【完結】淑女の拳はすべてを砕く~悪役令嬢に仕立て上げられたので、とりあえず物理で黙らせますわ~

ゆきむらちひろ

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03:断罪劇の幕が上がる

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 王立学園の卒業を祝う記念パーティー。それは、若き貴族たちが学び舎を巣立ち、新たな社交界へとデビューを果たす華やかな門出の場だ。
 会場となる王宮の大広間は、幾百もの蝋燭が灯るシャンデリアの光に照らされ、天井のフレスコ画や磨き上げられた大理石の床がきらびやかに輝きを放っている。楽団が奏でるワルツの調べに乗り、色とりどりのドレスをまとう令嬢たちと、仕立ての良い礼服に身を包んだ若き紳士たちが、楽しげに語らい、踊っていた。
 なごやかな喧騒の中にありながら、まるで不可侵であるかのように不自然な空間ができている場所があった。
 その中心に立つのは、公爵令嬢レティシア・フォン・ベルンシュタイン。
 彼女は、深海の夜を思わせる瑠璃色のシルクドレスに身を包み、編み上げた金髪にはダイヤモンドの髪飾りが星屑のようにきらめいていた。その佇まいは誰が見ても完璧な、息をのむほど美しい貴婦人。だが、誰も彼女に話しかけようとはしなかった。
 向けられる視線は、憧憬ではない。好奇と、非難と、そしてこれから起こるであろう破滅への期待が入り混じった、粘つくような視線だ。
 数々の「悪行」の噂は、もはや学園内に留まらず、社交界全体にまで広がっていた。哀れな聖女をいじめ抜く、嫉妬深い悪役令嬢――それが、今のレティシアに与えられた不名誉な称号だった。

(まあ、人が少なくて動きやすいですわね。シャンパンを取りに行くのも楽で助かりますわ)

 しかし、そんな周囲の悪意の渦など、レティシアにとっては春の夜風ほどにも感じていない。むしろ無遠慮な雑踏から解放されたこの状況を快適にすら感じていた。手にしているグラスの中身は、もちろんシャンパンではなく、侍女にこっそり頼んで用意してもらった特製のジンジャーエール。ピリリとした炭酸の刺激が、退屈なパーティの気だるさを少しだけ紛らわせてくれる。

「レティシア様……」

 背後から、心配そうな声がかけられた。数少ない、彼女の無実を信じている友人、侯爵令嬢のシャーロットだった。

「皆様、ひどい噂を信じ込んで……。何か申し開きをなさらなくてよろしいのですか?」
「申し開き? 何をですの、シャーロット」

 レティシアは、きょとんとした顔で振り返る。彼女にとって、噂はしょせん噂であり、自分とは何の関係もない与太話に過ぎなかった。

「わたくしは、イザベラ様がご無事ならそれでよろしいのです。あの方は、本当に目が離せませんから」

 その言葉が、心からの善意と、とてつもないドジっ子への心配からきているとは、シャーロットですら完全には理解できていない。彼女はただ、友人のあまりのお人好しっぷりと、世間の悪意への鈍感さに、深いため息をつくしかなかった。

「あら?」

 その時だった。
 突如、それまで会場を満たしていたワルツの調べが、ぴたりと止んだ。ざわめきが波のように広がり、人々の視線が、大広間にしつらえられた壇上へと注がれる。
 そこには、凛々しい軍服に身を包んだ王太子アルフォンスと、彼に寄り添うように立つ、純白のドレスが天使のような清らかさを際立たせる聖女イザベラの姿があった。スポットライトが、まるで大舞台に立つ名優たちを魅せるかのように、あるいは断頭台の囚人を照らし出すかのように、ふたりを白く浮かび上がらせる。
 アルフォンスは、会場を見渡し、やがてその鋭い視線を真っ直ぐにレティシアへと向けた。その瞳には、揺るぎない正義感と、純粋な怒りの炎が燃え盛っていた。

「静粛に! これより、我が名において、この国の未来を蝕む悪を断罪する!」

 アルフォンスの張り上げた声が、静まり返った大広間に朗々と響き渡った。それは、これから行われることが正義の鉄槌であることを、一点の疑いもなく信じ込んでいる者の声だった。会場の貴族たちは、ゴクリと固唾を飲む。誰もが、この茶番劇の結末を予期していた。
 アルフォンスは、壇上からレティシアを指差す。その仕草はまるで、罪人を名指しする検事のようだった。

「そこにいる女、レティシア・フォン・ベルンシュタイン! 貴様の悪行はもはや見過ごせぬ!」

 きたきた、とレティシアは内心で思った。
 また殿下のお説教が始まるのかしら。まるで、舞台のクライマックスだ。
 彼女は「面白くなってきた」と感じていた。断罪を名指しで言われたにもかかわらず、レティシアの胸中は見当違いの期待で高鳴っている。
 そんな彼女とは対照的に、壇上のアルフォンスは義憤に駆られた気持ちを高ぶらせている。

「聖女として我が国に現れた、心優しきイザベラに対し、貴様がこれまで行ってきた数々の嫉妬深い嫌がらせ! ティーパーティーでの屈辱、図書室での暴挙、そして身も凍るような大階段での殺意! 王太子妃にならんと精進すべき女が、これほどまでに邪悪な心を持っていたとは!」

 アルフォンスの言葉は、熱を帯びていく。彼の隣で、イザベラはか弱く肩を震わせ、今にも泣き出しそうな顔でうつむいていた。その姿が、アルフォンスの言葉に絶大な説得力を与え、観衆の同情を一身に集める。
 レティシアは、少し眉をひそめた。

(殺意? わたくしが、イザベラ様に? いったい何の話でしょう。わたくしは、むしろ助けたつもりなのですが……。殿下は、何か大きな勘違いをなさっているようですわね)

 彼女の思考はどこまでもポジティブだ。アルフォンスが悪意を持っているとは考えず、ただ「勘違い」や「早とちり」の範疇で処理しようとしていた。
 そんな想いが、第三者に伝わることはなく。断罪劇は渦中の人であるレティシアを置き去りにして進んでいく。アルフォンスは大きく息を吸い込み、判決を言い渡すかのように叫んだ。

「よって、王太子アルフォンス・クライブ・ランドールの名において宣言する! レティシア・フォン・ベルンシュタイン! 貴様との婚約は、本日この時をもって、正式に破棄する!」

 「おお……」と、会場からどよめきが起こる。歴史的な瞬間に立ち会ったという興奮が、人々を包んだ。
 だが、糾弾されている当の本人、レティシアの反応は、彼らの期待とはまったく異なるものだった。

(……婚約破棄、ですか?)

 あくまで婚約者候補なのだから、真っ当な手続きで候補から外せばいいのでは?
 彼女の頭に常識的な考えが思い浮かぶも、そんなものは一瞬のことだった。
 今、王太子はなんとおっしゃったか。
 つまり、レティシアは婚約者候補としてお役御免だと、王太子はおっしゃる?
 その言葉を理解した瞬間、レティシアの心に、ぱあっと青空が広がった。
 まるで、長年背負ってきた重い荷物を、ようやく下ろすことができたかのような解放感。これで、面倒な王妃教育から解放される。窮屈な作法や歴史の勉強、複雑怪奇な宮廷政治の力学ともおさらばだ。これからは、もっと自由に、屋敷の庭で木に登ったり、裏山で猪(の足跡)を追いかけたりできるかもしれない。

(好都合ですわね)

 レティシアは、思わず心の声が漏れそうになるのをかろうじて抑えた。顔には出さず、完璧な淑女の無表情を保つ。だが内心ではガッツポーズを決めていた。
 ありがとう、アルフォンス殿下。
 ありがとう、イザベラ様。
 あなた方のおかげで、わたくしは自由の翼を手に入れたのですわ!
 外見は令嬢然とおしとやかにしていながらも、心の内ではスキップを踏みながら狂喜乱舞するレティシア。そんな彼女を他所に、アルフォンスの断罪はまだ終わらない。
 彼はイザベラの肩を抱き寄せ、さらに声を張り上げる。

「そして! ただ婚約を破棄するだけでは、イザベラが受けた心の傷は癒えぬ! 貴様の犯した罪は、決して許されるものではない!」

 だから、婚約者候補相手に破棄と言うのは変なのでは?
 そんな内心での突っ込みはもちろん、王太子に届くはずもない。
 アルフォンスは、会場の隅に控えていた王宮騎士団に向かって、鋭く命じた。

「騎士団、前へ! この悪女を捕らえよ! 修道院へ幽閉し、その邪悪な心を浄化させるのだ!」

 その命令一下、重々しい足音と共に、軽鎧に身を固めた屈強な騎士たちが、レティシアを取り囲むように前進してきた。剣の柄に手をかけ、威圧的に包囲網を狭めてくる。その目には、凶悪な犯罪者を捕らえるという使命感と、哀れな聖女のための義憤が宿っていた。
 会場の空気は、一変した。これはただの婚約破棄劇ではない。公爵令嬢の陰謀を白日にさらした上での捕縛劇だ。
 貴族社会の常識を覆す、前代未聞の事態。誰もが息を殺し、これから起こるであろう出来事を見守った。シャーロットは「そんな……!」と青ざめ、今にも飛び出さんとするのを隣の令嬢に押さえつけられている。
 思わぬ展開からこの騒動の主役にされたレティシア。だがここにきて、彼女の表情から、ふっとすべての感情が消えた。

「……捕縛?」

 その単語が、彼女の脳内で反芻される。
 婚約者候補からの除外は歓迎すべきことだった。
 しかし、捕縛となれば話が別だ。

(修道院に幽閉……? 牢屋のようなものですわよね? そこはきっと、埃っぽくて、薄暗くて、じめじめしているに違いありませんわ。わたくしのこの瑠璃色のドレスが、汚れてしまいますわ)

 彼女の思考は、まずドレスの心配に行き着いた。これは、ベルンシュタイン公爵家御用達の最高級の職人が、三ヶ月かけて仕立てた逸品だ。汚すわけにはいかない。

(それに、きっと虫も出ますわよね? 毛深くて、足がたくさんあるような……。それは、ちょっと、いえ、かなり嫌ですわね)

 彼女は虫が苦手だった。熊を絞めることはできても、蜘蛛は素手で触れない。

(そして何より、幽閉されたら、木登りも、猪追いも、お昼寝もできなくなってしまいますわ)

 それは、彼女の人生の楽しみのすべてを奪われることに等しい。
 結論は、一瞬で出た。
 婚約者候補から外れるのはいい。
 しかし、捕縛されるのは、断固として拒否する。
 なぜなら――

「それは、とても、とても……面倒ですわね」

 レティシアは、ふう、とひとつ、優雅なため息をついた。
 その吐息と共に、彼女を縛り付けていた何かが、ぷつりと切れる音がした。
 長年被り続けてきた、完璧な淑女の仮面。面倒事を避けるためだけに維持してきた、窮屈な猫。
 もう、必要ない。
 なぜなら今、目の前に、人生最大級の「面倒事」が立ちはだかっているのだから。これを排除しない限り、彼女の望む平穏な日常は訪れない。

「王太子のお言葉だ。抵抗せず、大人しくするといい」

 騎士のひとりが、レティシアの前へと歩み進む。そして彼女を捕縛すべく腕を掴もうと、無遠慮に手を伸ばしてきた。
 その瞬間、レティシアの唇の端が、ほんのわずかに吊り上がった。
 それは、社交界で見せる優雅な微笑みではなかった。
 獲物を前にした、しなやかな肉食獣の笑み。
 あるいは、難解なパズルを解く直前の、天才数学者の笑み。
 空気が、変わった。

「なっ……」

 腕に覚えのあるはずの騎士が、わずかにうろたえる。
 それまでレティシアを包んでいたのは、か弱き悪役令嬢のオーラだった。だが今は、違う。静かだが、圧倒的なプレッシャー。まるで、嵐の前の静けさのような、凝縮された闘気が、彼女の体から立ち上っていた。

「皆様、少し、道を開けてくださらない?」

 その声は、鈴を転がすように可憐。
 だがそれと共に、鋼のような芯を持っていた。

「わたくし、手荒な真似はしたくありませんの」

 それは、最後の警告。慈悲とも言える、最後通牒だった。
 だが、正義感に燃える騎士たちに、その言葉の意味は届かない。彼らはレティシアから感じた闘気を、己の気の迷いだと切り捨てる。ただの令嬢の虚勢と捉え、騎士たちは、レティシアを捕縛すべく身構えた

「問答無用! 大人しく縛につけ、レティシア・フォン・ベルンシュタイン!」

 騎士団長代理が叫び、騎士たちが一斉に踏み込む。
 断罪劇の幕は、今、まさに上がった。
 しかし、その脚本は、アルフォンスやイザベラが書いたものとは、まったく異なる結末へと向かおうとしていた。主役が、悪役令嬢から、誰も知らなかった「じゃじゃ馬」へと交代する、その瞬間だった。
 レティシアは、迫りくる騎士たちを見据え、そっと拳を握りしめる。
 その小さな拳がこれから何を引き起こすのか、まだ誰も知らなかった。


 -つづく-
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