湖水のかなた

優木悠

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第二章 ふたりのゆくえ

二の十

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 信十郎は、正眼に構えつつも、肩で息をしていた。
 そろそろ限界が近いようだ。
 彼らの次の攻撃をなんとかしなければ、一連の攻撃が終わったあとに、信十郎は地に這っているだろう。
 信十郎は、左に、左に、脚を動かす。
 坂井は、位置を変えずに、身体をまわして、穂先を信十郎に向け続ける。
 その後ろでは正木が信十郎の反対の方向へと、すべるようにして、移動していく。つまり、坂井を中心に、信十郎と正木が円を描くように動いていた。
 信十郎は、はっとした。
 いつの間にか、御堂の姿が消えている。
 いや消えたわけではなかった、坂井、正木、御堂の三人が、一直線に並んだのだった。
 巨漢の坂井の向こうにいる、ふたりの動きがまったく予想できない。
 信十郎は、焦った。
 その瞬間をみすましたように、坂井の槍が突きだされた。同時に、彼の頭上を飛び越えて、正木が上空から襲いかかった。
 信十郎は直感した。横に動いて槍を交わせば、御堂の手裏剣が飛んでくるだろう。
 信十郎は、槍の穂先を、刀で上からたたき落とした。直後に、右にちょっと身体を動かす。そこへ目がけて、上空から正木の小太刀が振りおろされた。だが、信十郎は、左へ身体をよじって、それをかわす。かわしつつ、刀を振り上げた。飛びおりてきた正木の充分体重がのった身体に、刃が食いこんだ。信十郎は、刀を振りきる。正木が身体を回転させながら地に落ちる。坂井は、槍を引いて、鎌の後ろの刃で信十郎を斬ろうとした。だが、信十郎はよけず、槍に身をよせると、そのをつかんだ。坂井は、予想もしていなかったその動きにぎょっとして、あわてて槍をひこうとする。ひこうとするのにあわせて、信十郎は押した。坂井の陰から、御堂があらわれ、手裏剣を投げようと、振りかぶった。瞬間、信十郎は、つかんだ槍の柄を、横に振った。坂井は、重心を崩して、横によろめく。その背に、手裏剣が突きたった。
 御堂が、あっ、と叫んだ。
 信十郎は、坂井のふところに飛びこんで、その首を斬った。血煙が視界をふさぐ。そのまま、信十郎は坂井の身体を押して、御堂にぶつけた。ふたりは折り重なって、倒れ込む。
 倒れた坂井の胸に、信十郎は刀を突きさした。切っ先は坂井の背中を突き抜け、御堂の胸をつらぬいた。
 かっ、とうめくように血を吐いて、御堂は絶命した。
「おじちゃんっ」
 おゆいが叫んだ。今までの彼女からは、まったく想像できないほどの大きな声で。
 つづいて、どたどたと床を踏み鳴らす音が近づいてきて、
「おじちゃんっ」
 彼女は、もう一度叫んで、縁側から飛びあがるようにして、歩み寄った信十郎の胸にしがみついた。
 信十郎はその小さな身体を抱きしめた。強く、おゆいの身体が折れてしまうほど、力いっぱいだきしめた。
「おゆい。こわくなかったか」
「うん」
「そうか、強い子だな」
「うん」
 ふたりとも、泣きながら喋っているように、声が涙で震えていた。
 たった数刻はなれただけなのに、なぜこんなに再会がうれしいのだろう。抱き合っても抱き合っても、とめどもなくわいてくる心地よさに、信十郎は満たされるのだった。
「まったく、研いでやったそうそうに、こんなにしやがって」
 気がつくと、経国が縁側からおりて来て、何気ない調子で、坂井の胸につきたっている刀を抜いた。
「待ってろ、すぐに、手入れしてやるからな」
「すみません」信十郎は、心底から感謝した。「でも、すぐに出立します。昨日の藤次という男が、きっとどこかで見張っていただろうし、すぐにまた追手がくるかもしれない」
「血のりを落とすくらいの時間はあるはずだろ」
 怒ったように云って、経国は作業小屋へと入っていった。
 彼を見送ると、今度は、縁側に立って抱き合うふたりを見ていたみちに顔を向けた。
「前言をすぐにひるがえして申し訳ないのですが、おゆいはやっぱり連れていきます」
 みちは、じっと見ていた。だが、最初に会ったときの心の病におかされていた顔とは、少し違っているようだった。
「そうね」みちは納得したように、しかし、寂しそうに云った。「それがほんとうなのね」
 刀の手入れの間に、みちは、おゆいの旅支度をととのえてくれ、三度笠に子供用の草鞋やそのかえや、数本の手ぬぐいまでも用意してくれ、それらを風呂敷につつんだのを、信十郎は背負った。
 手入れの終わった刀をかえして、門のところまでついてきた経国が、信十郎に云った。
「まったく、あわただしい出立だな」
「いや、またいつ敵が襲ってくるかわからないし、これ以上、あなたたちに迷惑はかけられない」
 それから信十郎は、藤堂平助という男が検分にくるはずだ、と教えた。
「信用できる人だから、俺たちのことや、ここで起きたことは、すべて、ありのままに話しても大丈夫です。きっと、彼は悪いようにはしないから」
「そうか」経国はすこし悲しげにうなずくのだった。
 信十郎は礼を云うと、おゆいの手をとって歩きだした。
 しだいに暮色が濃くなっていくなかを、信十郎とおゆいは旅立っていく。
 おゆいは、なにか心残りでもあるように、後ろをふりかえりふりかえり歩く。
 信十郎も、曲がり角でちょっとふりかえると、門の前にたって、経国夫婦が肩を抱きあうようにして立って、見送ってくれていた。
 夕日に照らされた夫婦から、やわらかな影がのびていた。
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