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彼女たちの未来
温室で育まれた知恵
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ベルランの朝はカルンの街とは少し違う香りがした。
石畳を湿らせた夜露と花壇に植えられたラベンダーの香気が混ざり合い、どこか知的な空気を感じさせた。
バラムと似ているようで部分部分が異なる街並みを見渡すことで、自分自身が遠い異国の地にいることを実感する。
朝食を済ませた俺とフレイはロズナに渡された地図を片手に、彼女の研究所へと向かっていた。
出展会場の喧噪から少し外れた静かな通り沿いにある、三階建ての細身の建物がそれだった。
鉄製の扉の脇には控えめな銘板があり、「香気植物研究舎・薬草司ロズナ」と記されていた。
フレイが扉を控えめにノックをすると、中から勢いよく扉が開いた。
「おおっ、来ましたね! お待ちしてました! あっ、どうぞどうぞ。狭いですけど気にせずに!」
勢いそのままに現れたロズナは、昨日と変わらぬ快活さで手招きをする。
彼女の白衣の胸ポケットからは、色とりどりの筆記具と小瓶が顔を出していた。
俺たちが靴を脱いで中に入ると、甘さの中にほのかに苦みのある香りが鼻をくすぐった。
調合中のハーブがいくつも揃っているらしく、室内の空気そのものが生きているかのように新鮮だった。
「ここが調香室。で、あっちが簡易的なラボ。それでこっちが――」
ロズナは息も切らさず案内を続けている。
説明の途中で思い出したように話が横道に逸れ、また戻るという調子なのだが、不思議と心地よく感じた。
「この棚、見てください! 昨日あなたたちの眠るための午後を再現してみたんですよ。香気のピーク時間が二十七分後に来るって分かったんです。しかもそのピーク、セージじゃなくて、あの香りの成分が主役!」
机の上にはびっしりとメモが並び、いくつかのガラス瓶と拡大鏡が置かれていた。
フレイが興味深そうにその香りを確かめる。
「すごい……忠実に再現されてます。でも、どうやって成分の変化を測ったんですか?」
「ふふふ、そっちの部屋に温度管理つきの拡散分析器があるんです。通常の分析だと平均値しか出ないけど、私のは時間ごとに分解できる優れモノ!あっ、こっちに来ます?」
「……はい、ぜひ!」
ロズナに招かれて、フレイの声が弾んだ。
この状況を心から楽しんでいるようだ。
フレイは決して多弁ではないが、興味があること――ハーブや薬草について――には芯がある。
二人が話し込んでいる間、俺は壁に並べられた資料や地図に目を通していた。
地図には赤や青の印が細かく記されていて、どうやら植物の採取地らしい。
「これ、野外調査もしてるんですか?」
そうたずねると、ロズナが顔だけこちらに向けて答える。
「もちろん! ベルランの東にメイル草原っていう半乾燥地帯があって、そこにしか育たない薬草があるんですよ。今ちょうど開花期で、乾燥後の香り成分が最高なんです。もしよかったら、何日か後に一緒に行きます?」
「調香だけでなく、素材の採取まで……活動範囲、広いんですね」
「素材が命ですから! 原料の癖を知らずに調合するなんて、味のわからない料理人と同じですもん」
ロズナの言葉には熱がこもっていた。
その姿勢は研究者というより、まるで草と香りの職人のようだ。
そして、フレイはそんな彼女の一言一言を逃すまいと、真剣なまなざしを向けていた。
その日の午後。ラボの奥にある試験スペースで、フレイが試作中のブレンドを見せることにした。
彼女がアンソワーレを切り盛りする間に試していたものだ。
「これは再生をテーマにしたブレンドです。少し前から試している、新しい組み合わせで……」
フレイが瓶を開け、空気中にゆるやかに香りを広げる。
ロズナはそれを深く吸いこみ、おもむろに目を閉じた。
「……わあ。これは……すごいですね。最初に軽く来るのがアニス系。でも、すぐに切り替わって、ああ、カモミールじゃない、これはレモンバーム……違う、うわ、色々な香りが混ざってる!」
ひとりで興奮しながら解析している姿がユーモラスで、俺とフレイは思わず視線を交わして笑った。
だが、次の瞬間にロズナの目が真剣になった。
「これ、すごく惜しいです。中盤の香りが前に出すぎて、後半の成分が流れてる。香りの層がぶつかっちゃってるかも」
「えっ……」
「でも調整できると思いますよ。たとえば、トニカリアの抽出比率を少し変えるとか……あ、それか後から混ぜる重ね技で立体的にするのも!」
ロズナは試行案をいくつも口にして、その場でミニブレンドを調合しはじめた。
フレイも即座に参加して、二人で試行錯誤が始まった。
俺は少し後ろからその光景を見つめた。
静かな研究所の中で、フレイはまるで別人のように活き活きとした表情を浮かべている。
フレイにとってこの場所は、知識を吸収して試せる特別な空間なのだろう。
ひとつの場所に根を張るだけでなく、風に乗って広がることができる場所。
やがて日が傾き始めた頃、再調合された香りが完成した。
ブレンドの名前はまだ決まっていないが、香りはまるで草原の目覚めのようだった。
最初に柔らかい甘み、続いてほのかに青く、最後にやさしい苦みが戻ってくる。
「……この香り、記憶に残りそうです」
フレイがしみじみと言った。
ロズナも深く頷いた。
「調香って。結局は誰かの心に香りを残すことなのかもしれません」
「うんうん、いいですね」
俺もそう言って、瓶を見つめた。
香りというものは奥深く、まだまだ分からないことの方が多い。
それでも、楽しそうに取り組むフレイとロズナを見ていると、好きな者にとって好奇心が湧いてくる分野であることが分かる。
こうして学び合い、試し合う場所があるというのは素晴らしいことだ。
カルンで始まったアンソワーレの物語が、今度はベルランの小さな研究所で、新たに花開いたように感じる。
石畳を湿らせた夜露と花壇に植えられたラベンダーの香気が混ざり合い、どこか知的な空気を感じさせた。
バラムと似ているようで部分部分が異なる街並みを見渡すことで、自分自身が遠い異国の地にいることを実感する。
朝食を済ませた俺とフレイはロズナに渡された地図を片手に、彼女の研究所へと向かっていた。
出展会場の喧噪から少し外れた静かな通り沿いにある、三階建ての細身の建物がそれだった。
鉄製の扉の脇には控えめな銘板があり、「香気植物研究舎・薬草司ロズナ」と記されていた。
フレイが扉を控えめにノックをすると、中から勢いよく扉が開いた。
「おおっ、来ましたね! お待ちしてました! あっ、どうぞどうぞ。狭いですけど気にせずに!」
勢いそのままに現れたロズナは、昨日と変わらぬ快活さで手招きをする。
彼女の白衣の胸ポケットからは、色とりどりの筆記具と小瓶が顔を出していた。
俺たちが靴を脱いで中に入ると、甘さの中にほのかに苦みのある香りが鼻をくすぐった。
調合中のハーブがいくつも揃っているらしく、室内の空気そのものが生きているかのように新鮮だった。
「ここが調香室。で、あっちが簡易的なラボ。それでこっちが――」
ロズナは息も切らさず案内を続けている。
説明の途中で思い出したように話が横道に逸れ、また戻るという調子なのだが、不思議と心地よく感じた。
「この棚、見てください! 昨日あなたたちの眠るための午後を再現してみたんですよ。香気のピーク時間が二十七分後に来るって分かったんです。しかもそのピーク、セージじゃなくて、あの香りの成分が主役!」
机の上にはびっしりとメモが並び、いくつかのガラス瓶と拡大鏡が置かれていた。
フレイが興味深そうにその香りを確かめる。
「すごい……忠実に再現されてます。でも、どうやって成分の変化を測ったんですか?」
「ふふふ、そっちの部屋に温度管理つきの拡散分析器があるんです。通常の分析だと平均値しか出ないけど、私のは時間ごとに分解できる優れモノ!あっ、こっちに来ます?」
「……はい、ぜひ!」
ロズナに招かれて、フレイの声が弾んだ。
この状況を心から楽しんでいるようだ。
フレイは決して多弁ではないが、興味があること――ハーブや薬草について――には芯がある。
二人が話し込んでいる間、俺は壁に並べられた資料や地図に目を通していた。
地図には赤や青の印が細かく記されていて、どうやら植物の採取地らしい。
「これ、野外調査もしてるんですか?」
そうたずねると、ロズナが顔だけこちらに向けて答える。
「もちろん! ベルランの東にメイル草原っていう半乾燥地帯があって、そこにしか育たない薬草があるんですよ。今ちょうど開花期で、乾燥後の香り成分が最高なんです。もしよかったら、何日か後に一緒に行きます?」
「調香だけでなく、素材の採取まで……活動範囲、広いんですね」
「素材が命ですから! 原料の癖を知らずに調合するなんて、味のわからない料理人と同じですもん」
ロズナの言葉には熱がこもっていた。
その姿勢は研究者というより、まるで草と香りの職人のようだ。
そして、フレイはそんな彼女の一言一言を逃すまいと、真剣なまなざしを向けていた。
その日の午後。ラボの奥にある試験スペースで、フレイが試作中のブレンドを見せることにした。
彼女がアンソワーレを切り盛りする間に試していたものだ。
「これは再生をテーマにしたブレンドです。少し前から試している、新しい組み合わせで……」
フレイが瓶を開け、空気中にゆるやかに香りを広げる。
ロズナはそれを深く吸いこみ、おもむろに目を閉じた。
「……わあ。これは……すごいですね。最初に軽く来るのがアニス系。でも、すぐに切り替わって、ああ、カモミールじゃない、これはレモンバーム……違う、うわ、色々な香りが混ざってる!」
ひとりで興奮しながら解析している姿がユーモラスで、俺とフレイは思わず視線を交わして笑った。
だが、次の瞬間にロズナの目が真剣になった。
「これ、すごく惜しいです。中盤の香りが前に出すぎて、後半の成分が流れてる。香りの層がぶつかっちゃってるかも」
「えっ……」
「でも調整できると思いますよ。たとえば、トニカリアの抽出比率を少し変えるとか……あ、それか後から混ぜる重ね技で立体的にするのも!」
ロズナは試行案をいくつも口にして、その場でミニブレンドを調合しはじめた。
フレイも即座に参加して、二人で試行錯誤が始まった。
俺は少し後ろからその光景を見つめた。
静かな研究所の中で、フレイはまるで別人のように活き活きとした表情を浮かべている。
フレイにとってこの場所は、知識を吸収して試せる特別な空間なのだろう。
ひとつの場所に根を張るだけでなく、風に乗って広がることができる場所。
やがて日が傾き始めた頃、再調合された香りが完成した。
ブレンドの名前はまだ決まっていないが、香りはまるで草原の目覚めのようだった。
最初に柔らかい甘み、続いてほのかに青く、最後にやさしい苦みが戻ってくる。
「……この香り、記憶に残りそうです」
フレイがしみじみと言った。
ロズナも深く頷いた。
「調香って。結局は誰かの心に香りを残すことなのかもしれません」
「うんうん、いいですね」
俺もそう言って、瓶を見つめた。
香りというものは奥深く、まだまだ分からないことの方が多い。
それでも、楽しそうに取り組むフレイとロズナを見ていると、好きな者にとって好奇心が湧いてくる分野であることが分かる。
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