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1ー10 迫る敵の影

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 馬車の中でエーリカは思い切ってクラウスの横に座る事にした。はしたないかと思ったが、クラウスは少し驚いただけで何も言わない。その代わりクラウスの手が膝に置いていた手をすっぽりと握ってきた。衝撃のあまりクラウスの手に収まっている自分の手を見つめていると、もう片方の手を伸ばして頬に触れてくる。甘い表情が眩しくて、頭が沸騰しそうなまま見つめ合っていると、首が傾けられた。無意識に目を閉じたその時、馬車の音とは違う激しい馬の足音が近付いてきた。急に止まった馬車の弾みで、前に浮いた体をクラウスが抱き止めてくれなければ向こう側に激突しているところだった。窓を開けたクラウスが怒気を含んだ声を上げた。

「何事だ!」
「殿下! 国境付近でヴィルヘルミナ帝国と戦闘が起きております!」
「場所は?」
「南西のホフマン辺境伯の領地です! 領地の端のようでホフマン家の軍も手薄だったらしく、領民と僅かな軍で食い止めているようです!」
「なぜそんな場所を」
「すでに兵団が動いています。騎士団は出さないとフェンゼン隊長のご指示が出ております」
「そうだろうな。俺が行く。エーリカ嬢、すまないがこのまま馬車で王城にお戻り頂きたい」

 エーリカは強く首を振った。

「私も行きます。相手はヴィルヘルミナ帝国なのですから用心に越したことはないでしょう?」
「戦場だぞ」
「お忘れですか? 私は結界魔術師です。この国の為にお使いください」
「殿下、魔術師様がご一緒なのは心強いですよ。今から魔術団に派遣を要請していては間に合いません。規模が分からない以上派遣してくれるかも分からないですし」

 クラウスは一瞬迷ってから、きつく手を取った。

「後方支援のみをお願いしたい」

 エーリカは頷くと、クラウスと二人で馬に乗った。



 日没近くに辿り着いた町では、すでにあちこちから煙が上がっていた。ヴィルヘルミナ帝国の兵は引いたのか姿はない。しかし賑やかな憩いの場であるはずの広場は幾つも死体が転がり、血と肉の焼ける臭いが充満していた。

「誰かいないか! 報告しろ!」

 辺境伯のホフマンは、マントをはためかせながら敵兵が転がる門の近くに立っていた。敵も味方も乱れて倒れている。ただのいざこざではない、思ったよりも酷い惨状にクラウスは顔を顰めた。
 クラウスの馬に女が乗っている事に気が付いたホフマンは、馬に乗るとひと駆けで近づくと、苛立ちを隠さずにじろりと見下してきた。
 エーリカはそんな風に向けられる視線には慣れている。戦場は男の場所。戦いに駆り出される時は常に、異物のように向けられる視線を受け止めながら戦ってきた。しかし今はそれよりも気になるものがある。クラウスの背から腕を外すと馬を降りた。

「エーリカ嬢! どこに行く気だ! まだ残党がいるかもしれない!」

ーーこの先に魔力の塊がある。

 ここにいる誰もがそれに気付いていない。真横に恐ろしい兵器があるというのに、ヴィルヘルミナの敵兵がいなくなった事で、もう戦闘は終わった事になっていた。巨大な禍々しい力に怯みそうになるが、確かめない訳にはいかなかった。敵兵など目くらましに過ぎないと、粟立つ肌が告げている。壊れた広場の奥に隠れている悪意の塊を見据えながら体が震えてた。

『いるぜ、この先だ』
「クマ! なんでここにいるの?」 
『オルフェンがついていけって』
「師匠は?」
『まだ寝てる』
「まだ寝ているの?」
『あいつも大変なんだぞ。そんな事より来る!』

 蹲るように丸まっていたその禍々しい悪意の魔術は、一気に牙を向いた。とっさに張った結界では守りきれず、数名の呻き声がすぐにそばで聞こえる。棘のように飛ばされた魔術は、幾人かの体を通過していた。

「なんの魔術なの? 防ぎきれないなんて!」

 無意識に震える手を抑え込みながら叫んだ。

『こりゃ、まずいな』
「まずいってなに? クマには分かるの?」
『こりゃ太古の魔術だ。火も水も土も金も分かれる前のごちゃまぜの力さ!』
「なんでこんな所にそんなものあるのよ!」
『また来るぞ!』
「エーリカ! 戻れ!」

 それぞれの怒鳴る声が入り乱れる。とっさに振り返るとクラウスがこちらに駆け出してた。禍々しい塊は再びうごめき始める。このままではクラウスも巻き込まれてしまう。

「クマ! 力は?」
『あるけど?』
「使って!」

 エーリカはとっさに攻撃と防御の混ざった滅茶苦茶なマークを宙に描くと掌をかざした。片手だけでは足りない。両手で抑え込んだ。その掌を包むように飛び上がったクマの手が重なる。クマはエーリカの手の上で巨大な熊となり雄叫びを上げた。禍々しい悪意は重たく動くと、嘘のように弾け飛んで消えた。

「消えたの?」

 その瞬間、後から勢いよく抱き締められる。苦しくて息が出来ないが、逃れる事はしなかった。恐怖で震えていた身体が徐々に治まっていくのを感じながら、その力強さに安堵していた。

「殿下、もしやそのお方は魔術師様でしょうか?」

 クラウスは腕の中にエーリカをしまいながら、態度を変えたホフマンを睨みつけた。

「何があったのか報告が先だ」
「あの、クラウス様? 出来れば腕をお外しください。そろそろ息が……」

 クラウスは渋々腕を外したが、その代わり腕を腰にずらし、しっかりと押さえてきた。

 遠くから砂煙が上がる。兵士達は一斉に剣を抜いたが、味方の兵団だと分かると安堵の声を上げた。ホフマンは自分の軍と王都から来た兵団の兵士に細かく指示をすると、場所を移動して短く白い髭を撫でながら唸った。

「正直に申し上げまして、何が起きたのか分からないのです。確かにヴィルヘルミナ帝国の兵士達が進軍してきたらしいのですが、奴らは国境を越えず手を出しては来なかったそうです。すると急に盗賊らしきならず者達が現れ、町に火の手が上がり、どこからともなく敵味方関係なく先程のように何かに体を貫かれました。貫かれたヴィルヘルミナ帝国の兵士の一部は、こちらに近かった位置にいた者達だったと報告を受けています」

 エーリカは一瞬クマを見たが、静かに首を振った。

ーー言うなというのね。

「魔術師様は何か感じ取られたのでは?」
「魔術の残穢がありました。魔術師がいたのか、力だけ残して行ったのかは分かりません」
「わざわざこんな辺鄙な場所に来るとは妙ですな。魔術師様、改めて感謝申し上げます。あなた様のお陰で助かりました」
「私では守りきれませんでした。怪我をした人達がおりますから」

 魔術に体を貫かれたのだ。軽症な訳がない。それでもホフマンはさっきとは打って変わった表情で微笑んだ。

「もう指示を出してあるので大丈夫ですよ。ところで、ご紹介頂けますかな? クラウス殿下」

 がっちりと腰を掴まれたままである事を思い出し、急に顔が熱くなる。身を捩ってクラウスを見上げると、少し不満そうに腕が離された。

「婚約者のエーリカ・ルートアメジストだ。エーリカ嬢、こちらは辺境伯のホフマン殿だ」

 エーリカはスカートの端を摘むと礼を取った。

「ルートアメジストと言う事は、やはり結界魔術師様でしたか。まさかこんな辺境の地でお目にかかれるとは思いもしませんでした。そうですか、そうするとあなた様があの時の……」
「ホフマン殿! 我々は王城へ戻り、陛下にご報告申し上げる。兵団を残していくから使え」
「ありがとうございます。詳細が分かりましたらこちらからもご報告致します」

 まだ火は燻っている。人のうめき声や瓦礫を避ける音もあちこちでする。クマがくいっとスカートの裾を引っ張った。

『やめておけ』

 しかしエーリカは周りから離れて息を整えた。掴んでくるクラウスの腕を外すと微笑む。訝しがりながらも腕を外してくれたクラウスに向かい、安心させるようにもう一度微笑んだ。誰もいない拓けた場所に立つと、空に向かって守護と癒やしを意味する文字とマークを描いた。自分の中から癒やしと守護の力を引っ張り出す。いつも使うその力はすぐに見つかり、飛び出してきた。掌が熱くなり空へと散って、町を覆うようにして広がっていく。すると呻いていた声が僅かに変化した。クラウスは堪らずにエーリカの腕を掴んだ。

「クラウス様、守護と癒やしの魔術を掛けました。気休めかもしれませんが鎮火を早め、怪我の悪化を防げるはずです」
「エーリカ嬢のした事だ、きっと効果はあるのだろう」

 クラウスは短く言うと、エーリカを騎士団の馬車に押し込んだ。

「王城へ戻る!」

 短く言うと扉を閉め、カーテンも下ろしてしまった。これでは中で何をしているのか怪しまれてしまう。しかしクラウスの気迫に負けて何も言えなくなってしまった。馬は嘶きを上げて馬車は動き出す。クラウスは乱暴に剣を外すと、顔を覆って息を吐いた。

「怪我はないか? 一人で結界魔術を使って疲労は?」

 何事かと息を潜めていると、顔を覆っていた手が外れ、薄青色の鋭い瞳に捉えられた。

ーーもしかして、怒ってらっしゃる?

 狭い馬車の中で端に寄ると、クラウスが真横に座り直し抱き締めてきた。声が出せない。狭くて身動きが取れない。思わずクラウスの服を握り締めると、抱き締める力は更に強くなった。

「怪我も、魔術による疲労もありません」
「後方支援をするようにと言ったはずだが」
「申し訳ありません。先程は申し上げませんでしたが、あそこには太古の魔術がありました。とても恐ろしく危険なものです」
「……太古の魔術? そんなものがあるのか?」

 僅かに腕が緩む。しかし緩んだ事でクラウスの顔が耳の近くにくる。低い声がぞくりと背中を這った。

「私も詳しくは分かりませんが、クマがそう言っていました」
「クマ?」
「私の近くにいたでしょう? 中型犬程の魔獣です。見た目は熊の様なのでクマと呼んでいました」
「何も見えなかった」
「そう、ですか」

 確かにクマは姿を自在に見えたり見えなかったりする事が出来るらしい。現に今はエーリカにも見えなかった。

「見えない魔獣に太古の魔術か。俺の知らない事ばかりだな。君をそんな危険なものと戦わせていたなんて」
「危険だなんてそんな。私は魔術師ですし、師匠が私の為にクマを……」

 その時、口に柔らかいものが押し当てられた。それが少しカサついた冷たいそれが唇だと分かり、驚いて離れようとした体に回っていた腕の力が更に強まった。声を上げようとして開いた唇を押し分けて、熱く温かい物が滑り込んできた。最初は遠慮がちに先を絡めてきた舌は、苦しさで漏れた吐息に反応するように更に奥へと押し入ってきた。上顎を擦り、舌を深く舐め上げ、唾液の混ざる水音がする。こんな卑猥な音を自分が立てているのかと思うと恥ずかしくて堪らなかった。目に涙が溢れてくる。ようやく離されたクラウスの唇は糸を引き、ぺろりと唇を舐められた。ここまでくれば疎いエーリカでも、クラウスが自分に欲情しているのが分かる。息が上がり、力なく硬い胸を押した。

「こうするのは嫌か?」
「……っ、嫌ではありませんが、恥ずかしいです」
「誰かとこうした事はある?」

 するりと頬を撫でる感覚に息が漏れる。クラウスはその呼吸を飲み込むように更に唇を重ねてきた。

「答えて」
「あるわけ、ないです」

 やっとの思いで答えると、クラウスはふっと微笑んだ。その笑顔が思いのほか幼く見えて、心臓に甘い痛みが走った。思わず胸に顔を預ける。長い指が髪を梳いて絡めて、頭を撫でてきた。

「エーリカの髪は柔らかいな。それにいい匂いがする」
「名前……」
「駄目か?」

 返事の代わりに首を振ると、髪に顔を埋められる。とっさに肩を押した。不満そうに眉を顰めるクラウスから目を逸らし髪を押さえつけた。

「嗅いだらいけません。汗をかいてますから」
「構わない」
「駄目です!」
「どうしても? 俺に触れられるのはやはり嫌か?」
「触れられるのが嫌なのではなく、嗅がれるのが嫌です」

 すると再び腕の中に収められた。

「こんなにいい匂いがするのに嗅ぐなと言う方が無理だ」 

 縋るように抱き締められたらもう何も言えない。胸元に甘えてくる頭を抱き締めた。



 荒涼とした大地の上で白い軍馬が一頭、踵を返した。後ろに控えるのは、千を超える兵士達が無音のまま控えている。誰も会話をせず、ただじっと風が砂を巻き上げ、吹き抜ける音だけが辺りを支配していた。

「帰るぞ」

 ヘルムートはゆっくりと馬を歩かせ、少しだけ今向いていた方向を振り返った。

「撤退!」

 マーガーヴォルフ騎士団長のミュラーの野太い声が響き渡ると、兵士達が身に付けている甲冑の無機質な音が鳴り出す。ミュラーはヘルムートの少し後ろにつくと横顔を見て、笑った。

「楽しそうですね」
「オルフェンを引っ張り出すつもりだったが、面白いものが釣れた。やはりお前の言う通り友好の条約もいいかもしれん。どちらに転んでも我が国には得しかないようだ」
「その価値があると?」
「負け戦はしない主義だからな」
「承知してますよ」

 ヘルムートは前屈みになると、枯れた大地を疾走した。
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