そのハンカチ返してくださいッ!

山田ランチ

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12章 結婚への疑問

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 夜会から三日。タイストとはほとんど口を利かない日々を過ごしていた。馬車であんな事をした上に、あんな事をしたハンカチをポケットに仕舞い、挙げ句の果てにはこちらに見せつけるように匂いを嗅いだタイストは、もうイレネの中で変態夫確定だった。それなのに何故か嫌いになれない自分もいた。

「いやいいのよ。夫を嫌いになるなんて駄目なんだから!」

 ふと窓の下にタイストの姿が目に映る。丁度馬車に乗り込むところのようだった。この所タイストは忙しそうにしており、どこかへ出掛ける事が多くなっていたのも口を利かない要因でもある。シャツの上に着たベストが体躯の良さを表しており、飾らないのに格好良い姿に見惚れていた。その瞬間、こちらを振り見たタイストと目が合う。イレネはとっさにカーテンの後ろに隠れてしまった。


「今間違いなく目を逸らされましたね。まだ仲直りしていないんですか?」

 見送りをしていたトルスティは呆れたように溜め息を吐いた。

「仲直りするも何も口を利いていないんだ。それに何を謝ればいい? 私の事を何か言っていなかったか?」
「何も聞いておりません。カティヤも何も聞いていないようでした。しかしこれは当人同士の問題なのですから、仮に知っていたとしても話す訳には参りませんね」
「……お前の言う通りだ。とにかく準備を頼んだぞ。イレネには帰って来た時に驚かせてやろう」

 馬車に乗り込みもう一度窓を見上げたが、やはりそこにイレネはもういなかった。


「奥様、旦那様はまだお戻りにはなられないと思いますよ」

 玄関が見える廊下をウロウロしていたイレネは、後ろから笑われたトルスティにびくりと体を強張らせた。

「わ、私は別にただ通り掛かっただけよ」
「そうでしたか。それは失礼致しました」

 しかし通り過ぎていくトルスティの背に声を掛けた。

「旦那様は怒っていらした? 私の事を何か仰っていたかしら」

 少し前に仕立てた薔薇柄のワンピースのスカートをギュッと握り俯いていると、頭の上に気配がした。

「ブルーフェアリー!?」
「おや珍しいですね。蜥蜴は臆病な生き物なので滅多にこうして姿を現す事はないのですが……もしや、余程旦那様と奥様の事が心配で現れたのかもしれませんね」

 ブルーフェアリーは天井に近い壁を伝い、こちらをじっと見つめていた。

「ですがこんな所にいては怖がる者もいるでしょうから、庭に連れて行きましょうか」
「あ! 待って、私が連れて行くわ」

 するとトルスティは驚いたように目を見開いた。

「奥様は蜥蜴に触れられるのですか?」
「それは偏見よ。蜥蜴が好きな女性もいるの。ここにも一人ね」

 とはいってもブルーフェアリーの方がこちらに来るかは疑問だったが、そっと手を伸ばすと迷う事なくスルスルと腕を伝ってきた。ひんやりとして小さい足の感触にくすぐったくなってしまう。それでも動く事なく、ブルーフェアリーを驚かせないように肩に乗せた。

「旦那様はちゃんと奥様の事をお考えですよ。ちゃんとお話し合い下さいませ」
「……そうよね。今日の夜にでもお部屋を伺ってみるわ」

 通り過ぎる侍女がぎょっとした顔でこちらを見てきたが、目が合うと愛想笑いをしていそいそと離れて行ってしまう。

「そんなに急いで逃げなくてもいいじゃない。こんなに綺麗なのにね」

 イレネは肩にいるブルーフェアリーと頷き合いながら歩き出した。

「あ! ですが今夜はお客様がいらっしゃるのでお話し合いは難しいかもしれませんよ!」

 背中でトルスティの声を受け止めながら体を揺らさないように手を上げた。


✳✳✳✳✳


 玄関で不敵に笑うトルスティの表情の意味を知ったのは、タイストと共にその客人が来訪した時だった。

「イレネ! 元気だったかい?」

 タイストの背中から現れたのはなんと父親だった。

「お、驚いているね? 大成功のようですな」
 
 嬉しそうに入ってきた父親は、感慨深そうに屋敷全体を見渡した。

「お父様まさか泣いているの?」
「泣いてなんかないさ! ただこんなに立派なお屋敷に嫁いだのかと思ってね」
「イオネスク伯爵様、キュトラ領にあるお城はここの比ではありませんよ」

 サラッとそう言ったトルスティに、タイストは渋い顔をした。

「ハハッ! それは凄いですな! 是非今度我が城にもお越し下さい。大自然が広がった美しい土地ですぞ」

 和やかに話す二人を見ていると、ちらりとタイストと目が合った。にこりと微笑まれるがここ数日の癖で目を逸してしまった。

「イレネ、父様はキュトラ辺境伯とお話があるから親子の時間はまた後でな」
「承知しました、お父様」

 連れ立って離れていく背中を見つめながらトルスティに疑問を投げかけた。

「あなたはお父様がいらっしゃる事を知っていたのよね?」
「はい、奥様。秘密にしておいたのは旦那様からのご指示でございます。奥様の最近のご様子をご心配なされ喜ばせようとのお考えでした」
「そうだったの。お父様の性格じゃあ二つ返事で承諾したでしょうね。昔から楽しい事が大好きだから」
「明るく聡明なお方でいらっしゃいます」
「ありがとうお父様の事をそんな風に言ってくれて嬉しいわ」


✳✳✳✳✳


「それで今回の件が済めばイレネを返して頂きたいのです。あなた様には大変感謝しております。ですが考えれば考える程に、おそらくあの子には辺境伯の妻は務まらないでしょう。ああ、誤解しないで頂きたい。イレネは良く出来た娘でどこに出しても恥ずかしくない。だからこそ常に危険と隣り合わせの辺境伯領へはやりたくないというのが親心なのです」
「お気持ちは理解しました。イレネが素晴らしい女性だという事も同意します」
「ではお返し頂けますかな?」
「……少し、考えさせて下さい」
「あまり長引かせても情が移るでしょう。それに万が一子が出来でもしたらそれこそ離縁が難しくなってしまいます。それともあなたは娘を生涯の伴侶と思って下さいますか?」

 タイストは厳しい表情をしながら押し黙った。

「婚姻を結んだ事で我が領に進軍しても問題なくなりましたが、娘には愛ある結婚生活を送ってもらいたいのです」
「……私がそれを与えられるか、疑問を感じるという事でしょうか」

 イレネは扉の前から音を立てないようにして走り去って行った。  

「それでも私は今となってはイレネしか考えられません。認めて頂けるよう努力するまでです」


「イレネ? 少しいいですか?」

 部屋に戻っていたイレネは、ベッドに突っ伏していた体を無理やり起こした。再び扉が叩かれ、少し迷いながらも扉を押し開いた。

「何をしていたんです?」
「少し休んでいただけです。お父様とのお話はもう終わったんですか?」
「はい。実はイレネに話しておきたい事があるんです。中に入っても?」

 タイストには動揺を悟られないように体を避けて隙間を空けた。

「実は少しの間イオネスク領に行かなくてはならなくなりました」
「……え?」

 イレネは戸惑うあまり言葉が見つからなかった。

「驚くのも無理はありません。実はイオネスク領の近くで不審な集団を目撃したという情報が入ったんです。それで今回はキュトラの軍をお貸しする事になったんです」
「兵達ならイオネスク領にもおります! わざわざ旦那様の軍を動かさなくても……」

 そっと口に手が添えられる。そして優しく微笑まれた。

「それでこの争いを鎮圧したらイレネにもイオネスク領へ着いて来て頂きたいのです。久しぶりの帰郷にもなるでしょうし、良い機会ですからその後はキュトラ領へ帰るというのはどうでしょうか?」
「それでは危険はないという事ですね? ……本当に私も着いて行って宜しいのでしょうか」

 その瞬間、大きな腕が伸びてきてぎゅっと抱き締められた。驚いていると優しく背中を擦られる。それでも先程の不安は拭えなかった。

「ああ、心配なんですね。危険な事など何もありませんよ。イレネは安心してゆっくりしていればいいんです。その間に私はイオネスク領に害を成すものを追い払いますので、その後は共にキュトラ領へ参りましょう」
「私はキュトラ領の皆さんに受け入れられるでしょうか」
「大丈夫ですよ、きっと……」

 その瞬間、扉が激しく叩かれた。入ってきたトルスティは珍しく息を切らしていた。

「旦那様! たった今早馬が到着し、イオネスク領で敵軍と交戦中との事です! イオネスク伯爵様はすでに向かわれました。向こうで待つとのご伝言をお預かりしております」
「敵はやはり……」
「軍旗はドラゴンとレイブルのようです。キュトラ子爵の目撃情報はございませんでした」
「ドラッヘの民か。街に駐屯させていた軍に伝令を出しすぐに向かうぞ!」
「お待ち下さい! 軍を駐屯させていたなんて、まさか戦いが起こる事をご想定されておられたのですか? それにドラッヘの民とは何者ですか!?」

 タイストは珍しく緊張した面持ちで視線を逸した。

「ドラッヘの民はこの国から虐げられてきた者達です。すみませんが一足先にイオネスク領へ参ります。鎮圧次第伝令を送りますのでイレネはその後から来て下さい。いいですね?」

 衝撃のあまり言葉を失うと、労るように肩に手が置かれた。その手に触れようとしたころでタイストは手を離し、踵を返してしまった。

「あなたはドラッヘの民を知っている? 知っているなら教えて欲しいの」

 言い淀んでいるのが分かったが、逃げられないようにじっとトルスティを見つめた。
「ドラッヘの民は遥か昔、おそらくこの国が出来た頃まで遡ると思います。竜の力を継いだ王の兄弟がどちらが王位を継ぐかで争い、破れた者が流浪の民を率いて逃げたと聞きます。一説にはその破れた方が兄だったとか」
「兄が国を継ぐべきだと、そう考えているのね?」
「左様です。ですからドラッヘの民は今でも正当なこの国の王と民は自分達なのだと、そう考えているのです。そう思い込む事で貧しい暮らしから脱却する夢を見ているのかもしれません」
「でもこちらには軍隊がいるのに叶う訳ないわ。……でも、どうしてイオネスク領なのかしら。自然が多いだけの場所なのに」
「イオネスク領は竜の降り立つ大地とも呼ばれております。広い平野と自然豊かな情景がそう思わせたのかもしれませんが、竜ゆかりのある土地を手に入れていく事で、この侵略行為に正しいのだと意味を付けないのではないでしょうか」

 行き場のない憤りに拳を握り締めた。

「そんな事をしたって国を乗っ取れる訳がないのに。……馬車の用意をして頂戴。準備が出来次第、私もイオネスク領に向かうわ」
「ですが今は危険です! 旦那様のご連絡を待ちましょう」
「イオネスク領は私の故郷でもあるもの。それにもし万が一旦那様に何かあったら私耐えられないわ」
「……承知致しました。ですが私も同行させて頂きます」
「それはむしろ安心しかないわね」

 トルスティは呆れたように優しく微笑んだ。
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