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その後の話

黒須七穂のたぬき丼

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「あーあ、かつ丼が食いてぇなぁ」

 昼食時、そうぼやきながら蕎麦屋へ入った七穂だったが、迷うことなく鳥そばを注文した。
 店で一番安い品だからだ。

 ――頼むから給料上げてくれねぇかなぁ。

 しかし文句を言ったところで、あの鬼畜上司のことだ。
 命があるだけ感謝しろと、さらに仕事を押し付けてくるだろう。

 ――暇さえあれば、自分は姫さんとイチャイチャしまくっているくせに。

 それを見せつけられる自分の身にもなれというのだ。
 いや、あれは絶対わざとやっているに違いない。

 自分をけん制するために。

 ――いつか姫さんを寝取ってやる。

 そんな度胸もないくせに、脳内でシミュレーションをしていると、

「おまちどうさま。熱いから気を付けて」

 熱々の鳥そばが出てきた。
 早速とばかり七味と天かすをたっぷりかけていただく。

 店で一番安いとはいえ、ダシがきいていて、上にのった鳥肉が地味にうまい。
 ズズッと音を立てながら蕎麦をすすり、時たま汁を口にする。

 さすがにそば一杯では腹は満たされなかったが、まだ仕事が残っているため長居はできない。
 残った汁を一気に飲み干して、立ち上がる。

「おばさん、ごちそうさま。お代はここに置いとくよ」
「あら、いつもありがとう。そうだ、良かったらこれ、持っていきなよ」

 袋に入った大量の天かすを、半ば強引に手渡される。

「色々と料理に使えるから、奥さん喜ぶよ」
「……悪いけど独身なんだよね、俺」
「だったら恋人にでも渡して、何か作ってもらいなよ。あんた、いい男だもの。いるんだろ、恋人くらい?」

 またもや胡蝶の顔が脳裏に浮かんだが、余計に惨めな気持ちになっただけだった。

「ほら、天つゆもつけてあげるから」

 それはありがたい。

 ――久しぶりに作るか、あれ。

 その日の夕方、さっそく家に帰ると、いそいそと台所の前に立つ。
 
 鍋に水と天つゆを入れて、沸騰したら薄く切った玉ねぎを入れる。
 ごはんも珍しくうまく炊けたし、卵も忘れずに買っておいた。

 玉ねぎに火が通ったら、鍋に溶き卵と天かすを加えて、弱火で少し煮る。
 それをどんぶりに入れた熱々のごはんの上にかければ、天かす丼――たぬき丼の完成だ。

 地域によっては、ごはんに天かすをのせて、その上から天ゆつをかけたもののことを指すらしいが、

「この味だよ、懐かしいなぁ」

 鶏や豚といった肉は入っていないものの、ごはんにまで味が染みてうまいし、それなりに腹にも溜まる。
 昔、妹がよく家族のために作ってくれた。

 
『お兄ちゃん、あたし、大きくなったら料理屋の女将さんになる。そしたら毎日かつ丼を食べさせてあげるからね』


 ふと、妹の声が聞こえた気がして、鼻の奥がツンとした。


『お兄ちゃん、あたし、遊女になんてなりたくない』
『あたしがいなくなったら、誰が弟たちのごはんを作るのよ?』


 貧乏子沢山。
 親が子どもを売るのはよくある話。

 仮にあのまま家に残ったところで、いずれ飢え死にするのは目に見えていた。
 それほどまでに困窮していた。
 
 混ざり者でなければとっくの昔に命を落としていただろう。

 
『親を恨むなよ。誰だって好きで貧乏やってるわけじゃないんだから』


 そう言ったのは誰だったか。
 けれど妹は怒っていた。

 両親は貧乏と戦おうともしなかった。
 はなから諦めて、ただ楽な手段を選んだだけだと。

 
『お前は器量良しだから、きっといいところに身請けされるさ』
『馬鹿ねぇ、お兄ちゃんは。世の中そんなに甘くないわよ』

 
 もっと他にもかける言葉があったはずなのに。
 いつものようにへらへら笑って、妹を見送った自分が憎くてたまらない。


『お兄ちゃん、嘘でもいいから、いつか迎えに来るって言ってよ』


 言葉にはできなかったが、心の中ではいつもそう思っていた。
 俺も頑張るから、お前も頑張れと。

 
『言わねぇ、俺なんかよりマシな男はごまんといるさ』
『……そうね、そうだといいけど』


 最後は笑って手を振る妹の姿が目に焼き付いて離れない。


『あたしがいなくても、ちゃんとご飯食べなよ』


 ちゃんと食べてる。
 だから心配するなと空になったお椀を見下ろして、手を合わせた。



「ごちそうさま」



 
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