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2ー10 エーリカの帰還①

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 王の執務室の中にはクラウスとフランツィス、ユリウス、そしてルドルフが向かい合うように座っていた。

「以上が取り急ぎの報告ですが、現在細かい調書を作成中ですので追ってご報告致します」

 クラウスは口元を押さえていた手を離すとソファの背もたれに寄り掛かった。

「ご苦労だった。王都に近い町というのが驚きだが、早急に国の内部にも巡回の兵を増やさなくてはいけないようだな。しかしそれだと兵の数が足りないから、各領地と連携してくれ」
「その様に手配致します」
「ヴィルヘルミナ帝国の差し金だと思うか? 兵の力を国内に向けさせ国境の警備を薄くさせた所で、攻め入って来るかもしれない」
「その可能性も考慮していた方がいいいでしょうね。しかしユリウス殿、捕らえた者達の尋問は済んでいるのですよね? 町は運悪く野盗達に狙われただけとは思いませんか?」

 フランツィスの言葉を受けたユリウスは唸りながら腕組をした。

「捕らえた者達は国境を超えて流れ込んできた難民が、食うに困って野盗となったと証言しています。ただ、それ以外に話を聞きたい者がいるのですが、現在治療中なので意識が戻り次第聴取致します」
「重症なのか?」
「町の女を襲った奴なのですが、襲った女の夫に陰茎部を切り落とされたそうです。死んでいた者達もいましたが、女達を襲った者達だけ身なりが野盗達とは違うように見受けられました。なんとか目を覚まして話を聞ける状態になれば、何か違う情報が分かるかもしれません。それまでは警備を厳重にする、それしかありませんな」

 ユリウスは一気に話すと一同を見渡した。男達は皆一同に顔を顰めて下肢辺りに手を当てていた。咳払いすると皆我に返ったように手を離す。それでも苦い顔は直らなかった。

「それにしてもそんな所を斬るとは随分器用な事をしてのけたな。人々で取り押さえたのだろうか」
「いや、それについては私も少し気になる点があるのです。野盗達を殺したのはその夫と友人のたった二人だそうで、それはもう鮮やかな斬り口でした」
「町の自警団だろうか?」

 ユリウスは言いにくそうにちらりとルドルフを見て、浅く座り直した。

「その被害に遭った女の夫とは、マッテオ・ベルガーです。訓練は受けていたので納得と言えば納得ですが」

 机を叩いたのはルドルフだった。

「落ち着け! マッテオも妻も無事だ」
「無事だと? 命があるから無事という訳ではないだろ!」
「報復はすでにマッテオ自身がしているんだ!」

 クラウスは感慨深い様に息をついた。

「俺も久しく会っていなかったな。確かマッテオは平民に身分を落とし、つつがなく暮らしていると思っていたが、今回は災難だったな」
「たまたま書記官として兄のシリルも同行していたので、すぐに会いに行っていたようです。マッテオの支援はベルガー家がするでしょう」
「王家も支援すると伝えてくれ」

 ユリウスは深く頭を下げた。

「ところでこの事をミラは知っているのか?」
「シリルはまだ知らせていないようです。更にシリルはまだミラが側室候補だと思っているようで、ベルガー男爵から側室の話がたち消えたと知らされていないようでした」

 クラウスは憤っているルドルフに視線を向けると顎で出口を示した。

「ルドルフ、ミラの所に行ってもいいぞ。もう報告は大体終わりだろう?」

 ユリウスも頷いたがルドルフは頑なに首を振った。

「私は結構です。それよりも陛下が行かれた方が宜しいかと」
「なぜ俺が? お前達にはすでに誰を正妃に迎えるか話していたつもりだったが」

 冷えた視線にルドルフは僅かに顔を下げた。

「……申し訳ありません。ですが今一度確認させて頂きたいのですが、もし万が一にもエーリカ様がお戻りになられなかったら、その時はどうなさるおつもりですか?」
「引き伸ばせる限り、エーリカが戻るまで待ち続ける。しかしそれでも戻らない時は王族の責務として側室を娶るつもりだ。でもそれはミラではない。この国の安全をより強固にしてくれるであろう高位貴族か、他国からだろう」
「承知致しました」

 その時、執務室の扉が叩かれた。

「誰も通すなと言っていたはずだぞ!」

 ユリウスの太い声に、護衛の騎士は緊張した手で僅かに扉を開いた。

「申し訳ございません。ですがアインホルン侯爵閣下に急ぎ使いの者が来ております」
「私に? 申し訳ございません陛下。少し失礼致します」
「今日はもういいぞ、とりあえず解散だ」

 フランツィスは足早に部屋を出ると、廊下の先で待っていたグレタに近付いた。走っては怪しまれると思っていても、いつもは付けていない胸元のリボンに“鼠”の合図を見た瞬間、鼓動は早くなっていた。

「何かあったのか?」
「申し訳ございません。ですがフランツ様が心待ちにしていた庭の花が咲きましたので、居ても立っても居られずご報告に参りました」

 フランツィスは一瞬言葉を失ってからすぐに眼鏡を押して頷いた。

「それは良かった。ずっと楽しみにしていたんだよ。すぐに帰ろう」

 フランツィスは馬車にグレタを押し込めると自身も乗った。扉を締めて馬車が動き出した瞬間、グレタの両肩を掴んで激しく揺さぶった。

「本当にエーリカが見つかったのか?」

 “鼠と猫”の会話は日常会話に隠して話す。特にグレタとは子供の頃から共に過ごしているので、決められた隠語でなくとも何を言おうとしてるのか互いに分かってしまうのだ。だからグレタが迎えに来たとも言えた。

「本当ですから離してください! 痛いですってば」

 グレタは勢いよくフランツィスの頬を押すと顔を背けた。

「今朝方偵察に出ていた“鼠”から連絡が入り、エーリカ様を発見し現在こちらにお連れしているとの事です」
「……生きていた。いや、生きていたのは分かっていたが、本当に無事だったのか。そうか」

 グレタは、気が抜けた様に座面からずるりと落ちる主の腕を思わず掴むと、長い腕が伸びて、すっぽりと腕の中に包まれた。身動きを取りたいのに動けない。フランツィスは小刻みに震えていた。
 フランツィスが妹を溺愛しているのは昔から近くで見ていて知っていた。あれだけ愛らしい妹なのだから愛さずにはいられないのはよく分かる。それでもこの兄妹愛を拗らせた兄は、妹を陰ながら見守る事に徹した結果、妹にぶつけられない衝動を時折こうして発散させる事があった。

「あの、いい加減に離してもらえませんか」
「本当に心配かけやがって。今まで一体どこでどうやって暮らしていたんだ!」
「あの、フランツ様? そういう事はご本人に伝えてくださいね?」

 しかしフランツィスの腕が緩まる事はない。泣いていないか恐る恐る顔を上げると、間近で目が合った。

「泣いてはいないぞ」
「そうですか。残念です」

 ようやく離れた腕から更に逃れる様に離れて座る。

「おい! もっと急いでくれ!」

 御者は返事するように小窓を叩くと馬車は速度が上がり、ぐんと体が引っ張られるように前に倒れた。

「気をつけろよ」

 とっさに出された意外と鍛えられている腕に捕まると、グレタの心臓は信じられない程に高鳴っていた。



 馬車を降りてからのフランツィスの動きは早かった。声を掛ける間もない程の勢いで玄関を開けると、片っ端から部屋を押し開いていく。何事かと集まり出す使用人達を押し退けてフランツィスの服の端を掴んだ。

「まだです、まだ到着していませんから!」

 息を切らしたフランツィスは落胆した様に壁に背をついた。

「先ほど馬車の中で申し上げましたよね? 今こちらに向かっていると」
「でも、もしかしたらもう着いているかと思ったんだ……」

 グレタは慰めようとしてそっと腕に触れかかけた時、外で馬車の近付く音がした。フランツィスは脱兎のごとく走り出すと玄関を飛び出した。

「これじゃあ嫉妬する気も起きないわね」

 庭を回るようにして進んできたのは、侯爵家には似つかわしくない荷台を繋いだ荷馬だった。御者は馬の目の前に走ってくるこの家の主に驚き手綱を引くと、馬はその場で足踏みをして止まった。フランツィスはしがみつくように後ろの荷台に乗り込むと、幾つも積んである箱にかけられた麻の布を勢いよく取り払った。
 エーリカは箱に囲まれるようにして座っていた。

「お兄様、お久しぶり」

 崩れる箱は気にも留めず、引き攣った顔の妹の腕を引いて立ち上がらせると、思い切り引き寄せた。ぐらついた体を支えるように抱き締める。何度も何度も確かめる様にきつく抱き締めた。

「お、おにい様、苦しい」
「我慢しろ! この馬鹿妹!」

 エーリカは兄の肩に顔を押し付けた。涙がじんわりと溢れてくる。思わず嗚咽が漏れそうになった時、不意に体は離された。

「そういえばお前、その髪はどうした?」

 すっかり馴染んでいた艶のない茶色の髪色も、フランツィスしてみれば初めて見るもので驚くのは無理もない。そういえば服もそんなに綺麗な訳ではないと思い出し、とっさに離れようとした時、両腕を掴んでいた力が更に強まった。

「お兄様、私ったら随分汚い格好よね。一度着替えさせてください」
「汚いのは構わないが、そんなに短く切ってしまってもったいない」

ーーそっちなの? 長さの問題なの?

 そういえば兄は幼い頃は長い髪をやたら触ってきていたのだ。なんとなく残念そうな兄の顔に、エーリカは思わず吹き出してしまった。

「長い髪がお好きならばグレタがいるでしょう」
「なぜグレタが出てくるんだ。それにグレタはいつもしっかり結っていてだな……」

 ごにょごにょと話し出す兄に笑い出すと、後ろから大層不機嫌な声が聞こえてきた。

「そろそろ出たいんだが? 兄妹ごっこはもういいか?」

 エーリカはすっかり置き去りにしていたヘルムートに手を伸ばした。しかしヘルムートは苛立ったようにその手を無視すると、空箱を蹴って下に飛び降りた。

「悪かったわよ。なに? お腹でも減ったの? ちゃんとご馳走するから少し待っててよ」

 エーリカも後を追って荷台に足を掛けると、フランツィスが支える前に、不機嫌そうに降りていたヘルムートが素早く腰を掴んで地面へと降ろした。

「……妹よ、そういえばその男は誰だ? 随分親しそうだが」
「フランツ様落ち着いてください。今はとにかく中に入りましょう。今ここで誰かに見られたら大変です!」

 グレタに引き摺られるようにして屋敷の中に入っていくフランツィスの後を追い、エーリカ達も足早に中へと入っていった。

 本当は汗を流したかったがこの状況で贅沢は言っていられない。とりあえず着替えを済ませてヘルムートと共に応接間に入ると、待ち構えていると思っていた両親はおらず、その代わりに怒りを湛え恐ろしい顔のフランツィスがソファに座っていた。
 ヘルムートは勝手に進むと煽るようにフランツィスの前に座る。もともとヘルムートの行動を制限出来る訳もなく、ただ確実に修羅場になるであろう状況に頭を抱えてふとフランツィスの後ろに控えるグレタに目をやると、申し訳無さそうに目を逸らされた。

ーーそうよね、グレタがお兄様に逆らえる訳がないわよね。

 諦めて近付くと、ヘルムートの隣りに座った。

「……なんでそちら側なんだ」

 呟くような小さな声が聞き取れなくて眉を顰めると、フランツィスは思い切り睨みつけてきた。

「なぜそいつの隣に座る? というかそいつは誰なんだ! ずっとそいつと暮らしていたのか? 何者かに連れ去られたと思っていたが俺の勘違いか? お前は怪我をしていたと報告を受けてどれだけ心配していたか分かっているのか!」

 一気に話し、肩で息をする姿に呆気に取られていると、痺れを切らしたグレタがフランツィスの横に膝を付いてそっと袖に触れた。

「その様に質問攻めにされてはエーリカ様が答えにくいかと存じます。お久しぶりなのですがらゆっくり、ですよ」
「そうだったな。すまなかった」

 さすがはグレタだと思い二人を見つめていると、ヘルムートは呆れた様に呟いた。

「お前の兄は情緒不安定なのか? これで侯爵家の当主とは聞いて呆れる」
「貴様! さっきから馴れ馴れしく何者だ!」
「もう二人共やめて! ヘルムートも家に着いたら大人しくしていてと、何度も頼んだでしょう!」
「確かに頼まれたが従うとは言っていないぞ」

 その時、とっさにフランツィスの顔を見て、血の気が引いていくのを感じた。グレタも目を見開いて絶句している。

「ヘルムートだと? 今、ヘルムートと言ったのか。おかしいな、まさか敵国の皇太子と同じ名前とは」

 ヘルムートは楽しげに口端を上げると、それはもう王族らしく威厳を放って答えた。

「存分に驚け、跪け。ヴィルヘルミナ帝国第三皇太子ヘルムート・ヴィルヘルミナだ」

ーーもう終わったわね。

 エーリカは意識を手放したい思いで、その場で顔を覆った。
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