【ひとまず完結】異世界の偏屈爺、かく語りき

ゆきむらちひろ

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04:回復魔法が回復させるもの

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筆者:石臼翁


 先日、私の店先で荷運びの若者が足を滑らせて転び、膝を派手に擦りむいた。ちょうど神殿の若い神官が通りかかり、見るに見かねたのだろう、すぐさま駆け寄って呪文を唱えた。するとどうだ。若者の膝から立ち昇った淡い光が消える頃には、あれほど酷かった擦り傷が跡形もなく消え失せていたのだ。周りで見ていた者たちは「さすがは神殿の奇跡だ」と口々に褒めそやし、当の若者もきょとんとした顔で礼を言って、何事もなかったかのように立ち去っていった。
 結構なことだ。実に結構なことだ。だが、私にはその光景が、まるで上質な手品を見せられているようで、どうにも薄寒い気持ちになった。

 あれは治癒ではない。ただの「現象の書き換え」だ。傷があったという事実を、なかったことにしているに過ぎない。痛みを伴わずに傷が消えるのだからこれほど有り難いことはない、と人は言う。だが果たして本当にそうだろうか。
 そもそも痛みとは何のためにあるのか。それは我々の身体が発する危険信号だ。ここが壊れているぞ、これ以上動かせばもっと酷くなるぞ、という魂からの叫びなのだ。その叫びを無視し、ただ表面だけを取り繕ってしまって、本当に良いものだろうか。

 私がまだ駆け出しの冒険者だった頃、パーティーにひとりの老僧がいた。彼は神に仕える身でありながら、回復魔法の類をほとんど使わなかった。彼が使うのは、薬草をすり潰して作る軟膏であり、清潔な布で傷口を縛る手当であり、そして何より、傷ついた仲間の手を握り、静かに語りかける言葉だった。

「痛むか。痛むだろう。だがな、その痛みがお前を強くする。傷の痛みが、次の一歩を慎重にさせるのだ」

 彼はいつもそう言っていた。彼の治療は時間がかかった。傷はすぐに塞がらず、熱を持ち、じくじくと痛み続けた。しかし、その過程で我々は、己の身体と向き合い、無理をしたことを反省し、次なる戦いへの教訓を得たのだ。そして、ゆっくりと癒えていく傷跡を見るたびに、生かされていることへの感謝の念が、自然と湧き上がってきたものだ。

 それに比べて、近頃の回復魔法はどうだ。瞬時に傷を消し去ることで、痛みから得られるはずだった教訓まで、綺麗さっぱり消し去ってしまう。転んでも痛みを知らぬ子供は、またすぐに転ぶ。致命傷を負っても、神官が呪文を唱えれば元通り。そんな安易な奇跡に慣れてしまえば、人は己の命の重みを忘れるだろう。危険を顧みなくなり、無謀な戦いにばかり身を投じるようになる。それは勇気とは似て非なる、ただの蛮勇だ。
 そして、他人の痛みにも鈍感になる。己が痛みを経験したことがなければ、他人の苦しみを本当の意味で理解することなどできはしないのだから。

 かつての回復魔法は、もっと謙虚なものだったように思う。それは神の御業を借りて傷を消すような大それたものではなく、あくまで本人が持つ「自然治癒力」を少しだけ後押しする、ささやかな手助けに過ぎなかった。術者は患者の身体にそっと手を当て、その生命力そのものに語りかける。眠っている治癒の力を呼び覚まし、血の流れを穏やかにし、身体が自ら傷を癒していくのを、辛抱強く見守る。それは、傷ついた者への深い共感と、生命そのものへの畏敬の念がなければ、決して成し得ない神聖な技術だった。
 時間もかかるし、術者の精神力もひどく消耗する。だがその過程を経て癒えた傷は、ただ元に戻るのではない。以前よりも強く、しなやかになるのだ。それは身体だけの話ではない。心もまた、苦痛を乗り越えた経験によって、一段とたくましくなる。

 今の神官たちは、おそらくそんな面倒なことはすまい。彼らがやっているのは、まるで汚れた壁をただ白い漆喰で塗り固めるようなものだ。一見、綺麗になったように見える。だが壁の内側では腐食が進んでいることに気づかない。いつかその見せかけの壁が崩れ落ちた時、彼らはどうするつもりなのだろうか。もっと強力な魔法で、さらに分厚く塗り固めるのだろうか。それはどこまで行っても根本的な解決にはならず、ただの一時しのぎに過ぎない。

 痛みを忘れさせることは、優しさではない。それは人間から成長の機会を奪う、ある種の傲慢だ。本当に相手を思うのならば、安易に痛みを消し去るのではなく、その痛みに寄り添い、共に乗り越える手助けをしてやるべきではないのか。
 傷跡は、戦士の勲章だと人は言う。それはただ戦いに勝ったという証ではない。己の限界を知り、死の淵から生還し、それでもなお立ち上がったという、魂の軌跡そのものなのだ。その尊い軌跡を、安っぽい奇跡でやすやすと消し去ってしまう権利が、一体誰にあろうか。

 あの若者の膝は、今頃どうしているだろう。痛みもなく元通りになった身体で、また無茶な荷運びをしているのかもしれない。そして次に転んだ時も、きっと誰かが助けてくれると信じて疑わないのだろう。
 それで本当に良いのだろうか。私にはどうしてもそうは思えないのだ。便利という名の麻薬が、少しずつ、しかし確実に、人々の心を蝕んでいる。そんな気がしてならない。勘繰り過ぎた爺の戯言であることを切に願う。


 -了-





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