってるね。なんでまた薬学を学びたいんだい? あんたにゃ必要ないだろう。王の側室なんだから」
メルバ婆が乾燥した葉を枝から毟り取りながらアナベルに訊ねる。
「シメオン様に番が見つかったら城を出ようと思っているのよ。だから、今の内に手に職をつけたいの」
「なんだって⁉」
驚いて声を上げたメルバ婆に、アナベルは苦笑いをした。
「母国は厄介なところでね、私がここにいることは、獣人国にとって利益がないばかりか危険でしかない。まあ、向こうにしたら粗大ごみを引き取ってもらったくらいにしか捉えてないかもだけど」
「しかし、シメオンは姫さんを一人で放り出すなんて無体なことができる男じゃないよ」
だから、尚更辛いのだ。彼の優しさに甘んじてしまえば、傍を離れられなくなる。
アナベルは黙った。
「……あれはいい男だからねぇ」
何かを察したようにメルバ婆は言い、アナベルにザルを差し出す。
「よし、こうなったら、あんたは筋がいいしアタシが弟子に取ってやるよ。いい男も紹介してやる。さあ、それをザルに広げな」
「ありがとう、メルバ婆」
アナベルはザルを受け取った。
獣人国で出会う人は皆、優しい。すっかり涙腺が緩くなった彼女は、涙を堪えて唇を噛む。
「でも、まあ、どうなるか先のことはまだ分からないよ。あんまり悲観しないことだね」
メルバ婆はシワシワの顔に笑みを浮かべた。
城に戻ったアナベルは、初めて登城した時のように側近達に囲まれた。
「姫さん、ありがとうな!」
「知らない内に大変なことになっていたんだなぁ」
「これで番を探せる!」
「先ほど皆で薬を服用しましたよ」
「お役に立ててよかったわ」
笑みを浮かべて頷く彼女の手を、フォルクスが取る。
「こちらへ。王が姫様にお礼を申し上げたいそうです」
* * *
シメオンは新しく設えられた仮の執務室でアナベルを待っていた。
「アナベル!」
彼女の姿を見ると、立ち上がり駆け寄ってその手を握る。
「フォルクスとドルマンからすべて聞いた。ありがとう! アナベルは俺達の恩人だ! それにしても素晴らしい分析力、推理力だ。よく原因を突き止められたな」
アナベルが照れ臭そうに笑った。
「偶然です。最初に異変に気付いたのはフォルクスですし、私はお手伝いをしただけですから」
「レッサードが張り切っておりますよ。盛大なお見合いパーティーを開催するとね」
「そうですか。早く皆に番が見つかるといいですね」
シメオンはその言葉を聞き、複雑な気持ちになる。
番が見つかれば、アナベルは出ていくと言っていた。
それを思うと積極的に番を探す気持ちになれない。
「……昨晩はアナベルにしっぽをブラッシングしてもらえなかったな」
「えっ」
シメオンの呟きを聞きつけたフォルクスが、顎が外れるかと思うほどあんぐりと口を開く。
「アンタ、姫様にそんなことさせてるんですか!」
驚愕の面持ちで問い詰めるフォルクスを見て、アナベルが焦って説明した。
「いや、どちらかというと私が無理やりお願いしてやらせてもらってるのよ!」
「とても気持ちが良いのだ」
誇らしげに胸を張るシメオンを、フォルクスがじっと見つめる。
「……それを聞いたら皆、羨ましがるでしょうね」
「じ、じゃ、皆のしっぽもやろうか?」
「駄目だ!」
すかさず叫んだシメオンに、フォルクスとアナベルが注目した。シメオンはどもりながら続ける。
「あれは結構重労働だし、アナベルが疲れてしまう。皆の分をやればオイルがなくなってしまうし」
口を開きかけたアナベルを、フォルクスがそっと制した。
「そういうことなら仕方ないですね。皆には内緒にしておきましょう」
部屋を退出するフォルクスを見送って、アナベルがシメオンを振り返る。
「ブラッシングをお気に召していただけているようで何よりです。シメオン様、今夜はお出掛けのご予定はないのですか? 一緒にお休みできますか?」
「ああ」
「じゃあ、いつもより丁寧にブラッシングします。しっぽと頭皮のマッサージもやってみます?」
シメオンは目を輝かせて頷いた。
長い上着の下でしっぽがパタパタ揺れる。
「美容サロンでも経営しようかなぁ」
アナベルは嬉しそうに笑っていた。
シメオンはその様子を眺めながら胸がチクチクと痛むのを感じる。
その言葉の後に続くのは、「この城を出たら」だ。
それはシメオンが彼女の傍にいない未来の話であった。
その晩。
シメオンはアナベルに耳と頭皮のマッサージを受けた。
「どうですか?」
「うん、気持ちがよい」
シメオンは頭上から聞こえる声に返事する。アナベルは彼の背後で膝立ちしていた。
「ああ、そのようですね。だいぶ分かってきましたよ、シメオン様のことが」
「そうか?」
「機嫌がいいと、しっぽがパタパタするんですよね」
シメオンは照れ臭くなって目を伏せる。
「さあ、これで終了です」
アナベルが背後から這い出てきた。それを名残惜しく感じる。
もっと触れてほしいと思うのは、なぜなのか。
「そういえば、その耳飾り、つけてくださっているのですね」
顔を向けると、アナベルが目を輝かせてシメオンの耳をみつめていた。
「ああ、とても気に入っている」
しかし、彼女は嬉しそうに微笑んだ後、ふと眉を寄せる。
「でも……いずれお迎えになる王妃様は、よく思われないかもしれませんね。他の女性から贈られたものを身につけているなんて」
シメオンは思わず息を止めた。
「お暇する時に返していただいたほうが……」
バッと頭上の耳を押さえ、叫ぶ。
「だっ、駄目だ!」
アナベルはキョトンとし、あはは、と笑った。
「可愛い、シメオン様。そんなに気に入っていただいたなら、そのままお召しください。けれど、私が差し上げたことは内緒で」
人差し指を鼻に当てて悪戯っぽくウィンクするその可愛らしい仕草に目を奪われながら、シメオンはウンウンと頷いた。
「アナベル、番といってもいつ見つかるか分からない。先のことなど心配せずともよい。それに、お前の面倒は一生引き受けるつもりだ。お前は俺の側室なのだから……」
アナベルは困ったように微笑んで目を伏せる。
「そういうわけには参りません。王妃様はきっと私の存在をよく思わないはずです。どんなにお心の広い方だとしても、憂いは免れないと思うのです」
「アナベルのことも耳飾りのことも、きちんと説明するつもりだ。それでもやはり気にするものなのだろうか」
彼女はシメオンに背中を向けてベッドを下りようとしていた。
「私もそういったことには疎いのですが、おそらく面白くはないと思います。シメオン様はいかがですか? たとえば、王妃様が以前の恋人から贈られたものを身につけていたら」
「……想像できないが……大切にしているものを無下に取り上げるのもなぁ」
果たしてこの耳飾りを捨てろ、などと言う女と番えるだろうか……とシメオンは思う。
アナベルは背中を向けたまま、フフと笑う。
「本当にシメオン様はお優しい。王妃になられる方が羨ましいです」
シメオンは彼女の後ろ姿を凝視した。
しっぽがパタパタしそうになって、慌てて抑える。
「アナベル……」
「私もしっぽと耳が欲しいなぁ」
俯く華奢な背中を抱き締めたくなり、手を伸ばす。
しかし指先が届く寸前、アナベルはベッドを下りた。そして、スタスタと自分のベッドに向かう。
シメオンは宙に浮いた手を下ろしてグッと握った。
「変なことを申しました。気にしないでください。……おやすみなさい、シメオン様」
アナベルが布団を被る。
シメオンは暫く、その盛り上がった布団から目が離せなかった。
言えない想い
以前、側近達が話していたように、獣人にとって番を見つけるのは容易なことではないらしい。
それを助ける目的で行われるのが〝お見合いパーティ〟である。
飲食店などの民間や地方の自治体が開催するものなど多岐に亘るが、その中で最も大規模なものが王城主催のパーティだ。
全国から参加者を募集し、広大な敷地内で数々のイベントが催される。番が見つかる確率が高く、豪華な食事もふるまわれるとあって、大勢の獣人が王都にやってくる。それにより、周辺にある商店の収益も上がるというわけで、獣人国にとっては重要な催しの一つだ。
そのお見合いパーティーの開催まであと僅かとなり、城内はにわかに慌ただしくなった。
当日は顔を出すのを控えようと思っているアナベルだが、一人やることもなくぶらぶらしているのは耐え難い。毎日忙しく走り回る皆を黙って見ていることにいたたまれなくなった彼女は、責任者であるレッサードに手伝いを申し出た。
そして今、彼の補佐役として、パーティの準備に奔走している。
「貸出衣装のほうはバッチリよ」
レッサードが手元の帳面から顔を上げた。
「ありがとうございます。姫様の発案のお陰で、今回のパーティーの出席率は過去最高となる予定ですよ!」
アナベルは彼の嬉しそうな表情に安堵する。
招待状は国内の未婚の男女に等しく送られるが、出席率が中々上がらないとレッサードはぼやいていたのだ。城下町から離れた田舎からの出席者数が芳しくないらしい。
どうも華々しい町に気後れして諦める若者が多いようであると。
そこで、アナベルが衣装の貸し出しを提案した。
毎回最新のデザインの衣装を格安で借りられるならば、わざわざあつらえる必要がない。流行遅れを気にする必要もなく、荷物が軽くて済む。
ヘアアレンジのサービスも加えて招待状に追記したところ、予想以上の反応が返ってきた。
「ねえ、姫様。なんとかずっとここにいてもらうことはできませんか?」
レッサードが大きな瞳を潤ませて懇願する。アナベルは苦笑いで答えた。
「ありがとう、その気持ちは嬉しいけど」
「もし、パーティーで僕に番が見つからなかったら、その時は……」
「レッサード、料理長が探していたぞ」
降ってきた声に顔を向けると、チャドが腕を組んで睨んでいた。
「しまった! 打ち合わせ」
レッサードは慌てて調理場に駆けていく。
「アイツめ、性懲りもなく。姫さんもほどほどにしとけよ、すっかり甘えちまっていけねぇ」
「だって、私だけ手持ち無沙汰なんだもの。当日も裏方をやらせてもらえないかしら」
「姫さんもパーティーに出席すりゃあ、いーだろ」
「そういうわけにはいかないでしょ。シメオン様の番がいらっしゃるかもしれないのに。私はなるべく表に出ないほうがいいわ」
チャドが頬をポリポリ掻いた。
「その王に今一つやる気が感じられないんだけどな」
「まだ症状が改善してないのかしら……」
アナベルは心配で眉を寄せる。
「さあな。まあ、王のことは放っておけ。その内、腹を括るだろ。姫さんも細かいことは気にしねぇでパーティーを楽しめよ。俺が一肌脱いでやるからよ」
チャドは長い睫毛に覆われたタレ目でウィンクした。
書類と格闘しているというシメオンに差し入れをするために、アナベルは仮の執務室に向かっていた。
前方に廊下で立ち話をするドルマンとベアルの姿が目に入り、声を掛けようと口を開きかける。
しかし偶然、話の内容が聞こえてきて、咄嗟に柱の陰に隠れてしまった。
「他の奴らは殆ど回復してるのに、王だけあの調子なのだ」
「番探しに全然乗り気じゃない上に飲みに誘っても乗ってこないって、チャドがぼやいていたな」
「この調子じゃパーティーでも碌な成果を期待できない。故郷に帰る度に古参連中に突っつかれるのだ。王に番はまだ見つからぬのか、跡継ぎはどうするのだ、と。煩くてかなわん」
「パーティーの出席者の中から王好みの女を探してあてがうか。久しぶりに女を抱けば、気が変わるかもしれんな」
「そうだなぁ、いっそのこと媚薬でも盛るか」
アナベルは身を竦めた。
(媚薬ですって!)
やがて二人は話しながら廊下の向こうに消える。
アナベルは柱の陰から出たが、先ほどの話が頭から離れない。ふと窓の外を見た。
一年中温暖なこの国は、常に豊かな緑に包まれている。寒さ暑さがはっきり切り替わる母国とはまるで違う。
変化のない穏やかな毎日に流されるまま、皆の優しさに甘えて生活してきたが、獣人の国に来てからもう数ヶ月が経とうとしていた。
それに気が付き、アナベルは目を伏せる。
(この場所を離れたくない。皆の、シメオン様の傍にいたい)
美しく優秀で可愛らしい一面を持つシメオンに、彼女はどうしようもなく惹かれていた。
しかし、この溢れる想いは邪魔なだけだ。
だって、アナベルは人間だから。
番として子を産むこともできない。形ばかりの側室がどれだけ想っても、実ることはないのだ。
それでも、シメオンのためにできることはないかと、アナベルはいつも模索している。
積極的に番を探すシメオンの姿なんて、本当は見たくない。
番を見つけて、その存在に虜になる場面など見たくなかった。
きっと、胸が潰れそうになるに違いない。
想像するだけで呼吸が止まりそうになるのだから……
それでも、想いを遂げられないなら、せめて役に立ちたかった。
いずれは離れなくてはならないのだから、貰った優しさを少しでも返したい。
アナベルは切なく疼く胸を押さえながら、決意を新たにするのだった。
執務室をノックして、アナベルはドアから顔を出した。
シメオンはデスクに座り、山積みになった書類を捌いている。
「シメオン様」
そっと声を掛けると、彼は顔を上げた。
「休憩されませんか? パーティーの手伝いからお暇を言い渡されたので、お付き合いいただけると嬉しいのですが」
「ああ、そうだな。俺も少し根を詰めすぎた」
アナベルはお茶の用意する。
「フォルクスからお団子を貰ったので一緒に食べましょう」
大きな葉っぱにくるまれた包みを指差す。
シメオンは頷いてソファに腰掛けた。アナベルもお茶をテーブルに置いた後、隣に座る。
「お忙しいようですね」
「パーティーの準備に人が取られるからな、どうしても書類が溜まってしまう」
「お手伝いできることはありますか?」
シメオンは少し考えた後に答えた。
「では、書類の分類をお願いしようかな」
アナベルは喜ぶ。
「過労は精力減退の要因になると言いますからね、あまり根を詰めすぎないようにお気を付けください。皆が心配しておりました。パーティーまでは私もできるだけ協力します」
すると、なぜかシメオンは黙り込んでしまった。アナベルは彼の顔色を窺う。
「シメオン様、お団子はお好きではなかったですか?」
「アナベルは俺にそんなに番を見つけてほしいのか」
虚をつかれて、一瞬、言葉に詰まった。
「え、あの、でも、早く王妃様を迎えてほしいと皆が思って……」
シメオンがアナベルの腕を掴んだ。アナベルはハッとして彼を見る。
鼻の付け根にシワを寄せ、アナベルを睨むシメオン。長い前髪の向こうにある瞳には初めて見る光が宿っていた。
アナベルは動けない。
「何を心配しているのか知らないが、体調は申し分ない」
「で、出すぎたことを申しました」
どうにか声を絞り出す。
「証明してみるか? 以前してみせたように誘惑してみるがいい」
ワンピースの襟元に指を掛けられ、アナベルはビクリと震えた。
「そ、その節は無礼な真似をいたしました。お許しください」
「謝罪など聞きたくない。俺を誘ってみろと言っている」
有無を言わさぬ口調に、呼吸が浅くなる。命令に抗えず、ワンピースのボタンを外そうと手をやった。
しかし、指が震えて上手くいかない。指先が滑って布を掠めるばかりだ。
その内、視界がぼやけてきた。
ポトリと雫が膝に落ち、黒い染みを作る。
アナベルはまさか自分が泣いているなどとは思わなかった。
クソ王に蹴られた時だって、ヒステリックな家庭教師に平手打ちされた時だって、涙の一つも出やしなかったのに。
優しいシメオンを怒らせてしまったことが辛い、何より……
シメオンがアナベルの涙に気付き、息を呑んだ。そっとその瞼の下に指を伸ばして涙を掬う。
「アナベル……すまない、怖がらせてしまった」
いつもの優しい声を聞いて、アナベルの涙は止まるどころか決壊した。
シメオンはおろおろしている。しっぽはしなだれてソファの下に落ちていた。
なのに、止めようと思っても涙が止まらない。
「うー、すっ、すみません、でもっ、お願いですから、シメオン様っ、嫌わないでくださいぃ」
その途端、シメオンにぎゅっと抱き締められる。
「何を言う! 嫌うわけがない!」
「シメオン様には、嫌われたくないですぅ」
「大丈夫だから、アナベル」
あやすように背中を撫でてくれるシメオンに、アナベルは身体を預けた。
本当はシメオンの傍で暮らす日々を失いたくない。優しい眼差しを失いたくない。
いつかは自ら手放さなければならないとしても、拒否されたくはなかった。
「ずっと、この城で、俺の傍で暮らせばよいのだ」
それは叶わない。
だけど、シメオンが嘘偽りない気持ちでそう言ってくれていることは分かる。
それで充分だ。
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