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2ー9 襲われた町②

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 裏口にたむろしていた三人の男達は、何があったのか分からないまま意識を失っていた。
 ヘルムートが手慣れた様子で、抜かれる事のなかった剣を男達の腰から奪うと一本をマッテオに投げた。慌てて受け取った剣をただじっと見つめる姿を嘲笑しながら、ヘルムートは裏口の中へと入って行く。廊下は暗く、明かりは先の部屋から漏れ出ているだけ。食べ物の匂いと共に、酒を飲んでいるのか幾つもの大きな笑い声や話し声が聞こえてくる。その音でヘルムート達の足音は完全に掻き消えていた。女達もそこにいるのか、時折小さな悲鳴と誰かに命令するような怒声がたまに織り混ざっている。しかし二階へと上がるにはその部屋の前を通らなくてはならない。ヘルムートは偵察の為に姿を消したクマを先に行かせると、ほどなくして躊躇いなく部屋に滑り込んだ。
 通路の入り口付近に立っていた男の背後に音なく立つと首に剣の切っ先を当てて引く。血飛沫は上がらない。ヘルムートは切っ先を抜き切ると同時に男の膝を素早く折って後頭部を押して床に向けた。血は溢れる様に床に落ち、男は声を出す間もなく動かなくなった。酒を飲み、飯を食っていた男達には、仲間が急に膝を折って座り込んだだけで、その後ろに見知らぬ男が立っている事に思考が一瞬止まった様だった。その隙にヘルムートは机の上に飛び乗ると円を描くようにして剣を振り、鮮やかに三人を仕留めた。驚いた女と目が合う。そのまま悲鳴へと繋がりそうな大きく開いた口をとっさに塞ぐと首を振った。そして真下に剣を振り下ろす。切っ先は床を這っていた男の鼻先をかすめて床に突き刺さっていた。

「お前には聞きたい事があるんだ。騒がなければ殺しはせん」

 震えながら机の下から出てきたのは中年の痩せた男。怯えている顔は酒なのか垢なのか、頬は赤黒く染まっており、腰を抜かして床を後退りしていた。

「家の中に仲間は何人だ」
「お、俺は関係ない! 飯があ、ある所に、連れて行ってやると、い、言われただけだ」
「質問の答えと違うようだが。次間違えた小指から切り落としてやるぞ」
「わかった! 上に四人だ。いや、三人か」
「どっちだ!」
「三人だ。でも分からねえ、本当だ。俺も見張りの奴らも連れて来られただけなんだ!」
「誰に連れて来られた?」
「知らない知らない! 上の奴らは仕事だから俺達には来るなと言って、女達を連れて行ったんだ! 上の奴らなら何か知っているかもしれない」

 ヘルムートは机から降りざまに床から剣を引き抜くと、座り込む男の胸に突き刺した。驚いた男が刃を握る。そのまま足で蹴り押すと廊下に出た。部屋の中を覗いていたマッテオは青ざめた顔で立ち尽くしていた。

「上には三人だ。俺達で殺るぞ」
「あんた、人を殺す事をなんとも思わないのか」

 絞り出す様に呟かれた言葉に溜め息を落とすと、ヘルムートは階段を駆け上がった。部屋は三つ。どこにいるのかはすぐに分かる。聞き覚えのある声や音が一室から漏れ出ていた。
 ヘルムートは扉だけを押し開くと、廊下に身を隠した。扉が開いた室内からは肉を打つ音と女の悲鳴が露わになった。

「来るなと、言っただろう? お前達は、飯でも、食ってろッ!」

 荒い呼吸で体格のいい男は、腰を激しく打ち付けながら開いた扉に目を向けた。誰もいない廊下に眉を顰めるも動かす腰は止めない。女は抱き合うような姿勢で身動きが取れないまま悲鳴を上げていた。赤毛の髪は乱れ、服は全て剥ぎ取られている。男は果てそうなのか女の乳房に噛み付くように吸い付くと一層腰を強めた。ヘルムートはその瞬間、部屋に飛び込むと背中から男の胸に剣を突き刺した。切っ先はぎりぎり女には到達しない位置で止まる。男は射精の痙攣なのか刺されたからなのか、体をがくがくと震わせると女の上にどさりと落ちた。ヘルムートは、絶命した男の体を乱暴に横から蹴ると女の顔を上から見下した。どさりと男の身体が床に落ちる。女は放心したまま動かなかった。

「事故にでも遭ったと思って今夜の事は全て忘れろ」

 女はまだ若く、少女と女性の中間のようだった。発育途中の硬そうな胸には歯型や肌を吸った赤い跡が幾つも散っている。しかし壊れたと思った女は、血の気の引いた顔をしながらも、小さく頷くとシーツを体に引き寄せた。

「それでいい」
「あの……」

 寝台から降りると小さな声が漏れ出た。いつの時代も、どんな場所でも弱い女は男の慰み物となり、未来を選ぶ事は出来ない。戦場でも、小さな村でも、王宮でも。それが世の常であり、自分もそうやって生きてきた。抱きたくなれば目に留まる女を犯し、その女の未来を見ようとはしなかった。

ーーまさかこんな風に助ける日が来るとは。

 今までなら、どれだけ叫ばれようと振り返りはしなかった。己の通った後には、すでに女の涙と血の道が続いている。それでも今は、こうして男達に汚された後の女に興味が沸いていた。尊厳を踏み躙られ、体を好き勝手に甚振られ、心を傷付けられ、それでもなおどんな風に立ち上がるのか。ヘルムートは聞き間違えかと思う程の小さな声に振り返っていた。

「あの、助けてくれてありがとう」

 殴らえたであろう赤くなった頬を強張らせて礼を言う女に、ヘルムートは素っ気なく目を逸らすと部屋を飛び出した。

「ここにシルビアはいなかった」

 閉まったもう一つの部屋の前で立ち尽くすマッテオに、ヘルムートは耳を澄ませた。部屋の中からは喘ぎ声が漏れ出ている。さっきの少女の悲鳴とは違い、明らかに艷やかな声だった。

「中に入るぞ」

 扉に手をかけたヘルムートの手をマッテオが止める。その顔は真っ青になり、目には涙が浮かんでいた。部屋の中から聞こえるのは嫌がる声ではない。甘く、男を欲しがる女の声。
 拳を握り締めるマッテオは息を荒くし、扉を蹴り開けた。壊された蝶番は廊下に弾け飛び、扉がガタリと落ちる。中にいたのは二人の男と一人の女。シルビアは寝台の上で均等に筋肉のついた年嵩の男の上に跨がっていた。その後ろからもう一人の若い男がシルビアの両乳房を握っている。これでもかと目を見開いたシルビアは震える唇を動かした。

「違うの、これは、違うの」
「お前の男か?」

 下から問われ、シルビアは動転しているのかコクコクと誰に向けてなのか分らないまま頷いた。

「それならとっておきを見せなくちゃな。可哀想に、もう少しだったろ?」

 そう言うと男はシルビアの腰を掴み、なぶるように腰を回しながら奥へ押し付けた。シルビアは甘い悲鳴を上げながら体を揺らして盛大に達した。

「あんたの女はな、こうやって子宮を嬲ってやると鳴いて喜ぶのさ。やり方を教えてやろうか?」

 ヘルムートは剣を床に捨てて壁に背を着いた。

「お前に譲ってやろう」

 マッテオは剣を握り締めると寝台に向かって歩き出した。しかし男は隠していた短剣を毛布の下から取り出すと、マッテオ目掛けて放り投げた。短剣はマッテオの肩に突き刺さる。その隙に男達はシルビアを横に押すと、寝台から飛び降りた。狭い部屋の中でマッテオと向かい合うように距離を取る。取り残されたシルビアはマッテオの肩から流れる血を見ながら怯えていた。

「マッテオごめんなさい。私、どうかしてたの」
「その女はな、俺の事を知っていたみたいなんだよ。自分から跨ってきたんだぞ。あんたに見せてやりたかったねぇ」

 年の割に筋肉の付いた体に、金色の長い髪を束ね、切れ長の目と整った鼻梁に薄い唇はまるでどこかの貴族の様。その整った容姿には似つかわしくない言葉を吐いて、下品な笑みを浮かべていた男から視線を逸らし、振り返った。

「シルビア、大丈夫か?」
「ッ、その人、私達の間じゃ有名なのよ。みんな一度はシてみたいって」
「俺は大丈夫かと聞いたんだ」

 静かだが怒りを湛えた声に、びくりと華奢な体を跳ねさせ、嗚咽を漏らし始めた。

「自分で始末をつけろ」
「言われなくても分かっているさ」
「おい、あいつらはどうした? なんで来ないんだよ」

 すぐに増援が来ると思って高を括っていた男二人は、いつまで経っても現れない仲間を待って廊下に視線を送っていた。

「期待している所悪いが、下の奴らは皆死んでいるぞ。俺が始末してやった」

 事態を把握したのか男達は逃げようと窓に向かう。マッテオは躊躇う事なく剣を振り下ろすと若い方の男の背中を斬り付けた。シルビアを下から嬲っていた男は、動かなくなった仲間を見ながら悲鳴を上げた。

「待て待て待て! 殺されるなんて聞いてない! 俺達は赤毛の女を犯すよう言われただけだ! どっちの女か分からなかったから二人共ヤッただけなんだよ!」

 全裸で膝を震わせ、怒鳴るように言った男の足元には水溜りが出来ていく。男は自分の漏らした尿の上に座り込んだ。

「あれだけ立派だった物をそんなに縮こませて、可哀想に」

 マッテオはゆっくり近づきながら座り込む男の前に立った。

「殺さないで、頼む。頼まれただけなんだよ!」
「誰に?」
「それは分からないッ」

 拳が頬をかすめて壁にぶつかる。パラリと砂が落ちた。

「本当だ、本当に分からないんだ! でも知らない高貴な男だった。ただ俺達は下の奴らと町に入って、指定された家の女を襲えって。俺ももう年だからさ、仕事も減っきてきていたんだ。こんな事で大金が入るんだから誰だってやるだろう? でも家の近くにあの二人がいたから……」

 捲し立てるようにしゃべっていた男は強張った笑みを貼り付けてマッテオに擦り寄った。

「良かったら俺が女の抱き方を教えてやるよ! 快楽を知った女達は自分から跨がってくるぞ。一緒にどこかの女で試そう!」
「駄目よ、やめて、マッテオが他の女を抱くなんて嫌よ!」
「……黙れ。お前の声は二度と聞きたくないんだ。さぁ! 誰に言われたのか言え!」
「だから本当に知らないんだよ! ここにいた奴らは同業者なだけで、下にいた奴らの事はもっと知らねぇ!」

 窓の下から怒声が聞こえ始める。近づいてくる声の波は家の下で野盗達とぶつかり、乱闘が始まったようだった。

「町の男達がようやく奮起したようだな。時間がないぞ? あいつらがここに流れ込めばもうそいつを殺せなくなる。王都の牢に入ればなおさら手出し出来なくなるな」

 腕組をしたままどこか楽しそうなヘルムートの言葉に、マッテオは剣を振り上げた。

「待て、やめろ、助けてくれ! おいあんた! こいつを煽るのはやめてくれ。分かった、それじゃあ王都の娼館で一番人気を抱かせてやる。あんたなんかじゃ絶対に手の届かないお貴族様専用の娼婦だぞ!」
「……もうその薄汚い口を閉じるんだ」

 マッテオは剣を男の足の間に振り下ろした。町中に響き渡るかのような男の悲鳴が上がり、マッテオは剣を投げ捨てた。そのまま部屋を出ていく。シルビアは手を伸ばしかけて止めた。いつの間にか、腕にも男の吸い痕が残っていた。

「あれで良かったのか?」

 通り過ぎざま、ヘルムートは床に飛んだ物を見て眉を潜めた。

「本当に知らないんだろうが、まだ殺す訳にはいかないからな。それに、死よりも恐ろしい罰を与えたつもりだ」
「まあ確かに。男としては耐え難いな」

 ヘルムートも部屋を出ていく。家の一階から現れたヘルムート達に背後を取られた野盗達はあっという間に崩れ、散り散りに逃げ始めた。拘束出来たのは八名だけ。町の入り口を見張っていた仲間達も異常を察知したのか、いつの間にか逃げ去っていた。



「ヘルムート! 怪我をしているの?」

 エーリカは診療所で怪我人の血の滲んだ包帯を変えた所で、入ってきた血だらけのヘルムートを見てすぐに走り出した。最初に野盗達と戦った自警団の男達や、厩の番をしていた少年達が負った怪我は深刻だった。すぐに町の者が、今度は馬で王都へ知らせに向かったが、少なくとも半日以上はここで頑張ってもらわなくてはいけない。ヘルムートの体を確認しようと手を伸ばすとさっと引かれた。なぜか黙ってじっと見つめてくる視線を覗き込むと、何故か目を逸らされた。

「その血、まさかどこか怪我をしているんじゃないの?」
「全て返り血だから大丈夫だ」
「人を殺したの?」
「殺さなきゃ殺されていたんだ、当たり前だろ」
「ごめんなさい。結局あなたにばかり戦わせてしまったわね」
「魔力がなければお前がいた所でただの無力な女という訳だ。俺は魔力がなくても戦えるがな」
「そうね、本当にそうだわ。気持ちだけ昔と同じでも、今の私は役に立たないことを忘れていたみたい」
「別にそこまでは言ってないが……」
「私決めた! 剣術の勉強をするわ!」

 突拍子のない言葉にヘルムートは呆れたように笑い出した。
「だからお前は飽きないな。女は守られているだけでいればいいものを」
「そんなの性に合わないもの。それで、シルビアさんは無事だったの?」
「まあ、一応元気だったよ。むしろ元気過ぎるくらいだったな」
「ああ良かった。本当に心配していたんだから。それで今はどこにいるの?」
「怪我をしている訳じゃないからここには来ないだろうな。落ち着いたら様子を見に行けばいいさ。それよりも……」

 診療所の中は所狭しと人がいる。ヘルムートはエーリカを外に連れ出すと、腕を掴んだ。

「今のうちにここを出れば王都の奴らには会わなくて済む。荷造りをしてすぐに出発するぞ」

 しかしエーリカは掴まれた腕をやんわりを押しやった。

「私、王都に帰ろうと思うの」
「は? 帰ってどうするんだ。魔力のないお前が王妃に歓迎されると思うのか? 何人も側室を作る男に嫁ぐ気か?」
「違うわ。婚約を破棄しに行くのよ」

 言葉にしてみると、いよいよもって実感してくる。意外と悲しくはなかった。

「私が生きているのに婚約を破棄しなかったら、ずっとクラウス様は正妃を娶る事が出来ないもの。だから王城に戻るわ」
「別にそれでもいいだろ。娶りたい女がいれば側室にすればいいだけだ」
「それじゃあ駄目なのよ。ちゃんとお互いの為に区切りを付けなくちゃ。そうじゃないとどちらも前に進めないと思うの」

 伺うようなヘルムートの視線を受け止めると、しばらくして大きな溜め息が漏れた。

「分かった。私も行く」
「駄目に決まっているでしょ! あなたはこの国では大犯罪者なの、国に攻め入って守護山を落とした張本人なのよ!」
「それについては悪いとは思っていない。私は敵国の王族だからな。やるべき事をやったまでだ。それにお前がなんて言おうと離れる気はないぞ。そろそろ頃合いだろうし」
「どういう意味?」

 するとおでこを弾かれた。

「お前は敵国の王の婚約者だから教えん」
「婚約破棄するから婚約者じゃないわ」
「それでも今は教えられん」
「捕まって投獄されるのがオチよ!」
「助けてくれるんだろ? 侯爵令嬢様」

 呆れながら溜め息をつくと、日が昇っていくのを見つめていた。



 そして空が橙に染まり始めた頃、王都から来たのは兵団から派遣された調査隊だった。

「まさか兵団長自らお越しいただけるとは思いもしませんでした。知っておりましたらおもてなしを致しましたものを……」

 町長は震える手で汗を拭きながら、馬から降りてくる兵団長のユリウスに擦り寄るように近付いた。

「この状況でそんな事は望まんよ。この度はとんだ災難だったな。まずはさっそく現場を見せてくれ。報告は歩きながら聞くとしよう」

 町長は惨劇の場所となった、自分の家の居間へユリウスを通すと目を逸らした。

「遺体はそのままにしておりました」

 居間には入口付近に一人と、机に座る様にして絶命している三人、そして床に倒れている一人の計五人の遺体があった。壁は血飛沫で染まっており、酷い有り様だった。ユリウスは丹念に遺体を見てから廊下で待つ町長の元へ戻った。

「全て野盗で間違いないか?」
「はい。他の者達にも確認してもらいましたが、誰一人として知った顔はいないようでした。では次に二階へご案内致します」

 2階の突き当りの部屋には遺体が一つ横たわっていた。

「この部屋で、まだ十五になったばかりの宿屋の娘が犯されました。本当に酷い事です」
「その子は今どこに?」
「怪我もしていましたので今は診療所におります。次はこちらに」

 町長は廊下を戻ってもう一つの部屋へと案内した。

「ここも酷いもんです」

 遺体は窓近くに一つ、後ろから斬られていた。そしてふと、近くにあった肉片に目が留まった。
「こちらも何一つ触れてはいません。ただ、一人だけ斬られた奴等の中で助かった者がおりますので、その者だけ治療の為に移しております」
「怪我の具合は? 話せる状態か?」

 町長は言いにくそうに床に落ちている肉片を見た。つられてユリウスも視線を床に落とす。ふと、眉を潜めて町長を振り見た。

「あれは男の陰茎部です。妻を襲われた夫が切り落としたようなのです」

 ユリウスは思わず盛大に顔を顰めた。思わず自分の下肢を抑えたくなる衝動を堪え、もう一度床を見た。遠目から見ると色の悪い萎びたじゃがいもの様にも見える。

「この全ての殺しはその男がやったのか?」
「その者と友人の二人だと、その者らを見送った者から聞きました。一人はマッテオという名の……」
「マッテオだと?」
「お知り合いですか? そういえば、マッテオは男爵家の元ご子息でしたか」
「その者の家を教えてくれ」

 ユリウスはマッテオの家の場所を聞くと、足早に町長の家を出た。


 
 マッテオは小さな机を挟んで座っている兄を睨み付けていた。紺のジャケットとスラックスを履いた男爵家の嫡男でマッテオの兄は長めの髪を後ろで縛っており、マッテオとは対照的な線の細い体躯だった。

「なぜあなたがいらしたんです?」

 不機嫌な弟には気にも留めず、兄は家の中を逡巡しながら奥の部屋に目を向けた。

「書記官だからね、仕事だよ。まあ実際に調書を取るのは部下なのだけど。でもまさか弟が慎ましく暮らしていた町が襲われるとは思いもしなかったよ。それで、怪我をしているようだが手当てはしたのか?」

 マッテオの肩辺りの服は血で濡れている。しかし返事をせずにただ机の一点を見つめていた。兄は息を吐くと、椅子に浅く座り直した。

「離縁して家に戻ってこい。父上もそうおっしゃっていたぞ。幸い子供もいないんだ、十分に新婚ごっこは楽しんだだろう?」
「……シルビアを一人には出来ません」

 すると嫌悪感を含んだ視線を再び奥の部屋に向けた。

「放っておけ。他の男に傷物にされた女をお前はまだ愛せるのか? まあ無理やり、嫌々だったのだろうから気の毒ではあるがな」

 その言葉にマッテオはぴくりと反応した。

「死んでいたのは皆野盗だった。まさかこんな中心部まで野盗が出たのは驚きだったが、これでいい掃除が出来たじゃないか。ああそう言えば、一人だけ妙な所を怪我していたぞ」

 眉を顰めて声を小さくした。

「どこだと思う? 男の大事な部分だそうだ」

 マッテオは顔色一つ変えず、何も答えなかった。

「ここだけの話、あの男は王都では有名な男娼だそうでな。俺の商売道具がと、意識が朦朧としているのに一物の心配をしていたらしい。まあ、むさ苦しく汚れた野盗に襲われるよりもあの男に当たった女は、犯されたとはいえ幸運だったと思うぞ。なんなら普通の男とでは味わえない絶頂を感じられたかもしれない。ほら、娼婦としか出来ない事もあるように……」

 マッテオは机を叩くと勢いよく立ち上がった。

「そんな話は聞きたくありません!」
「もしお前が離縁するというのなら、女には十分な手切れ金を用意してやる」

 マッテオは血管の浮き出た腕で兄の胸倉を掴んだ。椅子から浮いた体に、後ろに控えていた二人の護衛が手を伸ばす。しかし兄の方が手を上げて制した。

「俺に手を上げるのはお門違いではないか? どちらにしてももうお前達はうまくはいかないだろ。どう足掻いても生まれは変えられないんだ。家に戻って役目を果たせ」
「……役目とは?」
「もちろん家に戻る事に決まっているだろう。俺達は平民の女に大事な家族を奪われたんだ。どんな理由であれ、お前が戻ってくるのを皆望んでいるんだよ。実はな、ミラが陛下の側室候補になったんだ。候補と言ってもあの二人は昔から仲がいいからミラに決定だろう。他にも何人かいるらしいが、陛下はミラを選ぶと思うぞ」

 マッテオは乾いた笑いを漏らして胸倉を掴んでいた手を離した。

「ミラが側室になるかもしれないから、平民に身分を落とした身内がいるという醜聞が気になり出したと言う事ですか」
「陛下がしばらくは正妃を娶らずに側室のみとするとおっしゃったようだから、事実上側室が正妃扱いという訳だ」
「なんと言われても家には戻りません」
「自分の事ばかりでなく、少しは妹の幸せも考えてやれ。次に来る時は手切れ金を持ってくるよ。ああ、一応奥さんにも話を聞きたいんだが……」
「絶対に駄目だ! もう帰ってくれ!」

 マッテオは机を殴りつけると兄達を追い出し、自らも裏口から家を飛び出した。



 ユリウスがマッテオの家に辿り着いた時、中から出てきたのは共に調査に来ていた書記官のシリルだった。

「シリル! 先程町長から話を聞いたんだ。お前は知っていたのか? マッテオの妻が被害者だと」

 子供の頃から知っているシリルとマッテオの様子が気になって足早近づいた。

「ユリウス兵団長、すみません私用で抜けておりました。到着するなり恐ろしい事を耳にしたものですから、いてもたってもいられずに来た次第です」
「構わん! それよりもマッテオは? 中にいるのか?」

 するとシリルは諦めた様に首を振った。

「今は混乱しているのでしょう。でも落ち着けば必ず私達のもとに帰ってくるはずです」
「それは、離縁すると言うことか? マッテオが傷ついた妻を見捨てたりするだろうか」 
「ただ襲われただけならば、あるいはそばにいて支えたかもしれません」

 ユリウスは怪訝そうに眉を顰めた。

「どういう意味だ?」
「重症の男がいたので意識のある内にその男から早急に調書を取ったのですが、マッテオの妻は……」

 シリルはユリウスに少し近づいて声を潜めた。

「犯されたとは言い難く、むしろ喜んで男に抱かれていたそうです」
「そんな訳ないだろ! 信じられん」
「私も信じたくはないのですが事実です。妻本人への面会の為に、後日にでも人を遣わします」
「そうだな。あまり負担にならないように配慮してくれ」
「承知いたしました。妹が側室候補に選ばれたという大事な時ですから、ミラに影響が出ないようにも尽力するつもりです」

 ユリウスは曖昧に返事を返すとシリルと共に集会所へと向かった。



 エーリカはユリウス達がマッテオの家から離れたのを確認してから、玄関を叩いた。

「シルビアさん? エマです。マッテオさん?」

 しかし返事はない。仕方なく扉を少し開けると、中には誰もいなかった。怪我はないとヘルムートから聞いてはいたが、それでもシルビアの事が心配だった。今までずっと魔術師として過ごしてきたから、周囲は侯爵令嬢で結界魔術師のエーリカに距離を取り、友達と呼べる人はいなかった。だから気さくに話しかけてくれるシルビアの存在がどれだけ新鮮で嬉しかったか。どうしてもシルビアの顔を一目見たかった。家は小さい造りなのですぐに見て回れる。その時、奥の部屋で何かが物音がした。

「シルビアさん? そこにいるの?」

 恐る恐る部屋の扉を開けると、そこには硝子の破片を持ったシルビアがいた。髪は乱れ、目は泣き腫らしたのか赤くなっていた。

「何しているの!」

 驚いたシルビアが硝子の破片を手首に当てる。その手を離させようと手を伸ばした。

「ッつ!」

 腕を引いた時にぶつかった硝子が指に当たる。甲からつぅと血が流れた。

「邪魔するからよ!」
「邪魔するわ! シルビアさんが死ぬところなんて見たくないもの」
「私はもう生きていられないの! マッテオに捨てられるんだから!」

 シルビアはまだ硝子を握っている。興奮して手が動く度に血が毛布を濡らした。

「マッテオさんは離れたりしないわ。だって襲われたのはシルビアさんのせいじゃないもの」
「……前から思っていたけど、エマさんて、どこかいい所のお嬢様?」
「どうして?」
「なんだか綺麗事ばかり言うから。他の男に穢された女を愛する男がいると思う?」
「だって襲ってきたのはあいつらじゃない!」

 シルビアは泣きながら顔を擦ると髪をかき上げた。

「あぁ、もう終わりね。幸せになりたかったのに」
「今からだってなれるわ」
「だからお嬢様だと言ったのよ。私ね、親がいないの。養護施設にいたけど、そこじゃまともな食事は与えられていなくてね。皆で作っていた野菜を売りにいった市場で、娼婦の仕事を持ちかけられたのよ」

 エーリカは返事が出来ずにただ見つめ返した。

「少しの間だけど、体を売っていたの。別に嫌いじゃなかったから同情はしないでよ。風呂に毎日入れて、施設よりもまともなご飯が食べられたんだもの。それに、今まで汚いものでも見るような目を向けてきていた男達が、突然物欲しそうな目で見つめてくるんだもの。求められている感覚に生きているって実感したわ。でもマッテオに出会って辞めたのよ。驚いた? マッテオは客だったの。マッテオに出会ってからは体の触れ合いがなくても生きている実感がした。でも私はそんな仕事だったから、マッテオは身分を捨てて家を出てくれたのよ」
「それならなおさら捨てたりなんかしないんじゃ……」
「私、楽しんじゃったの」
「どういう事?」

 シルビアは泣いているのか笑っているのか分からないまま、毛布に顔を押し付けた。

「野盗の中に一人知っている顔がいたのよ。人気の男娼でね、私達商売女の中でも有名だった。ずっと年上で、姉さん達の中で一人だけ、若い頃に相手をした事があるっていう人がいて、それは凄かったって聞かされていたの。それまではそういう行為が苦手だったけど、それ以来は好きになったって。だから仕事が苦手な子らは一度でいいから抱かれたいって言っていたわ。その男娼はとても私達の手に届く額じゃなかったから、相手から客として来ない限り無理だったのよ」
「その人の事、気になっていたの?」

 すると大きな声で笑い出した。涙を拭いてひとしきり笑うと、息をついた。

「エマさんて本当に綺麗なままなのね」

 この部屋に来てから人が変わった様に砕けた話し方の違和感と、たった今まで笑っていた人とは思えないほど背筋が寒くなるような視線を向けられ、エーリカは思わず身を引いた。

「体がね、擦り込まれた快感を覚えているの。これはもうどうしようもないのよ。マッテオに不満があるんじゃない。でもあの男を見た時に、今まで知らなかったその先があるかもしれないと思ってしまったの。どうしようもない好奇心を抑えられなかった。体は減るものじゃないからね」
「……私は、愛する人がいるのに他の人と体を重ねてしまったら、その分だけ大事なものが失くなってしまうような気がするわ」
「大事なものって?」
「心とか」

 シルビアは今までにないくらい大きな溜め息を落とした。

「もう話しているのが馬鹿らしくなってきた」
「ごめんなさい」
「少し休みたいからもういい?」
「私ったらごめんなさい! 実はしばらく町を離れる事になったの。だからその、元気で」

 返事はない。エーリカは部屋を出ようとして一度だけ振り返った。しかしシルビアはすでに毛布を深く被ってしまっていた。



「どうだった?」

 ヘルムートは家に戻り荷造りをしていた顔を上げた。そして布を巻いていた手を目ざとく見つけると掴んできた。

「どうしたこれ」
「うっかり引っ掛けて切ってしまって。でももう血も止まったし大丈夫よ」

 ヘルムートは怪訝そうに布を外すと、血が止まったという言葉を確認する様にして傷口を見てから、ぺろりと舐めてきた。

「やだ!」
「本当に止まっているようだな」

 そう言うと、手は何事もなく離された。ソファの上にはシロと、顎をソファに乗せたクマが目だけを動かしている。町長の家ではクマの力を貸してくれていたと聞いていたので、力一杯クマの背中を撫でにいく。もぞもぞと体を動かして喜ぶクマの毛に指を潜り込ませながらふと、呟いた。

「そんなにいいものかしら」
「何が? あの女が何か言っていたのか?」

 思わず溢れてしまった言葉だったが、返してくれた質問に答える事は出来ない。いくら気安くなったとはいえヘルムートは男で、自分を好いていると言ってくれた初めての人なのだ。この話題はしてはいけない気がした。

「女だってそんなものだろ。まぁ、男はもっと酷いがな」
「知っていたの?」
「この目で見たんだ。もちろんマッテオも見たぞ」
「マッテオさんも……」
「生き物の性、子孫を残す本能だ」

 思わずクマの毛を握り締めると、クマは小さく唸った。

「あなたもなの? 結局他の人とそういう事が出来るという事でしょう?」
「出来るさ」

 振り向いて目が合ったヘルムートは真剣な目でこちらを見ていた。

「でもしない。だから早く私のものになれ。正直我慢の限界だ」

 ヘルムートがこちらに近づいてくる。クマの背に隠れるように身を屈めると、笑い声が上がった。

「冗談だよ。さっさと準備しろ」
「からかわないでよ!」

 真っ赤になった顔を隠すように、エーリカは奥の部屋へと飛び込んだ。
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