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幼い二人と錬金術師
別れを意識する日
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湖を離れて戻る道すがら夕暮れの空を仰いだ。
赤と紫が滲むその色合いは穏やかに見えるのに、胸の内は妙にざわついていた。
名簿や事件などの言葉が耳の奥に残るような感覚があった。
これらについて、必要以上に考えれば足を取られてしまう。
言うまでもなくセドやミレアを巻きこむべきではない。
そう自分に言い聞かせて街へ戻った。
翌朝、カルンの市場はさらに騒がしかった。
祭りの準備が佳境を迎え、人々の声と物音が渦のように広がっている。
天幕の色は昨日よりも増えていた。
緋色や青の布が重なり、風に翻るたび光の粒が散る。
焼き菓子の甘い匂いが鼻をかすめ、塩漬け肉を並べる商人の声が響き渡る。
「マルク、こっち!」
振り返るとミレアが籠を抱えながら呼んでいた。
セドはその横で魚屋の桶をじっと覗きこんでいる。
銀色の鱗が跳ねるたび、少年の目は子どものように輝いた。
「そんなに見てると、買わされるぞ」
「えっ、そうなの?」とセドが素直に顔を上げた。
魚屋の親父は大声で笑い、「兄ちゃん、分かってるじゃねえか!」と俺に片目をつぶった。
兄妹のやりとりに口を挟むことはせず、俺は少し離れて周囲を眺めた。
すると、人混みの向こうに懐かしい背中を見つけた。
日に焼けた肌、腰がわずかに曲がった大柄の男。
肩に古びた荷袋を背負い、ゆっくりと歩いていた。
「……あれ?」
思わず声が漏れた。
あの歩き方を知っている。
数年前の旅路で出会い、幾度も助けられた旅人――ガルディスだ。
砂嵐に襲われた夜、火を絶やさずにいてくれたこと。
峠で倒れそうな時、黙って背を貸してくれたこと。
それらの情景が一瞬で脳裏に甦った。
「ガルディス!」
俺が呼ぶとガルディスは驚いたように振り返り、目を細めた。
しばし見定めるようにこちらを眺めて、それから深く頷いた。
「……マルクじゃないか!」
分厚い声が喧噪を越えて届く。
次の瞬間には力強い腕で肩を叩かれた。
「生きてたか、良かった! いやあ、てっきりもうどこかで……」
「おいおい、勝手に殺すんじゃない」
思わず笑みが漏れた。
懐かしさが胸を温める。
だが同時に、なぜか胸の奥がきゅっと締まるようでもあった。
ガルディスはこちらをひとしきり眺めたあと、目尻に深いしわを寄せて笑った。
「変わったな。少し貫禄がでてきた。だが目はあの頃のままだ」
「そっちこそ、まだまだ現役みたいだな」
言葉を交わすと、互いの距離が一気に縮まった気がした。
ミレアとセドも近づいてきて、軽く挨拶をする。
だが彼らはすぐ別の店に向かった。
俺がこの人と話すべきだと察したのだろう。
ガルディスは屋台の端に腰を下ろし、荷袋を置いた。
こうして隣に並ぶのは久しぶりだと思いながら座った。
ざわめきが絶えず流れこむが、不思議とそこだけ切り取られた空間のように落ち着いていた。
「さて、どこから話すべきか……。そうだ、バラムのことを聞きたいんじゃないか?」
その名を口にされた瞬間、心臓が一拍遅れて脈打った。
俺は平静を装いながらも、しっかりとうなずいた。
「どうだ、変わりはないか」
「いや、随分変わったぞ。街道は広げられて今まで以上に馬車が行き交うようになった。前はあんなにがたついた道だったのにな」
ガルディスの声は朗らかだった。
バラムを揶揄しているようで、愛着の感じられる言い回し。
今の俺にはその言葉の一つ一つが心の奥を揺さぶられる。
「市場も盛況なもんだ。南からは香辛料が入り、北からは布が運ばれてくる。子どもたちは相変わらず走り回っているがな。お前が世話になった冒険者の親父も健在だ。今は弟子を何人か抱えている」
懐かしい名前が次々と出てくる。
彼らの顔が浮かび、声が聞こえるようだ。
遠い思い出だったはずの光景が、鮮明に手の届く場所に戻ってくる。
「……そうか」
自分でも驚くほど掠れた声が出た。
胸の奥に溜まっていた何かがじわりとにじみ出す。
俺はそういった気持ちを遠ざけていたはずだ。
それでも、故郷はまだそこにある。
人々は生き、暮らしを営んでいる……俺がいなくても世界は回っている。
ガルディスはふと真顔になり、俺を見据えた。
「マルク。帰る気はないのか?」
ふいに核心を突かれて、言葉が出なかった。
俺は視線を市場の喧噪に逃がした。
子どもが綿菓子を持って走り回り、商人が声を張り上げる。
だがしかし、その賑やかさすら遠く聞こえた。
「……まだ、分からない」
ようやく絞り出した答えに、ガルディスは深く頷いた。
追及も否定もせず、ただ受け止めるように。
「そうか。それならそれでいい。道は逃げない。お前が選ぶ時が来れば、それが正しい時だ」
その言葉は温かいはずだった。
だが今の俺の胸には重たさが感じられた。
やがてガルディスは立ち上がり、荷袋を背負った。
「祭りを楽しめよ。カルンの酒はうまいらしいぞ」
そう言って笑い、雑踏に消えていった。
大きな背中が人混みに埋もれるのを見送ると、取り残されたような感覚が広がっていた。
合流したセドとミレアは、俺の表情を覗き込んだ。
「誰だったの?」とミレアが問う。
「昔の知り合いだ」
それ以上は言えなかった。
言ってしまえば、心の揺らぎまで晒してしまいそうで。
買い物を終えて工房に戻る道中、セドが不意に口を開いた。
「マルク、少し顔が怖いよ」
俺は苦笑してごまかした。「ただの疲れだ」
だが、セドの無邪気な指摘は胸を突いた。
兄妹と過ごす日々は確かに楽しい。
訓練で失敗して転ぶセドを見て笑ったこと。
台所でミレアと些細なことで言い合ったこと。
その一つ一つが支えになってきた。
それでも――帰郷の二文字が現実味を帯びた瞬間、別れの影が忍び寄ってきたのだ。
その日の夜。
宿の窓から祭りの灯りがちらちらと見えた。
笛の音と人の笑い声が風に乗って届く。
俺は机に肘をつき、ぼんやりとその光景を眺めていた。
胸の奥で、二つの道がせめぎ合っている。
兄妹と歩む未来。故郷に戻る道。
どちらを選べばいいのか、答えは出ない。だが一つだけ確かなことがあった――。
俺は初めて「別れ」を意識した。
まだ形のないそれが重く、確かに息づいていた。
赤と紫が滲むその色合いは穏やかに見えるのに、胸の内は妙にざわついていた。
名簿や事件などの言葉が耳の奥に残るような感覚があった。
これらについて、必要以上に考えれば足を取られてしまう。
言うまでもなくセドやミレアを巻きこむべきではない。
そう自分に言い聞かせて街へ戻った。
翌朝、カルンの市場はさらに騒がしかった。
祭りの準備が佳境を迎え、人々の声と物音が渦のように広がっている。
天幕の色は昨日よりも増えていた。
緋色や青の布が重なり、風に翻るたび光の粒が散る。
焼き菓子の甘い匂いが鼻をかすめ、塩漬け肉を並べる商人の声が響き渡る。
「マルク、こっち!」
振り返るとミレアが籠を抱えながら呼んでいた。
セドはその横で魚屋の桶をじっと覗きこんでいる。
銀色の鱗が跳ねるたび、少年の目は子どものように輝いた。
「そんなに見てると、買わされるぞ」
「えっ、そうなの?」とセドが素直に顔を上げた。
魚屋の親父は大声で笑い、「兄ちゃん、分かってるじゃねえか!」と俺に片目をつぶった。
兄妹のやりとりに口を挟むことはせず、俺は少し離れて周囲を眺めた。
すると、人混みの向こうに懐かしい背中を見つけた。
日に焼けた肌、腰がわずかに曲がった大柄の男。
肩に古びた荷袋を背負い、ゆっくりと歩いていた。
「……あれ?」
思わず声が漏れた。
あの歩き方を知っている。
数年前の旅路で出会い、幾度も助けられた旅人――ガルディスだ。
砂嵐に襲われた夜、火を絶やさずにいてくれたこと。
峠で倒れそうな時、黙って背を貸してくれたこと。
それらの情景が一瞬で脳裏に甦った。
「ガルディス!」
俺が呼ぶとガルディスは驚いたように振り返り、目を細めた。
しばし見定めるようにこちらを眺めて、それから深く頷いた。
「……マルクじゃないか!」
分厚い声が喧噪を越えて届く。
次の瞬間には力強い腕で肩を叩かれた。
「生きてたか、良かった! いやあ、てっきりもうどこかで……」
「おいおい、勝手に殺すんじゃない」
思わず笑みが漏れた。
懐かしさが胸を温める。
だが同時に、なぜか胸の奥がきゅっと締まるようでもあった。
ガルディスはこちらをひとしきり眺めたあと、目尻に深いしわを寄せて笑った。
「変わったな。少し貫禄がでてきた。だが目はあの頃のままだ」
「そっちこそ、まだまだ現役みたいだな」
言葉を交わすと、互いの距離が一気に縮まった気がした。
ミレアとセドも近づいてきて、軽く挨拶をする。
だが彼らはすぐ別の店に向かった。
俺がこの人と話すべきだと察したのだろう。
ガルディスは屋台の端に腰を下ろし、荷袋を置いた。
こうして隣に並ぶのは久しぶりだと思いながら座った。
ざわめきが絶えず流れこむが、不思議とそこだけ切り取られた空間のように落ち着いていた。
「さて、どこから話すべきか……。そうだ、バラムのことを聞きたいんじゃないか?」
その名を口にされた瞬間、心臓が一拍遅れて脈打った。
俺は平静を装いながらも、しっかりとうなずいた。
「どうだ、変わりはないか」
「いや、随分変わったぞ。街道は広げられて今まで以上に馬車が行き交うようになった。前はあんなにがたついた道だったのにな」
ガルディスの声は朗らかだった。
バラムを揶揄しているようで、愛着の感じられる言い回し。
今の俺にはその言葉の一つ一つが心の奥を揺さぶられる。
「市場も盛況なもんだ。南からは香辛料が入り、北からは布が運ばれてくる。子どもたちは相変わらず走り回っているがな。お前が世話になった冒険者の親父も健在だ。今は弟子を何人か抱えている」
懐かしい名前が次々と出てくる。
彼らの顔が浮かび、声が聞こえるようだ。
遠い思い出だったはずの光景が、鮮明に手の届く場所に戻ってくる。
「……そうか」
自分でも驚くほど掠れた声が出た。
胸の奥に溜まっていた何かがじわりとにじみ出す。
俺はそういった気持ちを遠ざけていたはずだ。
それでも、故郷はまだそこにある。
人々は生き、暮らしを営んでいる……俺がいなくても世界は回っている。
ガルディスはふと真顔になり、俺を見据えた。
「マルク。帰る気はないのか?」
ふいに核心を突かれて、言葉が出なかった。
俺は視線を市場の喧噪に逃がした。
子どもが綿菓子を持って走り回り、商人が声を張り上げる。
だがしかし、その賑やかさすら遠く聞こえた。
「……まだ、分からない」
ようやく絞り出した答えに、ガルディスは深く頷いた。
追及も否定もせず、ただ受け止めるように。
「そうか。それならそれでいい。道は逃げない。お前が選ぶ時が来れば、それが正しい時だ」
その言葉は温かいはずだった。
だが今の俺の胸には重たさが感じられた。
やがてガルディスは立ち上がり、荷袋を背負った。
「祭りを楽しめよ。カルンの酒はうまいらしいぞ」
そう言って笑い、雑踏に消えていった。
大きな背中が人混みに埋もれるのを見送ると、取り残されたような感覚が広がっていた。
合流したセドとミレアは、俺の表情を覗き込んだ。
「誰だったの?」とミレアが問う。
「昔の知り合いだ」
それ以上は言えなかった。
言ってしまえば、心の揺らぎまで晒してしまいそうで。
買い物を終えて工房に戻る道中、セドが不意に口を開いた。
「マルク、少し顔が怖いよ」
俺は苦笑してごまかした。「ただの疲れだ」
だが、セドの無邪気な指摘は胸を突いた。
兄妹と過ごす日々は確かに楽しい。
訓練で失敗して転ぶセドを見て笑ったこと。
台所でミレアと些細なことで言い合ったこと。
その一つ一つが支えになってきた。
それでも――帰郷の二文字が現実味を帯びた瞬間、別れの影が忍び寄ってきたのだ。
その日の夜。
宿の窓から祭りの灯りがちらちらと見えた。
笛の音と人の笑い声が風に乗って届く。
俺は机に肘をつき、ぼんやりとその光景を眺めていた。
胸の奥で、二つの道がせめぎ合っている。
兄妹と歩む未来。故郷に戻る道。
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