【ひとまず完結】異世界の偏屈爺、かく語りき

ゆきむらちひろ

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08:ロバは旅に出たところで……

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筆者:石臼翁


 人の口に戸は立てられぬ、とはよく言ったもので、私のこの古物商の店にも、日々様々な噂話が風に乗って舞い込んでくる。先日も馴染みの行商人が、目を輝かせながら実に馬鹿げた話を持ってきた。なんでも、どこぞの国の王子様が、民の暮らしとやらを知るためにお忍びで城を抜け出し、あろうことかダンジョン探索を始めたのだそうだ。それだけならまだ若気の至りですまされる。だが話はそこで終わらない。その道中で出会った腕利きの女冒険者に、王子様はすっかり心を奪われてしまったのだとか。

 命のやり取りが日常である殺伐とした場所で、色恋にうつつを抜かす余裕があるものか。そう首を傾げた私に、行商人は「今のダンジョンは昔と違うのですよ」と、したり顔で言うのだった。このあたりの感覚の違いは、やはり私が時代に取り残された爺である証左なのかもしれぬ。

 私がまだ、背中に古びた剣を一本差して日銭を稼いでいた頃の話だ。あの時代のダンジョンというのは、本当の意味で「未知」の領域だった。地図などという便利なものは存在せず、先人が残した不確かな言い伝えだけを頼りに、一歩一歩、暗闇の中を手探りで進んだものだ。壁の染み、風の匂い、遠くで響く微かな物音。五感を総動員し、仲間と背中を預け合い、常に死と隣り合わせの緊張感の中に身を置いていた。いつ、どこで、見たこともない罠が牙を剥くか。どれほど強力な魔物が、角の向こうで息を潜めているか。そんな状況で、色恋沙汰に心を砕くような余裕など、誰ひとりとして持ち合わせてはいなかった。我々にとって、ダンジョンとは生きるか死ぬかの試練の場であり、それ以上でもそれ以下でもなかったのだ。

 それが、長い年月の間にすっかり様変わりしたらしい。先人たちの数えきれないほどの犠牲と、命懸けの探索によって、かつて未知だった迷宮のほとんどが踏破された。どの階層に、どんな魔物が、どのような周期で現れるか。どこに、どんな種類の罠が仕掛けられているか。そうした情報が、まるで商店の在庫目録のように、詳細なデータとして蓄積されていったのだという。その結果、ダンジョンはもはや「未知の領域」ではなく、ある程度のリスク管理が可能な「攻略対象」へと成り下がった。

 それと共に、冒険者たちの平均的な実力というのも、底上げされてきているようだ。これも、先達が編み出した戦術や、創意工夫の積み重ねという、尊い遺産の恩恵だろう。結構なことだ。実に結構なことだ。
 だがその恩恵は、どうやら奇妙な副作用も生み出しているらしい。

 近頃では、ベテラン冒険者が引率して高レベルなダンジョンに潜る「体験ツアー」なるものまであると聞く。サポートがあるとはいえ、ダンジョンに潜る以上、命の保証などどこにもない。それでも、素人に毛の生えたような若者たちが、「最前線を知り、経験を積む」という大義名分のもと、こぞって参加するというのだから、開いた口が塞がらない。

 実を言えば、私の知り合いの若い連中にも、その手の「ツアー」に参加した者が少なからずいる。一時期は、彼らが店に顔を出すたびに、その話題で持ちきりだった。おかげで、私自身は一度も足を踏み入れたことのない迷宮であるにもかかわらず、その内情に妙に詳しくなってしまったほどだ。「三十階層のゴーレムは打撃に強いが、関節部に酸性の液体をかければ動きが鈍る」だの、「五十階層の落とし穴は、決まって通路の三枚目の石板に仕掛けられている」だの、まるで見てきたかのように語ることができる。

 そんな私の聞きかじりの知識を、若者たちはいたく感心し、「翁ほどの知識があるなら、ぜひ我々と一緒に」などと、無邪気に誘ってくることさえあった。さすがにそれは丁重に断った。現役を退いて久しいこの身体だ。若者たちの足手まといになるのが関の山だろう。年寄りの冷や水とは、まさにこのことだ。それでもなお、物好きな若者が誘いをかけてきた時には、私は決まってこう返すことにしている。

「ロバは旅に出たところで、馬になって帰ってくるわけではない」と。

 この言葉は、何も老いぼれた自分自身への戒めだけではない。むしろ、その「体験ツアー」とやらに参加する、分不相応な若者たちにこそ、聞かせてやりたい言葉なのだ。

 彼らは、ベテランに守られ、安全が確保された道をただついて行くだけで、何かを得たつもりになっている。高レベルなダンジョンに足を踏み入れたという事実だけで、己もまた高みに登ったかのように錯覚している。だが、それは大きな間違いだ。彼らがしているのは、ただの「見物」に過ぎない。己の力で道を切り拓き、己の知恵で罠を乗り越え、己の覚悟で死線に立つ。そうした本物の経験を経なければ、得られるものなどたかが知れている。ロバがどれだけ立派な馬の群れについて歩いたところで、その足が速くなるわけでも、その身体が大きくなるわけでもない。結局は、息を切らして音を上げるのが関の山だ。得られるものは何もない、とまでは言わない。だが分不相応な場所に身を置いても、手に入るのは、中身の伴わない虚しい自尊心くらいが関の山ではないか。

 先日、この話を元騎士団副隊長の旧友にした。彼はいたく気に入った様子で、話を聞く間に何度も頷いていた。「自分の実力に根拠のない自信を持つ、今の若い騎士たちにこそ聞かせてやりたいもんだ」と、そうぼやいていた。

 だから私は、冗談半分にこう言ってやったのだ。「いっそ、ダンジョンの入り口に、その言葉を刻んだ看板でも立てたらどうかね」と。

 若さゆえのはやる気持ちを、老いぼれが頭ごなしに否定するつもりはない。だが、もしこの一言が、彼らの勇み足をわずかでも踏みとどまらせ、その生存率をほんの少しでも引き上げる助けになるのなら、それもまた儲けものではないか。そう言って、ふたりで笑い合った。だが案外、本気でやってみるのも悪くないのではと密かに思っている。


 -了-






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