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第三話『カステラ』
若旦那たちのカステラ勝負・七
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カステラは、実はそれほど甘いものではない。というのも砂糖は非常に高価なもので、豪勢に使いたくても『使えない』からだ。なのでカステラは『甘いもの』だと信じて憧れ、実際食べてみると『あらまぁ、南京の方が甘いわね』なんて落胆することもままある話なのだが……
「これは、たまらぬ匂いだな。こんな甘い香りははじめて嗅ぐぞ」
工房にふうわりと漂う香りを嗅ぎながら、新一郎は瞳を閉じた。強面の侍がそうやって『うっとり』などとしている様は絵にはならないが、そんな彼の様子におみつは同じ食い道楽同士親近感を覚えた。
先ほどまで職人が練っていた生地は、型に流し込まれ焼き窯で焼かれている最中だ。大量の汗をかきながら真剣な表情で炭の量を調整する職人の隣には、おたまとおよしがしゃがみ込んでいる。まだ頑是ない彼女たちは、滅多に見られないこの光景に興味津々なのだ。
(本当にいい匂いだわ。カステラが焼ける時にはこんなにいい香りがするんだねぇ)
おみつも肺いっぱいに甘い空気を吸い込む。するとまぁるいお腹が匂いにつられて、ぎゅるりと小さな音を立てた。顔を赤くして周囲を見回したけれど、誰も腹の音に気づいてはいないようだ。おみつはほっと胸を撫で下ろした。
(そうよね、私なんぞに注意を払っている場合じゃあないものね)
そんなことを思いながら、団子のように固まっている旦那衆に目を向ける。
彼らはどんなものをおみつに食べさせようかと、ああだこうだと頭を捻っている最中だ。おみつの八卦見の常連客で、その好みを熟知している一太から情報を聞き出さんとする者も当然居たが……
「これは勝負でございますからねぇ。教えるわけにはいきませんよ」
一太はいつものおっとりとした調子で、しかしきっぱりと断るのだった。そんなところはさすが商人だとおみつは思う。
「なにか必要なものがあれば、うちの小僧に買いにやらせるよ」
佐一がそう提案すると、皆は我も我もと内緒話をするようにして佐一の耳に注文を吹き込んだ。その注文をさらに佐一から伝えられたはしっこそうな小僧は、早足で使い走りに向かう。
「旦那はなにも頼まなくて良かったんですか?」
「む、俺か? 俺は別に勝負をしに来たわけではないからな」
佐一の問いに新一郎はそう返しながら、そわそわとした素振りで窯へと視線をやる。本人はさり気ないつもりらしいが、カステラが気になっていることは見え見えである。
そんな新一郎の様子を見て、おみつはくすりと笑ってしまった。
「む……」
「あ、その。悪気はなかったんですけど」
太く濃い片眉を上げてぎょろりと大きな目を向けられ、おみつはばつが悪い気持ちになる。
「気にしてはおらぬ。ところで……お主のところには、江戸中の菓子が集まるそうだな」
突然そんな話を振られ、おみつはぽかんと口を開けた。そんな少し間の抜けたおみつの顔を見て、今度は新一郎がばつの悪そうな顔になる。彼は視線を泳がせると、困ったように頭をかいた。
(これはもしかしなくても、会話のきっかけを作ってくださったのかしら)
遅ればせてそんな考えに至ったおみつは、慌てて口を開いた。
「ええ、ええ。毎日のようにいっぱいきますよ。ぜんぶ食べきれなくて、ご近所さんに配ることもあるんです」
大抵はおみつや家族の腹に綺麗に収まる菓子だが、来客が立て続けに来すぎると家族だけでは処理できないことも多い。そんな時にはけちけちせずに近所に振る舞うのだが、それは一種の三好屋名物のようになっていた。近所を歩いていると『菓子の日はまだか』なんて子供に訊かれることも多いのだ。
「それはまことか」
迫力のある顔でぐいと距離を詰められ、おみつは冷や汗をかきながら思わず一歩下がる。
「ほ、本当でございますよ。決まった日にやるわけじゃあないんですけれど……」
「そうか……日は決まっておらぬのか」
そう言って大柄な侍はがくりと肩を落とした。その少し気の毒になるくらいの落ち込みっぷりに、おみつは少しばかり同情心が湧いてしまう。
「年明けになると、新しい年を占ってくれと毎日みたいにお客が来るんです」
「ぬ……」
「だからその時期にいらしてくださいましたら、たぶんお菓子をご馳走できますよ」
「まことかっ」
破顔する新一郎を見て、なんとも食い意地が張ったお侍だ、とおみつは自分を完全に棚に上げたことを考えてしまうのだった。
「これは、たまらぬ匂いだな。こんな甘い香りははじめて嗅ぐぞ」
工房にふうわりと漂う香りを嗅ぎながら、新一郎は瞳を閉じた。強面の侍がそうやって『うっとり』などとしている様は絵にはならないが、そんな彼の様子におみつは同じ食い道楽同士親近感を覚えた。
先ほどまで職人が練っていた生地は、型に流し込まれ焼き窯で焼かれている最中だ。大量の汗をかきながら真剣な表情で炭の量を調整する職人の隣には、おたまとおよしがしゃがみ込んでいる。まだ頑是ない彼女たちは、滅多に見られないこの光景に興味津々なのだ。
(本当にいい匂いだわ。カステラが焼ける時にはこんなにいい香りがするんだねぇ)
おみつも肺いっぱいに甘い空気を吸い込む。するとまぁるいお腹が匂いにつられて、ぎゅるりと小さな音を立てた。顔を赤くして周囲を見回したけれど、誰も腹の音に気づいてはいないようだ。おみつはほっと胸を撫で下ろした。
(そうよね、私なんぞに注意を払っている場合じゃあないものね)
そんなことを思いながら、団子のように固まっている旦那衆に目を向ける。
彼らはどんなものをおみつに食べさせようかと、ああだこうだと頭を捻っている最中だ。おみつの八卦見の常連客で、その好みを熟知している一太から情報を聞き出さんとする者も当然居たが……
「これは勝負でございますからねぇ。教えるわけにはいきませんよ」
一太はいつものおっとりとした調子で、しかしきっぱりと断るのだった。そんなところはさすが商人だとおみつは思う。
「なにか必要なものがあれば、うちの小僧に買いにやらせるよ」
佐一がそう提案すると、皆は我も我もと内緒話をするようにして佐一の耳に注文を吹き込んだ。その注文をさらに佐一から伝えられたはしっこそうな小僧は、早足で使い走りに向かう。
「旦那はなにも頼まなくて良かったんですか?」
「む、俺か? 俺は別に勝負をしに来たわけではないからな」
佐一の問いに新一郎はそう返しながら、そわそわとした素振りで窯へと視線をやる。本人はさり気ないつもりらしいが、カステラが気になっていることは見え見えである。
そんな新一郎の様子を見て、おみつはくすりと笑ってしまった。
「む……」
「あ、その。悪気はなかったんですけど」
太く濃い片眉を上げてぎょろりと大きな目を向けられ、おみつはばつが悪い気持ちになる。
「気にしてはおらぬ。ところで……お主のところには、江戸中の菓子が集まるそうだな」
突然そんな話を振られ、おみつはぽかんと口を開けた。そんな少し間の抜けたおみつの顔を見て、今度は新一郎がばつの悪そうな顔になる。彼は視線を泳がせると、困ったように頭をかいた。
(これはもしかしなくても、会話のきっかけを作ってくださったのかしら)
遅ればせてそんな考えに至ったおみつは、慌てて口を開いた。
「ええ、ええ。毎日のようにいっぱいきますよ。ぜんぶ食べきれなくて、ご近所さんに配ることもあるんです」
大抵はおみつや家族の腹に綺麗に収まる菓子だが、来客が立て続けに来すぎると家族だけでは処理できないことも多い。そんな時にはけちけちせずに近所に振る舞うのだが、それは一種の三好屋名物のようになっていた。近所を歩いていると『菓子の日はまだか』なんて子供に訊かれることも多いのだ。
「それはまことか」
迫力のある顔でぐいと距離を詰められ、おみつは冷や汗をかきながら思わず一歩下がる。
「ほ、本当でございますよ。決まった日にやるわけじゃあないんですけれど……」
「そうか……日は決まっておらぬのか」
そう言って大柄な侍はがくりと肩を落とした。その少し気の毒になるくらいの落ち込みっぷりに、おみつは少しばかり同情心が湧いてしまう。
「年明けになると、新しい年を占ってくれと毎日みたいにお客が来るんです」
「ぬ……」
「だからその時期にいらしてくださいましたら、たぶんお菓子をご馳走できますよ」
「まことかっ」
破顔する新一郎を見て、なんとも食い意地が張ったお侍だ、とおみつは自分を完全に棚に上げたことを考えてしまうのだった。
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凄く好きなストーリーです。
早く続きが読みたい(o^^o)
一話だけ読んで面白いなあと思いました。
時代小説モノの書籍化レベルの文才なので、このまま10万字前後まで書かれて出版にならないかなーと思う内容です。
続きも読ませていただきます。
歴史時代小説大賞の読者賞と大賞をダブル受賞、今更ながらおめでとうございます。
じっくり読ませてもらいます!