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27 欲望の捌け口
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幾つもの足音が後を追ってくる。今は神官の格好をしているが、元は皆八年前の聖騎士団の生き残り達だった。
「戦いに行く訳ではないぞ」
「分かっております」
それでも後を付いてくる姿に口元を上げながら、物々しい空気に包まれた廊下を急いだ。
ハイスを先頭にした集団が神殿の門に辿り着くと、門の向こう側からは開門を要求する王城の騎士の声が響いていた。門番達は松明を上げてハイスの姿を認めると安堵を滲ませた。
「門の向こう側にリアム殿下がいらしております」
門は言いつけ通りにぴたりと閉められている。急遽、門を閉めたが為に帰れなくなった使用人達もいるだろうが、火急の場合には持たせている金の使用許可を出しているので、街の宿へ泊まるなり出来るだろう。それに最悪金がなくても神殿の者だと言えば民家や食事処が数日は面倒見てくれるはず。かといって申し訳無さがない訳ではないが、今はこの扉の向こう側にいる者を通す訳にはいかなかった。
「どれくらい外に出ているんだ?」
「食材の買い出しに出ていた使用人が四人馬車で出ております。あとは若い神官二人が少し離れた神殿に遣いに行っていますが、今日戻るかは分かりません」
「そうか。して殿下はなんと言っている?」
その時だった。一際大きな声が門の向こう側から聞こえてきた。
「これ以上門を閉ざすのであれば、神殿に謀反の疑いありと陛下にご報告申し上げるがよろしいか?」
ハイスは門に付いている小窓を開けた。窓の向こうは現れたハイスの姿に皆動きと止めたようだった。
「やっとお出ましですか、神官長殿」
門の前で高らかに声を上げていたのは騎士団副隊長のオーエン。オーエンは侯爵家の嫡男でもありかなり野心家な男だった。年の割に似合わない髭を蓄えているのも、虚勢を張りたいだけなのだろうと思うと少し滑稽に見えてくる。ハイスを視線に捉えるなり、オーエンは前に出た。リアムは後ろでじっと黙ったまま事の成り行きを見守っているようだった。
「神殿の扉は誰にでも開かれているべきではないですか? これは一体どういう事なのかご説明頂きたい!」
「その神殿にそのような大人数で武装して来られては致し方ないというもの。そちらこそ神殿に攻め入るおつもりか?」
「我らは騎士ですぞ! まさか剣を置いてこいと仰るのですか!」
「ここは神殿なので剣は不要。必要なのは祈りのみだ。して、本日はどのようなご用件で? ああ失礼。どなたでもお越し頂いて構わないのだが、とても祈りに来たようには見えなかったもので」
すると怒鳴りだそうとしたオーエンの肩を押さえてリアムが一歩前に出た。
「無駄な言葉の応酬をする気はない。単刀直入に聞くが、ブリジットが戻ったというのは本当か?」
リアムの顔色は悪い。もちろん松明に浮かび上がった顔なので顔色までは分からないが、痩けた頬がそれを物語っていた。
「本当ですが、それが何か?」
「……それが何かだと? 聖女が戻ったのにそれを隠すなど、捕らえられたいのか!」
「お言葉ですが、八年前にブリジット様を国から追い出そうとしたお方のお言葉とは思えません。もちろんその後に殿下がブリジット様を捜索されていたのは存じ上げておりますが、聖女のお役目を果たされたブリジット様は今はもう聖女ではございません。よってご報告する義務はないと存じます」
「貴様ッ! ここを開けろ! さもなければ本当に捕らえるぞ!」
ハイスは深い溜息をついて首を振った。
「何故そこまでしてブリジット様にお会いになりたいのです? 身の安全は私どもが保証致しますし、心配しておりましたがとてもお元気そうです。きっとこの八年間お心安らかにお過ごしだったのでしょう」
「元気そうだと? 私を見捨てておいて元気だったというのか」
「八年間の間に都合の悪い記憶をすり替えてしまったようですね。あなたがブリジット様を追放したのですよ。ブリジット様の御身は神殿が責任を持って保護致しますのでご安心下さい」
「お前の目的はそれだけか?」
「どういう意味でしょうか」
「個人的にブリジットをそばに置きたいんじゃないのか?」
「意味が分かりかねます」
するとリアムは酷く歪んだ顔で笑った。
「まだ認めないという訳だな。お前は俺と同類だ。他に妻を娶り、ブリジットは囲って愛妾にでもするつもりなんだろう? お前もブリジットを正妻にはしないという事だ!」
「私の事は構いませんが、ブリジット様を侮辱するのはお止め下さい。ブリジット様と私はそのような関係ではありません」
「このままでは済まさないからな! 必ずブリジットを返してもらう!」
ハイスは返事をせずに小窓を閉めた。
「……哀れな。ブリジット様は物ではないというのに。一度失ってもまだ分からないのか」
「殿下! このまま神殿に踏み込みましょう!」
オーエンは足早に進んでいくリアムの前に躍り出た。しかし肩を掴まれて横に飛ばされる。それでも後ろから叫んだ。
「このままでは神官長に全てを奪われてしまいます!」
進んでいた足が止まる。そしてゆっくり振り返った。
「どういう意味だ?」
「ハイス・リンドブルムは公爵家を継ぎ、神官長の座にも就きました。それだけでも今回のように殿下が引き下がらざる負えない程の権力を手にしているのです。そこへきて聖女様があの者の手に落ちれば、権力は更に大きくリンドブルム公爵家に傾くでしょう」
「ブリジットはもうとっくに聖女の役割を負えている。手に入れた所で政治的にはなんの価値もない」
「本当にそうでしょうか。国民は今もなお聖女の安否を気にしておりますし、殿下が聖女を追放したという噂はいまだ燻っております。そんな時に神殿が聖女を保護したと知れば、あの男の評価がどれほど上がるのか」
「もういい! お前も言葉を慎め。分かったな?」
「……かしこまりました」
リアムが馬車に乗り込んで暫くすると車体は揺れて右に大きく逸れた。近くで馬の嘶く声が上がっている。リアムは腰の剣に手を伸ばしながら窓を開けた。
「どうした」
「申し訳ございません! 前から王城の馬車が来たものですから、驚いた御者が制御を誤ったようです」
隣りに並走してきた騎士は少し先を指差して言った。窓を開けて外を見る。確かに少し先に王家の紋章が入った馬車が向かい合うようにして止まっていた。
「誰が乗っているんだ?」
確認に向かっていた騎士が戻ってくる。そして少し言いにくそうに報告してきた。
「馬車にはマチアス殿下が乗っておられました」
「マチアスが?」
「はい。後はリリアンヌ様がおられました」
「リリアンヌだと?」
リアムは馬車を飛び出すと向かい合っている馬車の扉を勢いよく開いた。
「兄様、偶然ですね」
「これはどういう事だマチアス」
馬車の中にいたのはマチアスとリリアンヌ、そして侍女が一人。特に侍女は驚いたように固まったまま動かなかった。
「リアム様、リアム様! リアム様お会いしたかったです!」
飛びついてきたリリアンヌはリアムに飛びつくやいなや腰にしがみついてきた。
「やめろ、離れろ! マチアス!」
はいはいと言いながらマチアスはリリアンヌを引き離していく。それでも腕を伸ばしてくるリリアンヌから距離を取る為にリアムは馬車から離れた。
「説明しろ」
「兄様の許可は取っておりますよ。お忘れですか? リリアンヌ様を王城に連れ戻す事をご納得くださいましたよね?」
「あれは勝手にしろと……」
「ですからこのようにしてお連れしたのです。明るい内だと目立つかと思い夕暮れ時にしたのですが、奇遇ですね。この方向ですと神殿に行かれていたのですか?」
「……ブリジットが帰って来た」
「聖女様がですか? 生きてらしたんですね!」
その瞬間、リリアンヌは信じられない程の悲鳴を上げて身を丸くした。がたがたと震え、耳を塞いでいる異様な姿にリアムは引いたまま見つめていた。
「大丈夫ですよリリアンヌ様。マリーが付いておりますのでご安心ください」
「嫌よ、もう嫌。嫌なのよ!」
「すみませんが兄様はもう行って頂けますか? 早急に城に戻りたいと思います」
リアムはマチアスに言われるまま更に後ろに下がって扉を閉めると、馬車はゆっくりと進んでいく。そして片手で顔を覆った。
「あれ程まで酷いとは」
リアムは馬車には戻らず、騎士から馬を奪うと無心で馬を走らせた。
勢い任せで辿り着いたのは、城に着くなりマチアスがリリアンヌを連れて入って行ったという塔だった。
「……マチアスは何を考えているんだ」
見上げた塔には嫌な思い出しかない。かつてマチアスの母親が長年に渡り閉じ込められていた塔。そして八年前には自分がブリジットを閉じ込めていた。久し振りの訪問に緊張したまま薄暗い階段を登っていく。人払いしているのか、使用人は誰もいない。部屋があるのは最上階だけで、人が暮らせる部屋と物置代わりになる小部屋の二つだけ。部屋に近づくに連れ、ふと耳に届いた声に足を止めた。漏れ聞こえる声は聞き覚えのあるもので、一気に汗が吹き出した。心臓が信じられない程に激しく鳴り、それでも足を進めずにはいられなかった。
最上階、閉まった扉に手をかける。僅かに扉が開いた瞬間、くぐもっていた声は鮮明になり、耳に届いた。
「もっと、もっとしてぇ、リアムさまぁ!」
自分の名前を呼ばれている事にも身の毛がよだったが、それ以上に目に映った光景に息が止まった。小さな蝋燭に照らされた薄暗い部屋の中で、マチアスの上で狂ったように腰を振り続けるリリアンヌの姿に目眩を覚える。そしてふらついた視線に入ったのは、物置の小部屋で息を殺していた侍女だった。
侍女は怯えていた。自ら口を塞ぎ、首を振っている。リアムは無言のまま侍女の手首を掴むと階段を駆け下りた。外に飛び出して思い切り息を吸うと、いつから息を止めていたのかと思う程体中に血が巡り、気がつくと肩で息をしていた。
「申し訳ございません、申し訳ございません!」
「それは何に謝っているんだ。主人の情事に聞き耳を立てていた事か? それとも不貞を知りながら夫である私に報告をしなかった事か?」
侍女は怯えて首を振ったまま涙を流していた。
「いつからだ」
「え……」
「あの二人の関係はいつからだと聞いているんだ!」
「分かりません。本当です! 誓ってご報告を怠った訳ではなく、リリアンヌ様もずっと殿下を裏切っていた訳ではありません! 今日はたまたま……」
「たまたま不貞をしたと?」
侍女は押し黙ったまま俯いた。
「あの様子では今日が初めてではない。お前は今後それを探って私に報告しろ」
「お許し下さい! 探るなど恐れ多くて出来ません、どうかお許し下さいませ!」
「私の命令に逆らうのか? 今ここでリリアンヌの不貞を暴いてもいいのだぞ? そうなればローレン家も、それに連なる一族がどうなるかも分かるな?」
侍女はそのまま地面へと座り込んだ。
「お前、名は何という」
「マリーと申します」
「いい報告を期待しているぞ、マリー。もし成果が上げられない場合にはリリアンヌを捕らえる」
「……長年リリアンヌ様にお仕えしておりますが、本当にこのような事はお初めてなのです」
「それならマチアスが誘ったというのか?」
マリーの顔からみるみる表情が消えていく。そして項垂れたように首を振った。
「申し訳ございません。出来る限りお調べしてご報告致します」
「それからお前はこちらに来い」
辺りを見渡したリアムはマリーの腕を掴むと林の中へと入っていく。マリーは息を飲みながら足に力を入れた。
「どこへ行かれるのですか? お側を離れてはリリアンヌ様がお探しになられます!」
「あの様子ではまだまだ終わらない。あれは上になってからが長いからな」
「ですがおそばに控えていなくては……」
奥まった場所に行くと、マリーの背中を木に付かせた。
「お前結婚はしているか?」
「まだ、しておりませんが……」
「あれの世話役になったのであれば結婚は無理だろうな。どうだ、私の子種をやろうか?」
「……め、滅相もございません! これはリリアンヌ様への裏切りです。どうかお許しください」
リアムの大きな手がブラウスに伸びる。釦を外しかけて止まると薄闇の中で小さく笑った。
「私の手付きになればそれなりの報酬が手に入るぞ。ローレン家の使用人を辞めても十分に生きていける。それこそずっと独り身ならば店でも構えたらどうだ?」
「……店を? どんな、店です?」
「好きな事をすればいい」
「私が店を経営出来るのですか?」
リアムの手がブラウスに掛かった。
「私は無理やりは好きではないんだ。どうしたらいいかは分かるな?」
最後は耳に唇を寄せて囁いた。耳朶に少し乾いた唇が落とされていく。口づけの音が鼓膜を震わせる。そして唇が首に落ちてくると、マリーは身体を震わせた。
「あまり時間はない。決めるのはお前自身だ、マリー」
マリーは躊躇ってからゆっくりと腰を落としていく。そしてしゃがむと、リアムのスラックスに手を掛けた。
「いい子だ、私は利口な娘は好きなんだ」
「……兄様も懲りないな。僕としては好都合だけれどね。精々立派な欲望を育てて下さいね」
マチアスは暗い林の奥を見つめながら、楽しそうに塔から離れていった。
「戦いに行く訳ではないぞ」
「分かっております」
それでも後を付いてくる姿に口元を上げながら、物々しい空気に包まれた廊下を急いだ。
ハイスを先頭にした集団が神殿の門に辿り着くと、門の向こう側からは開門を要求する王城の騎士の声が響いていた。門番達は松明を上げてハイスの姿を認めると安堵を滲ませた。
「門の向こう側にリアム殿下がいらしております」
門は言いつけ通りにぴたりと閉められている。急遽、門を閉めたが為に帰れなくなった使用人達もいるだろうが、火急の場合には持たせている金の使用許可を出しているので、街の宿へ泊まるなり出来るだろう。それに最悪金がなくても神殿の者だと言えば民家や食事処が数日は面倒見てくれるはず。かといって申し訳無さがない訳ではないが、今はこの扉の向こう側にいる者を通す訳にはいかなかった。
「どれくらい外に出ているんだ?」
「食材の買い出しに出ていた使用人が四人馬車で出ております。あとは若い神官二人が少し離れた神殿に遣いに行っていますが、今日戻るかは分かりません」
「そうか。して殿下はなんと言っている?」
その時だった。一際大きな声が門の向こう側から聞こえてきた。
「これ以上門を閉ざすのであれば、神殿に謀反の疑いありと陛下にご報告申し上げるがよろしいか?」
ハイスは門に付いている小窓を開けた。窓の向こうは現れたハイスの姿に皆動きと止めたようだった。
「やっとお出ましですか、神官長殿」
門の前で高らかに声を上げていたのは騎士団副隊長のオーエン。オーエンは侯爵家の嫡男でもありかなり野心家な男だった。年の割に似合わない髭を蓄えているのも、虚勢を張りたいだけなのだろうと思うと少し滑稽に見えてくる。ハイスを視線に捉えるなり、オーエンは前に出た。リアムは後ろでじっと黙ったまま事の成り行きを見守っているようだった。
「神殿の扉は誰にでも開かれているべきではないですか? これは一体どういう事なのかご説明頂きたい!」
「その神殿にそのような大人数で武装して来られては致し方ないというもの。そちらこそ神殿に攻め入るおつもりか?」
「我らは騎士ですぞ! まさか剣を置いてこいと仰るのですか!」
「ここは神殿なので剣は不要。必要なのは祈りのみだ。して、本日はどのようなご用件で? ああ失礼。どなたでもお越し頂いて構わないのだが、とても祈りに来たようには見えなかったもので」
すると怒鳴りだそうとしたオーエンの肩を押さえてリアムが一歩前に出た。
「無駄な言葉の応酬をする気はない。単刀直入に聞くが、ブリジットが戻ったというのは本当か?」
リアムの顔色は悪い。もちろん松明に浮かび上がった顔なので顔色までは分からないが、痩けた頬がそれを物語っていた。
「本当ですが、それが何か?」
「……それが何かだと? 聖女が戻ったのにそれを隠すなど、捕らえられたいのか!」
「お言葉ですが、八年前にブリジット様を国から追い出そうとしたお方のお言葉とは思えません。もちろんその後に殿下がブリジット様を捜索されていたのは存じ上げておりますが、聖女のお役目を果たされたブリジット様は今はもう聖女ではございません。よってご報告する義務はないと存じます」
「貴様ッ! ここを開けろ! さもなければ本当に捕らえるぞ!」
ハイスは深い溜息をついて首を振った。
「何故そこまでしてブリジット様にお会いになりたいのです? 身の安全は私どもが保証致しますし、心配しておりましたがとてもお元気そうです。きっとこの八年間お心安らかにお過ごしだったのでしょう」
「元気そうだと? 私を見捨てておいて元気だったというのか」
「八年間の間に都合の悪い記憶をすり替えてしまったようですね。あなたがブリジット様を追放したのですよ。ブリジット様の御身は神殿が責任を持って保護致しますのでご安心下さい」
「お前の目的はそれだけか?」
「どういう意味でしょうか」
「個人的にブリジットをそばに置きたいんじゃないのか?」
「意味が分かりかねます」
するとリアムは酷く歪んだ顔で笑った。
「まだ認めないという訳だな。お前は俺と同類だ。他に妻を娶り、ブリジットは囲って愛妾にでもするつもりなんだろう? お前もブリジットを正妻にはしないという事だ!」
「私の事は構いませんが、ブリジット様を侮辱するのはお止め下さい。ブリジット様と私はそのような関係ではありません」
「このままでは済まさないからな! 必ずブリジットを返してもらう!」
ハイスは返事をせずに小窓を閉めた。
「……哀れな。ブリジット様は物ではないというのに。一度失ってもまだ分からないのか」
「殿下! このまま神殿に踏み込みましょう!」
オーエンは足早に進んでいくリアムの前に躍り出た。しかし肩を掴まれて横に飛ばされる。それでも後ろから叫んだ。
「このままでは神官長に全てを奪われてしまいます!」
進んでいた足が止まる。そしてゆっくり振り返った。
「どういう意味だ?」
「ハイス・リンドブルムは公爵家を継ぎ、神官長の座にも就きました。それだけでも今回のように殿下が引き下がらざる負えない程の権力を手にしているのです。そこへきて聖女様があの者の手に落ちれば、権力は更に大きくリンドブルム公爵家に傾くでしょう」
「ブリジットはもうとっくに聖女の役割を負えている。手に入れた所で政治的にはなんの価値もない」
「本当にそうでしょうか。国民は今もなお聖女の安否を気にしておりますし、殿下が聖女を追放したという噂はいまだ燻っております。そんな時に神殿が聖女を保護したと知れば、あの男の評価がどれほど上がるのか」
「もういい! お前も言葉を慎め。分かったな?」
「……かしこまりました」
リアムが馬車に乗り込んで暫くすると車体は揺れて右に大きく逸れた。近くで馬の嘶く声が上がっている。リアムは腰の剣に手を伸ばしながら窓を開けた。
「どうした」
「申し訳ございません! 前から王城の馬車が来たものですから、驚いた御者が制御を誤ったようです」
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「誰が乗っているんだ?」
確認に向かっていた騎士が戻ってくる。そして少し言いにくそうに報告してきた。
「馬車にはマチアス殿下が乗っておられました」
「マチアスが?」
「はい。後はリリアンヌ様がおられました」
「リリアンヌだと?」
リアムは馬車を飛び出すと向かい合っている馬車の扉を勢いよく開いた。
「兄様、偶然ですね」
「これはどういう事だマチアス」
馬車の中にいたのはマチアスとリリアンヌ、そして侍女が一人。特に侍女は驚いたように固まったまま動かなかった。
「リアム様、リアム様! リアム様お会いしたかったです!」
飛びついてきたリリアンヌはリアムに飛びつくやいなや腰にしがみついてきた。
「やめろ、離れろ! マチアス!」
はいはいと言いながらマチアスはリリアンヌを引き離していく。それでも腕を伸ばしてくるリリアンヌから距離を取る為にリアムは馬車から離れた。
「説明しろ」
「兄様の許可は取っておりますよ。お忘れですか? リリアンヌ様を王城に連れ戻す事をご納得くださいましたよね?」
「あれは勝手にしろと……」
「ですからこのようにしてお連れしたのです。明るい内だと目立つかと思い夕暮れ時にしたのですが、奇遇ですね。この方向ですと神殿に行かれていたのですか?」
「……ブリジットが帰って来た」
「聖女様がですか? 生きてらしたんですね!」
その瞬間、リリアンヌは信じられない程の悲鳴を上げて身を丸くした。がたがたと震え、耳を塞いでいる異様な姿にリアムは引いたまま見つめていた。
「大丈夫ですよリリアンヌ様。マリーが付いておりますのでご安心ください」
「嫌よ、もう嫌。嫌なのよ!」
「すみませんが兄様はもう行って頂けますか? 早急に城に戻りたいと思います」
リアムはマチアスに言われるまま更に後ろに下がって扉を閉めると、馬車はゆっくりと進んでいく。そして片手で顔を覆った。
「あれ程まで酷いとは」
リアムは馬車には戻らず、騎士から馬を奪うと無心で馬を走らせた。
勢い任せで辿り着いたのは、城に着くなりマチアスがリリアンヌを連れて入って行ったという塔だった。
「……マチアスは何を考えているんだ」
見上げた塔には嫌な思い出しかない。かつてマチアスの母親が長年に渡り閉じ込められていた塔。そして八年前には自分がブリジットを閉じ込めていた。久し振りの訪問に緊張したまま薄暗い階段を登っていく。人払いしているのか、使用人は誰もいない。部屋があるのは最上階だけで、人が暮らせる部屋と物置代わりになる小部屋の二つだけ。部屋に近づくに連れ、ふと耳に届いた声に足を止めた。漏れ聞こえる声は聞き覚えのあるもので、一気に汗が吹き出した。心臓が信じられない程に激しく鳴り、それでも足を進めずにはいられなかった。
最上階、閉まった扉に手をかける。僅かに扉が開いた瞬間、くぐもっていた声は鮮明になり、耳に届いた。
「もっと、もっとしてぇ、リアムさまぁ!」
自分の名前を呼ばれている事にも身の毛がよだったが、それ以上に目に映った光景に息が止まった。小さな蝋燭に照らされた薄暗い部屋の中で、マチアスの上で狂ったように腰を振り続けるリリアンヌの姿に目眩を覚える。そしてふらついた視線に入ったのは、物置の小部屋で息を殺していた侍女だった。
侍女は怯えていた。自ら口を塞ぎ、首を振っている。リアムは無言のまま侍女の手首を掴むと階段を駆け下りた。外に飛び出して思い切り息を吸うと、いつから息を止めていたのかと思う程体中に血が巡り、気がつくと肩で息をしていた。
「申し訳ございません、申し訳ございません!」
「それは何に謝っているんだ。主人の情事に聞き耳を立てていた事か? それとも不貞を知りながら夫である私に報告をしなかった事か?」
侍女は怯えて首を振ったまま涙を流していた。
「いつからだ」
「え……」
「あの二人の関係はいつからだと聞いているんだ!」
「分かりません。本当です! 誓ってご報告を怠った訳ではなく、リリアンヌ様もずっと殿下を裏切っていた訳ではありません! 今日はたまたま……」
「たまたま不貞をしたと?」
侍女は押し黙ったまま俯いた。
「あの様子では今日が初めてではない。お前は今後それを探って私に報告しろ」
「お許し下さい! 探るなど恐れ多くて出来ません、どうかお許し下さいませ!」
「私の命令に逆らうのか? 今ここでリリアンヌの不貞を暴いてもいいのだぞ? そうなればローレン家も、それに連なる一族がどうなるかも分かるな?」
侍女はそのまま地面へと座り込んだ。
「お前、名は何という」
「マリーと申します」
「いい報告を期待しているぞ、マリー。もし成果が上げられない場合にはリリアンヌを捕らえる」
「……長年リリアンヌ様にお仕えしておりますが、本当にこのような事はお初めてなのです」
「それならマチアスが誘ったというのか?」
マリーの顔からみるみる表情が消えていく。そして項垂れたように首を振った。
「申し訳ございません。出来る限りお調べしてご報告致します」
「それからお前はこちらに来い」
辺りを見渡したリアムはマリーの腕を掴むと林の中へと入っていく。マリーは息を飲みながら足に力を入れた。
「どこへ行かれるのですか? お側を離れてはリリアンヌ様がお探しになられます!」
「あの様子ではまだまだ終わらない。あれは上になってからが長いからな」
「ですがおそばに控えていなくては……」
奥まった場所に行くと、マリーの背中を木に付かせた。
「お前結婚はしているか?」
「まだ、しておりませんが……」
「あれの世話役になったのであれば結婚は無理だろうな。どうだ、私の子種をやろうか?」
「……め、滅相もございません! これはリリアンヌ様への裏切りです。どうかお許しください」
リアムの大きな手がブラウスに伸びる。釦を外しかけて止まると薄闇の中で小さく笑った。
「私の手付きになればそれなりの報酬が手に入るぞ。ローレン家の使用人を辞めても十分に生きていける。それこそずっと独り身ならば店でも構えたらどうだ?」
「……店を? どんな、店です?」
「好きな事をすればいい」
「私が店を経営出来るのですか?」
リアムの手がブラウスに掛かった。
「私は無理やりは好きではないんだ。どうしたらいいかは分かるな?」
最後は耳に唇を寄せて囁いた。耳朶に少し乾いた唇が落とされていく。口づけの音が鼓膜を震わせる。そして唇が首に落ちてくると、マリーは身体を震わせた。
「あまり時間はない。決めるのはお前自身だ、マリー」
マリーは躊躇ってからゆっくりと腰を落としていく。そしてしゃがむと、リアムのスラックスに手を掛けた。
「いい子だ、私は利口な娘は好きなんだ」
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