不可思議な再会

ユリイカトモユキ

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不可思議な再会

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 少し離れたところから確認した。もう一度少しだけ近づいて顔を覗き込んでみた。まさかとは思ったが、彼だった。どうしたものかと思案して、思い切って昇りのエスカレーターに佇む後ろ姿に声を掛けた。振り向いた彼は、驚いたようにおどけてみせて、それから静かに笑った。懐かしいはにかみ顔だった。

 頭のなかは今日の研修のことや、次回のプロジェクトのことでいっぱいだった。どちらかといえば充実していた。ただ少しだけ、何かが足りないのだ。恐らく自分の求めているレベルと、自分のできる範囲とを比べたときに後者が圧倒的に限られていることに起因していると思った。もっとこんなふうにあんなふうにと想像しているレベルと、いま自分が思い描いているものを現実のものとして形にしていくことの難しさというか、その差異が大きすぎるのだ。決して悪い仕事ではない。それは自信が持てる。それでもいつも、何かが足りないのだ。どうしたものかと思案してみて、どうにもならないなと独り言ちたところで後ろから声をかけられた。耳を疑い、続いて振り返って目にしているものを疑う。しかし紛れもない彼女の笑顔がそこにあった。

 いまは帰り、というか、家路?と尋ねた。家路、という言葉を口にして恥ずかしくなってしまった。なんなの家路って。他に言い方がありそうなものなのに。でも彼は素直に受け取って茶化すこともなく同じ言葉を繰り返してくれた。もしかしたらまだお仕事なのかなと思ってと付け加える声と重なってしまった。また余計なことを言っている。そばを歩いていた頃と比べると、随分と社会人として立派になってしまった。相変わらず見栄えがするし、スーツ姿もよく似合っていた。身長の差は三十センチを超えて、正面から抱き合うと彼の鳩尾に自分のおでこが当たる。埋まると書きたいけれど当たる。なぜかそこだけ異様に硬くなってゴツゴツとしている腹筋におでこをこすり付けて泣いた。そんな記憶が蘇る。

 咄嗟のことで、尋ねられるままに鸚鵡返しで答えてみたが、正直、もう一度事務所に戻って頭を整理しようと考え始めた矢先だったはずなのに、意志薄弱な自分を恥じた。既にもうどうでもよくなっている。目の前に彼女がいるのだ。それだけで舞い上がって行く自分を戒めたいが、革靴の踵を踏みしめてみても重心がのけぞるばかりでうまくない。よろめきそうになった。めまいすら覚えている。その瞬間に自分の腕に伸びた彼女の指に捉えられて歪む袖口が後を引いて未練がましく伸びて行くのが目に入った。膝を曲げて倒れぬように頭を前に持って行った瞬間、懐かしいコロンの香りがすっと鼻先をかすめた。言いようのない不可思議な話だが、股間が条件反射的に隆起したのを感じる。

 結局、どこまで歩かされるのだろうと思った。ちょっとお茶でもどうかと尋ねられたときは嬉しかった。すぐそこに、と口にした彼が、そういえば方向音痴であることを思い出していた。そのうち、おかしいなぁと口にし始めるのだろう。一足先に社会人として就職したことで、彼のこうしたところが酷く幼く見えて、情けなく感じるようになって、冷たい態度を敢えてとることに決めたのだった。こちらがぶら下がるわけにもいかない。年齢は同じだとしても、後輩は後輩なのだ。社会人となってワイシヤツにネクタイを締めた途端に、妙に大人びて見えるが、中身は変わらない。それなのに見た目に惑わされて、流されて、まだシャツの襟を立てて粋がって見せていた彼が酷く幼く思えてきて、情けないものとして遠ざけ始めた頃の記憶まで蘇って来てしまった。

 やばい。完全に迷った。舞い上がっているのだろう。そういえばこんなことばかりだった。もとは先輩の彼女なのだ。たまたま、卒業までの少しの間、寂しさを埋め合わせるためにだけ付き合わされて、その気にさせられて。見事に利用されて終わった。何をいまさらという気がして来ていた。所詮は、遊びだったのだろうと割り切ったときには、彼女のせいで教職まで諦めてしまった自分が酷く情けなくて仕方なくて、逆恨みまでしたのだった。彼女の父親が大の教師嫌いだから、結婚するのであれば教師は諦めて欲しいと。わざわざ母親にも彼女の姉にも紹介された。そうして彼女の手術のときにも入院先に見舞ったのは僕だけだった。そこでも彼女の姉から、同じことを言い含められた。このまま結婚することになるのだろうか。確かに責任を取らなければならないようなことが、この先、起きるかもしれなかった。彼女から突き動かされるのは情動であり理性ではない。あの当時も、理性で抑制していたものを突き破って来る彼女の何かに惹かれ魅惑され誘われた。運転席でハンドルを握っている自分の太ももを叩いて来たのは彼女のほうだった。駐車場に停車した途端にいつものコロンの香りが鼻先をかすめ、少しだけブラウンに染まったやわらかな髪が、彼女の形のよい後頭部が、ハンドルを握る自分の小指の真下にあり、やがて、怪しくうごめいた。パーキングにギアを切ることができないまま、ブレーキだけを踏んでしばらく耐えていた。冷静になろうと、ようやくパーキングにギアを入れた直後には、視界が歪むほどの勢いで、激しく彼女の頭は上下を始めたのだった。そんな淫靡な光景が思い浮かんでくる。

 中学も高校も女子高を選んだ自分には、大学というところで出会う男子たるもの、すべてが新鮮で、また不可思議で、かつ掴みどころのない存在だった。気が付けば金持ちのマザコンの付属校上がりごときに支配された二年と十か月だった。身体さえ自由にさせなければ、と何度か後悔した。でも既に遅かったし、自分が行為そのものを嫌いでないことを思い知らされ、後の祭りだった。最大手の建設会社に進んだ途端に、別れ話を持ち出された学生と社会人の壁を感じたが、翌年には自分も同じことをこの男にしていたのだ。言い訳するつもりはないがそれが常なのだし、仕方のないこと。そう割り切るまでには時間がかからなかった。有難いことに彼から別れ話を切り出してくれた。言うなれば男女の機微には恐ろしく勘の良い、察しの早い男子だった。年齢は同じだからと彼が付き合っていた女友達に話を聞けば聞くほど他の男子に比べて察しが良い男の子なのだと感心させられたのを覚えている。高校時代に、あるいはそれ以前の中学校から、既に濃い関係の恋愛を経験済の男子を探すのが難しい大学だった。勉強ばかりを頑張って、せいぜい部活に精を出して、他には目もくれないような高校生活をしていた男子の方が圧倒的に多い大学だった。そんななかでは彼は異質に思えたし、後輩であっても女として、大抵の女子が興味を覚えるような体裁を併せ持ってはいた。すぐに同学年の大人しくて可憐で慎ましい後輩の女子と付き合い始めたと噂で聞いた。一年生で一番乗りはさすがだと噂になった。お似合いだった。それが予想に反して、案外とあっけなくすぐに別れたと聞いた。そのあとには同学年の友達がひっかかったと聞いた。ひっかかかったという表現は、当時の金持ちのマザコンの付属上がりの彼の言葉。要するにチャライ男の言葉から想像させられたところによればたまたま偶然に居合わせたから手を出してみたらうまくいった。そんな展開だったと聞いた。それを聞いて、彼もまたチャライ男なのかもしれないと切り捨てて興味を持つことをやめた。同学年の友達はどんどん彼にのめりこむようになった。彼女も地方の県立進学校だが、田舎にありがちな男女別学の女子高あがりで、男子に免疫が余りないのは自分と同じだ。のぼせて行くのも仕方ない。そのうちまた切られるとチャライ先輩の彼は笑った。そのチャライ彼が妙に後輩のこの男子を認めたときはチャライ者どうし気が合うのかくらいには思っていた。同性から妬まれたり嫉まれたりしそうなタイプにも見えるのだが、なぜか彼は、チャライ彼氏をはじめとした先輩男子たちの評判がすこぶる良かった。同性の先輩連中が彼をかわいがり同学年の同性からは彼がひとつ年を重ねているせいもあるのか、何かの折にはいつも一目を置かれ、男女どちらからも好印象を持たれている。興味がわかないはずはないのだが、見て見ないふりをした。切られる、というのは、やつが切りたくて切るのではなく、彼女の方が切られることをするだろうから切られるだろう思うってこと。と解説された。切るだとか切られるだとか聞くと不安になるのだが、私は貴方に切られることをしたりするのだろうかと尋ねたら、俺が切られないように頑張るからとおどけられて、ごまかされた。ごまかされたがそれはそれで妙に救われた。そこまで思い返せば、確かに自分は、チャライ彼にも、いま目の前に再会を果たした彼にも、切られるようなことをしたのだろう。そして確かに切られた。望むと望まざるとにかかわらず、こちらから切った覚えはない。そこがもどかしい。

 ようやく適当な喫茶店に入りながら、明らかに間違ったことを口にした。自分の仕事を誇りたいがために、そうして自分も一人前の社会人になったと認めさせたいがために。彼女の表情が引いていくのが手に取るようにわかった。時間が経過した。いまだから話せることもある。自分の中にわだかまっていたものを、久しぶりの再会を機に伝えることで、ある種の意趣返しをしたかったのだろうか。復讐のひとつになるのだろうか。彼女を傷つけることになると想像ができなかったのか。自分の立場を改めて確認して、あの当時の立ち位置を再確認したかった。彼女にも知ってもらいたかった。それが彼女を傷つけることになるとは思いもしなくて、そして彼女を仮に傷つけるとわかっていたとしても、自分が失ったものの大きさに比べれば、それは当然の報いなのではなかったのかと思い返してみるのだが、明らかにせっかくの再会を、台無しにしたのは自分だった。もう少し大人になってから、落ち着いていたら、あるいは余裕があれば、自分はどうしたのだろうと想像してみることがある。恐らく立ち話だけしてそのまま立ち去ることを選択するだろう。大人になれた男ならそうする。余韻を残して、想像に生きる。美しいし穢れもなく、思い出だけが心に残る。振り返ってみたときに、いま思えばどうにでもできたはずで、悔やんでみても悔やみきれないいくつかのエピソードは存在する。時折一定の期間そのやり場のない想いが心に根付き、逃れられなくなって頭を抱えてしまうこともある。大抵は眠れない夜の話だ。そういう意味で言うならば、このときの自分は、やれることはやり切った。だから妙な喪失感なり、やり切れないほどの切ない後悔は生まれない。まだ十分に子供に毛が生えた程度の社会人一年生としては、あれがベストであったと思い直す。こういう偶然というのは、そう多く起こることでもないので、あのときに彼女が傷つき泣いたという結果を考えても、それは自分が失ったものの大きさと比較して、そう大した問題ではないと言い切れる自分がいる。こちらだってそれなりに大きく傷ついて、立ち直って、いまがあるのだ。貴女が傷ついてしまったとしても、同等以上にこちらは多くを失ったのだと、いまでも言い切れる。あれが運命のいたずらと呼ばれるものであるのなら、少しいたずらが過ぎたと天使をにらみつけてやる。少しは反省して欲しい。いまだに彼女との関係がもしもなかったとしたならば、と想像することがある。もう少し、自分に正直に生きられたはずではなかったかと。そう考えるときに思うのは、偶然は必然で、気づけば運命づけられて行ってしまう人生というものの、不可思議さである。

 あのチャライ男が、既に結婚式を挙げて、子供まで生まれたと聞いた。彼から。その瞬間に言いようのない切なさが胸をついた。聞きたくなかった。知らないままが良かった。そんな話を久しぶりの再会で打ち明ける目の前の男の口の軽さに興ざめ以上に怒りすら覚えた。どうしてのこのことこんな男に声をかけ、こんな男との再会に足を運び、こんなわけのわからない場所で、ここまで傷つけられることになるのだろうと思った。涙があふれるときにこれは何の涙なのかが自分でもわからないままだった。怒りなのか、虚しさなのか、切なさなのか、そしてそのどの感情もが入交り、ただただ自分を情けなく思った。どうしてこんな男に引っかかったのだろう。どうしてこんな男から、こんな打ち明け話を聞かされなければならなかったのだろう。腹立たしい以外に何もなかったが、次の瞬間、自分の大学生活の大半を占めたチャライ男が、既に結婚して子供をもうけてしまったことに対する衝撃に耐えられないがために八つ当たりしそうな自分を恥じてもいた。この長い腕にもう一度包まれても良いような気持ちになるほどに、もう一度自分が主導権を握ったまま、この優しくバカがつくほど素直なままの男に、身体を慰められるのも悪くないと、どこかで期待をし、そんな想像もして歩いて来た自分に対する戒めの鉄槌がくだったのだ。浅はかな自分を恥じる気持ちが沸いた。意気地なしの男だ。抱こうと思えば抱ける状態にあっても、こちらが流した涙をみて自制し、それ以上を求めなかった情けない男だ。察しが良いのは構わないが、女には強引に踏み込まれて貫かれてしまったという言い訳が必要なときもあるのだが、その機微までは理解していない。ただ戸惑ったように逡巡とし、結局は自制されてしまったことに、女としての情けなさがこみ上げ、物足りなさを感じてしまった自分に気づいて、それはそれで自分に呆れたことを思い出した。ときには、見境ないままにめちゃくちゃにされたくなる。その強引さと力強さと抗いがたさとあざとさに、蹂躙され翻弄されてしまうことで我を忘れてしまいたくなる。そういえばあと数日後に月のものが来る予定だった。精神的なバランスを欠いていたのかもしれない。立ち去った彼の背中を眺めながら、ぼんやりと、そう思った。

 彼女と別れた大学当時、別れを切り出した俺に、結局は、そういう結論を出すのが貴方なんだねとつぶやいた社会人一年目の研修帰りの彼女の声は、承諾を表していた。覚悟していたことでもあったのだし、自ら選んだ選択もあるのだし、過去の幾つかの恋と比べて、自分にふりかかる衝撃の程度も見越したうえで選択した積りではいた。にもかかわらず、思いのほか喪失感は大きく押し寄せた。一体、何だったのだろうという疑問があとからあとから沸いて来て、混乱した。結局、その日の晩、高校時代から引きずり続けて、いまだに忘れられない彼女の自宅の電話を一度だけ未練がましく鳴らしていた。いまの自分の気持ちに耳を傾けて欲しい相手に、彼女以外の選択肢が思い浮かばなかったのだ。夜中だった。すぐに切ってしまう積りで、一度だけベルを鳴らして心の扉を閉めようと。儀式ようなつもりで思いついたのだが、何の偶然かはわからないが、すぐに彼女が高校時代のまま、こちらが名乗らない先から、自分の名前を口にしてくれた。そうだと答えて、よくわかったなと呟いてみたが、それには取り合わず、どうした?何かあった?と彼女は懐かしい声を真夜中の部屋に響かせた。こんな電話をかけることを想定してはいなかった。喪失感を埋め合わせたいがために、誰の声が聴きたいかと考えたときに、彼女以外に思い当らなかった。そんな女は忘れろ、別に貴方にはふさわしい女性がすぐに現れるのだから、そんな女のために涙を流すことすら無駄だと彼女は義憤にかられてふくれっつらをするときの表情を彷彿とさせる物言いで、そう明確に区切るように言い切った。貴方にふさわしいのは、こういう女性だと彼女が矢継ぎ早にその条件を口にした。高校時代にも、同じことを彼女は予言していた。どうしてその予言に君が入っていないのかとは怖くて尋ねられなかった。「その女」やわたしなんかよりずっと頭が良くて、いろいろなことをわきまえてしっかりしていて、テキパキといろんなことを上手にこなせるような、そんな女性が将来絶対に貴方の前には現れると思う。彼女は昔と同じような口調で繰り返した。まるで何かの予言でもしているような口調だ。星座なり占いなりをもしかしたら調べたのかもしれないし、ただの勘だと繰り返すのだけれども、確信に満ちた意思をもって、彼女は昔から、そう予言していた。その夜も彼女はそう繰り返したのだった。
 
 さて、それから数年を経たのちに、淫靡な彼女と再会を果たした社会人一年生のときのその不可思議な再会の夜には、確かに僕には既に、いまの妻という恋人がいた。付き合い始めていた。そうして彼女の予言の通りに、確かにそう客観的に判断され得るような妻となった。様々な偶然に阻まれ、実に三年越しに引き延ばされた切実な想いがようやく実を結んだのは大学卒業間際だった。あの再会にはどんな意味があったのだろうと、いまでも時折、眠れない夜に思い返すことがある。曖昧模糊とした感情のもつれあいの末の恋の終わりに、改めて明確な一区切りをスパイシーに味付けしてくれた夜を。
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