あの頃の思い出は、いつまでも呪いのように。

gresil

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思い出の乖離

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「この前は……ごめん」

 碧生は消え入りそうな声で呟く。

「いや……俺のほうこそ配慮が足りなかった」
「……怒ってない?」
「俺は……碧生が怒ってないか不安だった」
「……それは、私のセリフ」
「俺が怒る理由なんてないだろ?」
「……でも私、勝手に帰っちゃったし」
「あれは俺が悪い。だから俺のせいだ」
「……こーちゃんは悪くないよ。悪いのは私だから」
「いや、碧生は悪くないだろ」
「なにそれ」
「なんだよ」

 互いに目を合わせ、思わず吹き出してしまう。

「ふふ、おあいこってことでいっか」
「まあ、そういうことにしとくか」

 俺としては少し納得がいかなかったが、落としどころとしてはそういうことでいいのだろう。碧生の様子も変わらないようだし、夏花の話題さえ出さなければ気にするようなことはなさそうだった。

「ねえ、こーちゃん。今日仕事終わってからヒマ?」
「特に用事はないけど」

 夏花も今日は遅くまで稽古があると言っていたし、昨日みたいに急に誘われることはないだろう。

「じゃあどっかで遊ぼうよ」
「いいけど、どこで?」
「うーん。考えておく」

 そう言って、碧生は名刺入れから一枚取り出し、裏に何かを書き始めた。

「はいこれ。名刺に書いてあるのは仕事用の番号だから」

 渡された名刺を裏返すと、別の番号が書き込まれていた。そういえば、碧生のプライベート番号を教えてもらっていなかった。

「今スマホ持ってるけど、直接友達登録すればいいんじゃないか?」
「そうなんだけど一応仕事中だし、この場所ではちょっと……」

 1階ホールの端に寄ったとはいえ、周りには外来患者や他のスタッフの目が多い。従業員と営業が直接スマホでやり取りするのは憚られるような状況だった。

「確かに。仕事が終わったら連絡するよ」
「うん。私は五時半くらいには解散していいって言われてるから、それ以降ならいつでも」

 俺は頷き、名刺をポケットの中に仕舞う。するとこちらに向かってくる長身の気配を感じた。

「お待たせしましたー。って少し早いくらいでしたかね?」

 戻ってきた丸城さんが碧生の隣に立つ。改めて並ぶと巨人と小人のような身長差だな。

「いえ、要件は済んだんですか?」
「資料渡すためにパッと立ち寄っただけなんで、もう次行かなきゃいけないんですよ」
「そうですか。お疲れ様です」
「あ、この前の新薬の件、来週にはお知らせを持ってこれそうなんで、また改めてお伺いしますね」
「よろしくお願いします」

 それでは、と丸城さんが歩き出し、その後ろを蒼が付いていく。ホールを出る直前、碧生は軽く振り返り腰のあたりで小さく手を振った。やっぱり小動物みたいだ。
 白衣の袖を捲り時間を確認する。コーヒーを飲んだらすぐ戻るつもりだったから、思ったよりも時間を取られてしまった。この調子だと、どこでサボってたんだと氷川さんに怒られる。

 丸城さんと会ったと説明すれば大丈夫そうだが、念のため急ぎ足で薬剤部へと向かった。

「んがっ?」

 しかしその足は前へと進まなかった。何かに引っ張られ、仰け反るような形で後ろを向く。

「お疲れ様です。鷹司さん」

 そこにはニコニコ顔の白石さんが立っていた。私服姿だから夜勤明けで帰るところだろう。

「……お疲れ様……白石さん」

 逃がさないという意思表示なのだろうか。首だけ振り返っても白衣の裾を離してくれなかった。困ったな。これ以上時間を取られるのはまずいんだが……。

「あのさ、とりあえず白衣を離して――――」
「鷹司さん、今夜ヒマですか?」

 白石さんは白衣の裾を掴んだまま、俺の言葉を遮るように言った。

「ああ、今日は――――」
「ヒマですよね? どうせヒマなんですよね? だったら一昨日の埋め合わせしてください」

 有無を言わせぬよう、畳み掛けるような早口で白石さんは言う。

 埋め合わせって言ってもそっちが一方的にけしかけた内容だろう、と言いたいところだがそれは黙っておく。今日は先ほど交わした碧生との予定を優先したい。この強引な様子からして、断ったら説明を求められそうだが、今はなんとかしてこの場を早々に切り上げたかった。

「今日は氷川さんに誘われてるんだよ。良かったら白石さんも一緒にくる?」

 なぜか白石さんは氷川さんのことが苦手なようだった。俺が氷川さんの誘いを断れないのも知っているはずだし、同席を求めたら引くしかないだろう。

「う……氷川さん、ですか……。じゃあ、今日は辞めておきますね……」

 効果はあったようで、白石さんは俺の白衣から手を離し一歩後ろに下がった。
白石さんを一撃で仕留められる氷川さんの存在感には感謝するところだが、こうも続けて断ることになってしまって申し訳ない気持ちになる。白石さん、結構しつこいから、一度行くまでは付き纏われるだろう。またいつ予定が被るかも分からないし、この埋め合わせは早めに処理しておきたいところだった。

「白石さん明日休みだよね? 俺も休みだから明日はどう?」

 ウチの看護師さんの勤務は夜勤明けの次の日は決まって休みである。俺もシフト勤務の不定休で明日はたまたま休みだった。

「鷹司さん。その言い方は一日デートを期待しちゃってもいいってことですかねえ?」
「埋め合わせは夕飯だけだろ? だから明日の夕飯を、って意味だけど?」
「ですよねー。知ってました」

 そう言って白石さんは苦笑いを浮かべる。互いの休日に誘うと一日デートの発想が当たり前なのだろうか。だとしても最近は出費が続いているので可能な限り抑えておきたかった。

「今日はコレで勘弁してよ」

 そう言って俺は白衣のポケットから、さきほど高倉さんから貰ったグレープフルーツジュースを差し出した。白石さんは俺の手にあるものをしばらく見つめる。

「……ヤですよ。それ、トミさんの匂いしますもん」
「匂いで分かるの!?」
「明日の件はまた後程連絡しますね。じゃあお疲れ様でしたー」

 白石さんは俺に背を向けて歩き出す。俺の中で、本当に匂いで分かるのか、という疑問を残しつつ白石さんは早々に院内のエントランスを出ていった。

「あ、やっべ」

 そんなことを考えている場合じゃない、と思い直した俺は早足で薬剤部へと向かった。その途中、手に持っていたいパックジュースの匂いを嗅いでみる。

「匂いなんて、するわけないよな」

 そんな当然のこと、わざわざ確認するまでもない。白石さんは恐らく、自動販売機前での高倉さんとのやり取りを見ていたのだろう。

 だとすると、碧生とのやり取りも見られていたことになる。まあ、営業と普通のやり取りに見えていただろうから特に突っ込まれることもなかったのだろう。夏花に振られたなんだの件では執拗に迫られたから、今回も同じようなことにならなくて本当に良かった。

 俺は慌てた様子で薬剤部へ入る。

「あら? 鷹司君、ずいぶんごゆっくりだったようね」


 氷川さんの鋭い眼光が俺を射抜いた。このあと、普通に怒られたのは言うまでもない。
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