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第二章 ふたりのゆくえ
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経国夫婦の朝食の残り物ではあったが、用意してくれた粥と味噌汁を食べ、剃刀をかりて井戸端で髭を剃り身体をぬぐうと、信十郎の全身の節々にたまった疲れがとれたようで、まったく生き返ったような心持ちであった。
貸してくれた、先代が隠居部屋として使っていたという離れ(その人がここで亡くなったと経国が教えてくれたのが余計ではあったが)も、普段からきちんと清掃してあったとみえて、きれいにかたづいていて、気持ちのいい部屋だった。縁側が南向きにあったし、さしこんでくるのどかな春の陽ざしが心を落ち着かせてくれた。
追っ手にみつかる心配もあって、一日その部屋でおゆいと過ごし、とりとめのないお喋りを、一方的にしつづけたのだった。
「越前の海には東尋坊という岸壁があってね、そこは細長くて奇妙な形の岩がたくさんならんだ、不思議な崖なんだ」
おゆいは信十郎の話に、興味があるのかないのか、無表情にこちらをみつめて聞いている。
「鉾島という所もあってね、海にこう、三角の、なんていっていいかな、そこも不思議な形の島なんだ」
おゆいは、こくりとうなずいた。
「弁慶の洗濯岩というのも面白いんだ。細長い岩が、こう横にならんでいてね、不思議なんだ」
おゆいはまた無表情でうなずいた。
ひょっとすると、越前の名所に興味がわかないのではなく、信十郎の不器用すぎる説明に、想像力がまったくかきたてられないのかもしれない。
「まあ、その、なんだ、福井に帰ったら、一度いっしょに見物に行こうな」
と誘うようにいうのには、おゆいは、にっとあの妙な笑顔を浮かべるのだった。
信十郎が、そういう名所に行ったのは、もう十年近く前のことだった。
近所の遊び仲間と連れ立って、親にはちょっとそこまでなどと云って出かけ、二日も帰らなかったものだから、帰宅してのち父から散々叱責を受けたあげく、十日ほども納屋に押し込められたという苦い思い出だった。
それは、若さゆえの無思慮でもあったし、大人にたいする反抗心でもあったが、今思い返せば馬鹿なことをしたと恥ずかしくもあり、また懐かしくもあった。
だが、あの景色はおゆいに見せてあげたい、という気持ちがつのっていた。おゆいといっしょに、あの奇観をみにいけたらと思うと、なんだかそわそわして楽しい気分になってくるのだった。
東尋坊の、信十郎が、不思議な、としか形容できない形状の岩たちと、その向こうにある、みつめると吸い込まれそうになる水平線が、脳裏に浮かんでいた。
同時に、彼の頭に、あのときいっしょに行った仲間の、大森一学の顔が浮かんだ。
二人の親は、ともに馬廻り役を務めていたので、幼いころからの付き合いだったし、同じ歳で、互いに次男の部屋住みということもあり、気心の通じあう、まるで兄弟のような間がらであった。
一学は、勉学ができたため、家老の杉村に見出され、若くして彼の用人として仕えていた。前途がひらけていたと云ってよかった。
それにくらべて、俺には剣術しかなかった、と信十郎は自嘲ぎみに笑った。
そのせいで、新選組に送りこまれ、間者のように、情報を藩に伝えていた。だが、平の隊士が入手できる情報などは、隊の機密などとはおよそ縁遠いのもので、いつからか藩のほうからも連絡がこなくなり、信十郎のほうからもあえてつなぎをいれることもなくなってしまった。
そして去年の秋口のころに、京の町なかで、ばったりと一学に再会した。
時節柄、福井藩は他藩との交渉ごとが多く、その任に当たっていた杉村家老に随身するかたちで、一学も京に出て来ていたのだった。
茶店でたがいの近況を報告し、彼からの報せで信十郎の母が病にかかっているという話を知った。
藩の内命での新選組入隊ではあったが、表向きは脱藩というかたちになっていたものだから、家族と連絡をとりあうのは極力ひかえていた。そのため、信十郎は病気のことを知らなかったのだが、一学が藩に帰ったら、もっと詳しい容態を知らせてくれるという。
そして、十数日たって、彼から書簡が届き、母はもう恢復しているから安心していい、と知らせてきた。それに加えて、信十郎を落胆させたのは、婚約者だった内藤家の美代が婿をとったと書かれていたことだった。そして、内藤家はご当主が病がちになっていて、はやく婿をとらなくては、家名の存続も危ぶまれるのだから、理解してやってほしい、などと慰めにも、諦めをうながすようにもとれる内容が記されていた。
信十郎は、すべてが虚しくなった。
美代に会ってみたいという気持ちが、急激にふくらんできた。
どうせ親どうしが決めた縁談で、相手の顔も見たことがなかったし、会ってなにをするとか、なにを話すという考えもなかったが、とにかくひとめ会ってみたいという気持ちがわきおこってきたのだった。
新選組自体に未練はなかった。
もともと藩命で入隊したわけだし、信十郎自身には、佐幕だとか尊攘だとかいう理念も思想もまったく薄かった。
当初は母の病を理由に一時帰国を願い出たのだが、却下された。
だったらいっそのこと脱走してしまえ、と思いはじめたのはそのころからだった。なにか、隊内が騒がしくなるような、もめごとでも起こればその隙に逃げ出せたのだが、そう都合よく事件が起こるはずもなく、そのまま年が明けてしまった。
そして、三番隊の土井という男から、脱走の誘いを受けた。
信十郎は、ふたつ返事で承諾したのだった。
貸してくれた、先代が隠居部屋として使っていたという離れ(その人がここで亡くなったと経国が教えてくれたのが余計ではあったが)も、普段からきちんと清掃してあったとみえて、きれいにかたづいていて、気持ちのいい部屋だった。縁側が南向きにあったし、さしこんでくるのどかな春の陽ざしが心を落ち着かせてくれた。
追っ手にみつかる心配もあって、一日その部屋でおゆいと過ごし、とりとめのないお喋りを、一方的にしつづけたのだった。
「越前の海には東尋坊という岸壁があってね、そこは細長くて奇妙な形の岩がたくさんならんだ、不思議な崖なんだ」
おゆいは信十郎の話に、興味があるのかないのか、無表情にこちらをみつめて聞いている。
「鉾島という所もあってね、海にこう、三角の、なんていっていいかな、そこも不思議な形の島なんだ」
おゆいは、こくりとうなずいた。
「弁慶の洗濯岩というのも面白いんだ。細長い岩が、こう横にならんでいてね、不思議なんだ」
おゆいはまた無表情でうなずいた。
ひょっとすると、越前の名所に興味がわかないのではなく、信十郎の不器用すぎる説明に、想像力がまったくかきたてられないのかもしれない。
「まあ、その、なんだ、福井に帰ったら、一度いっしょに見物に行こうな」
と誘うようにいうのには、おゆいは、にっとあの妙な笑顔を浮かべるのだった。
信十郎が、そういう名所に行ったのは、もう十年近く前のことだった。
近所の遊び仲間と連れ立って、親にはちょっとそこまでなどと云って出かけ、二日も帰らなかったものだから、帰宅してのち父から散々叱責を受けたあげく、十日ほども納屋に押し込められたという苦い思い出だった。
それは、若さゆえの無思慮でもあったし、大人にたいする反抗心でもあったが、今思い返せば馬鹿なことをしたと恥ずかしくもあり、また懐かしくもあった。
だが、あの景色はおゆいに見せてあげたい、という気持ちがつのっていた。おゆいといっしょに、あの奇観をみにいけたらと思うと、なんだかそわそわして楽しい気分になってくるのだった。
東尋坊の、信十郎が、不思議な、としか形容できない形状の岩たちと、その向こうにある、みつめると吸い込まれそうになる水平線が、脳裏に浮かんでいた。
同時に、彼の頭に、あのときいっしょに行った仲間の、大森一学の顔が浮かんだ。
二人の親は、ともに馬廻り役を務めていたので、幼いころからの付き合いだったし、同じ歳で、互いに次男の部屋住みということもあり、気心の通じあう、まるで兄弟のような間がらであった。
一学は、勉学ができたため、家老の杉村に見出され、若くして彼の用人として仕えていた。前途がひらけていたと云ってよかった。
それにくらべて、俺には剣術しかなかった、と信十郎は自嘲ぎみに笑った。
そのせいで、新選組に送りこまれ、間者のように、情報を藩に伝えていた。だが、平の隊士が入手できる情報などは、隊の機密などとはおよそ縁遠いのもので、いつからか藩のほうからも連絡がこなくなり、信十郎のほうからもあえてつなぎをいれることもなくなってしまった。
そして去年の秋口のころに、京の町なかで、ばったりと一学に再会した。
時節柄、福井藩は他藩との交渉ごとが多く、その任に当たっていた杉村家老に随身するかたちで、一学も京に出て来ていたのだった。
茶店でたがいの近況を報告し、彼からの報せで信十郎の母が病にかかっているという話を知った。
藩の内命での新選組入隊ではあったが、表向きは脱藩というかたちになっていたものだから、家族と連絡をとりあうのは極力ひかえていた。そのため、信十郎は病気のことを知らなかったのだが、一学が藩に帰ったら、もっと詳しい容態を知らせてくれるという。
そして、十数日たって、彼から書簡が届き、母はもう恢復しているから安心していい、と知らせてきた。それに加えて、信十郎を落胆させたのは、婚約者だった内藤家の美代が婿をとったと書かれていたことだった。そして、内藤家はご当主が病がちになっていて、はやく婿をとらなくては、家名の存続も危ぶまれるのだから、理解してやってほしい、などと慰めにも、諦めをうながすようにもとれる内容が記されていた。
信十郎は、すべてが虚しくなった。
美代に会ってみたいという気持ちが、急激にふくらんできた。
どうせ親どうしが決めた縁談で、相手の顔も見たことがなかったし、会ってなにをするとか、なにを話すという考えもなかったが、とにかくひとめ会ってみたいという気持ちがわきおこってきたのだった。
新選組自体に未練はなかった。
もともと藩命で入隊したわけだし、信十郎自身には、佐幕だとか尊攘だとかいう理念も思想もまったく薄かった。
当初は母の病を理由に一時帰国を願い出たのだが、却下された。
だったらいっそのこと脱走してしまえ、と思いはじめたのはそのころからだった。なにか、隊内が騒がしくなるような、もめごとでも起こればその隙に逃げ出せたのだが、そう都合よく事件が起こるはずもなく、そのまま年が明けてしまった。
そして、三番隊の土井という男から、脱走の誘いを受けた。
信十郎は、ふたつ返事で承諾したのだった。
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