【完結】塔の上のオメガが見る夢は

結城れい

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96 番の証

 慎一は遥をそっと抱き上げ、寝室から1階のリビングへと運び、優しくソファに座らせた。

「準備するから、ちょっと待っててね」
「はい、ありがとうございます」

 同じ空間にいるとはいえ、慎一から離れるのは少し寂しかった。
 本当は、いつものように隣に立って手伝いたかったが――体の節々、特に股関節に違和感があり、うまく動けそうにない。
 そのため、遥は大人しくソファで待つことにした。

 慎一が朝食を用意する様子を見ながら、遥はチョコの頭を優しく撫でた。
 ふわふわとした柔らかな感触が、心地よい。

 慎一がコンロや冷蔵庫のあたりを行き来するたび、遥の視線もそれに合わせて動いた。すると、つられて首もわずかに動く。その時、うなじにじんわりとした痛みが走った。

 遥はそっと両手をうなじへ伸ばし、後ろ髪を左右に分けて触れてみる。
 痛みはあるが、どうなっているのかまでは分からない。

 少し考えた後、隣に置いていたスマホを手に取る。
 カメラアプリを起動し、スマホを後ろに持っていく。
 スマホを持った右腕がぷるぷると震え、急いでシャッターボタンを押した。

 撮れた写真を確認すると、ぶれた黒いものが映っているだけだった。
 たぶん髪の毛だろうが、どの部分なのかすら分からない。

 何度か角度を変えながら挑戦してみたが、一向に上手く撮れない。
 ついには、ソファまで写り込んでしまった。

「どうしたの?」

 気づけば夢中になっていて、慎一が傍に来ていたことにすら気づかなかった。
 声をかけられた瞬間、遥は驚いて勢いよく首を動かしてしまう。

「んっ」

 痛みに思わず小さく声が漏れた。

「あ、痛かった? ごめんね、急に声をかけちゃって」
「い、いえ。僕こそ気づかなくて……ごめんなさい」

 慎一は心配そうに遥のうなじを覗き込む。

「うーん……噛んだ跡はそのままでも大丈夫って聞いたけど、念のため消毒して、大きめの絆創膏を貼っておこうか。ちょっと待っててね」

 眉を寄せながらそう言った慎一は、テレビ台の引き出しから救急箱を取り出して戻ってきた。

「あの、絆創膏を貼る前に、写真を撮ってほしいです」
「ん? うなじの?」
「はいっ!」

 遥はスマホを差し出し、髪がかからないようにもう一度丁寧に後ろ髪を分け、そっとうつむいた。

「じゃあ、撮るよ」

 慎一の声とともに、シャッター音が鳴る。

「これでどうかな?」

 スマホを受け取り画面を覗き込むと、そこにははっきりとうなじの傷が写っていた。遥は「ありがとうございます」と礼を言いながら、それをじっと見つめる。

 慎一の歯があたったであろう場所には、赤い傷が2本、曲線を描くようにしっかりと残っている。
 中心から遠い部分の方が跡が深く、血が滲んでいる箇所もあった。

(これが、慎一さんの噛み跡。番の証なんだ。……こんな見えにくい場所じゃなくて、手の甲とか、もっといつでも見られる場所にあればいいのに……)

 しみじみと見入っていると、慎一から声がかかった。

「消毒の前に、髪を結ぶね」
「はい、お願いします」

 慎一の手が、遥の髪を撫でるように後ろへと集める。そして、いつものゴムでそっとまとめられた。
 慎一の優しい手が髪を梳いてくれる感覚が、とても好きだ。遥は頭を動かさないように、じっと動きを止めた。

「じゃあ、消毒するよ。ちょっと沁みるかもしれないけど、ごめんね」

 その言葉に、遥は小さく息を呑み、そっと体に力を入れた。

 消毒液を含ませたガーゼで、優しく拭かれる。
 ヒリヒリとした痛みはあったが、思っていたほどではない。

 やがて、上から大きな絆創膏が貼られる感触がした。

「うん、もういいよ」

 優しい声が耳に届き、遥はゆっくりと下げていた顔を上げる。右手をうなじへと持っていくと、つるりとした感触が指先に伝わった。

「ありがとうございます」

 お礼を言うと、慎一は目を細めて微笑み、そっと手を伸ばして遥の頭を撫でた。
 
「今日はこっちでご飯を食べようか?」

 そう言ってキッチンへ向かった慎一は、朝食の乗ったお盆を手に戻ってくる。それをソファ前のローテーブルに置くと、カーペットにクッションを敷き詰め、その上に遥を優しく移動させた。

「痛くない?」と尋ねられ、遥は頷く。
 とても大切なものを扱うような慎一の動きに、遥の心はいつも以上にきゅっと高鳴った。

 目の前に置かれた平皿には、こんがり焼けたトースト。蜂蜜とバターがたっぷりと塗られ、つやつやと金色に輝いている。
 遥は普段、トーストは半分だが、今日は真四角のままだ。

 隣のスープ皿には、野菜たっぷりの温かそうなミネストローネ。さらに、フルーツの入ったヨーグルトまである。

 自分の分の朝食を運んできた慎一は、それもローテーブルに並べ、遥の隣に腰を下ろした。
 いつもはダイニングテーブルで向かい合って食べるため、こうして隣同士で並んで食べるのは新鮮だ。

「今日は少し多めに盛り付けたけど、無理そうだったらだったら言ってね」
「はい! いただきます!」

 両手を合わせて食事の挨拶をした遥は、真っ先に光り輝いているトーストに手を伸ばす。大きく口を開けて端の方にかぶりついた。
 濃厚でとろりとした甘さが、舌の上に広がる。

「んーっ! とってもおいしいです!!」

 弾けるような笑顔を見せた遥に、慎一も微笑みながらトーストを口に運んだ。


 もぐもぐと夢中になって食べ進めていく。量が多いと思っていたはずが、気づけばきれいに完食していた。
 小皿に用意してもらっていた、いつもの食後の薬もしっかりと口に含み、水で流し込む。
 
「ごちそうさまでした!」

 テーブルに手をつき、ゆっくりと立ち上がろうとしたその時、慎一がそっとそれを止めた。

「食器は私が持って行くから。ヒート明けだし、遥くんはゆっくりしてて」

 そのまま、体が優しく引き戻される。

「あ、でも、僕、お風呂に行かないと……」
「お風呂?」

 首を傾げる慎一に、遥はこくりと頷いた。

「えっと……その……ぼく、洗わないとお腹が痛くなっちゃうんです」

 遥は、恥ずかしそうに言葉を紡ぐ。

「――――大丈夫だよ…………ヒート中だったから、痛くならないんだ」
「えっ、そうなんですか!?」

 初めて聞く話に、遥は驚いた。
 あの『はじめてのヒート』の冊子には、そんなことは書かれていなかった。

「…………それに、痛くならないようにする方法も、ちゃんとあるんだ」
「そうなんですか? どうしたらいいんですか?」
「それは……次のときに教えてあげるね」

 そう言って、慎一は遥を優しく抱きしめ、そっとキスを落とした。
「次」という言葉に、すでに赤く染まっていた遥の頬が、さらに濃く色づいていく。
 唇を優しくついばんだ後、慎一は静かに口を離した。

「大丈夫。これからは痛くならないように、私が気をつけておくから。何も不安に思わなくていいんだよ」

 その感情のこもった、力強い声に、遥はぱちりと瞬いた。
 けれどすぐに、しっかりと頷くと、慎一の胸元に頬を寄せた。

――そうだ。慎一さんは、こんなにも僕のことを大切にしてくれている。任せてたら、きっともう大丈夫なんだ。

 その温かな胸の中で、遥は絶対的な信頼を抱きながら、ゆっくりと芯から体の力を抜いた。
感想 16

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