32 / 62
第四章 湖上にて
四の二
しおりを挟む
翌朝、吉田親子は朝食をすませると、あわただしく旅支度を整え、小浜へ向けて旅立とうとしていた。
「九里半街道というところは、途中熊川というところしか宿場がありませんでな。ここから五里ほどもありますので、子供の脚ですと、早く出立しませんと、日が暮れてしまうわけでして。いやはや、なんとも」
「父上、お喋りは昨日散々しましたでしょう。早く出立しましょう」
息子の三太郎が云うのへ、頭をかきながら吉田氏は信十郎に頭をさげ、三太郎はお世話になりましたと律義に挨拶をして、親子は旅籠をあとにしたのだった。
信十郎たちは、彼らをそとまで見送りはしなかったのだが、二階の部屋の障子を細く開けて、街道を遠ざかっていくふたりの後ろ姿をながめていた。
この宿は、東が琵琶湖に面していて、西の窓からは街道がよく見えた。親子のように旅立っていくものや、品物を荷車に乗せて運ぶ人足、天秤棒をかついで走る棒手振りなどが、まだ陽が昇ったばかりの冴えた空気のなかを忙しそうに行ったり来たりしている。
父親がなにか息子へ云うのへ、息子のほうがぴしりとした感じで云いかえし、父親は笠をゆらして笑声を放ちながら、喧騒のなかを歩いていくのであった。
――あれでは、どちらが親か子か、わからんな。
ほほ笑んで、家並の陰へ消えいていく親子をみていると、その後を、ひとりの町人が、なにかふたりをつけるように、歩いていくのが見えた。
多くの旅人や土地のものたちが行きかうなかで、その男は少し異様にみえた。男は、親子が曲がった九里半街道につづく角までくると立ちどまり、歩いてきたほうをふりかえると、誰かに合図を送るように、こくりとうなずくのだった。
その合図のさきを信十郎が見やると、数人の町人ふうの男たちが額をつきあわせるようにして話をしていた。
信十郎は、少し窓から身体を引っ込めた。細く開けた障子の陰で、向こうからは見えていないはずだが、なぜか、反射的に隠れてしまったのだった。
――新選組の追っ手かもしれない。
さっきの、吉田親子のあとをつけていた男は、そうすると藤次の手下ということになる。
親子はふたりとも笠をかぶっていたし、ひょっとすると、彼らを信十郎とお結に見間違えたのだろうか。
追っ手らしき数人の男たちは、しばらくすると、話がまとまったようで、四方へ散っていった。
吉田親子をつけていた男はもう見当たらなかったが、ふたりについて行ったのに違いない。
――これは、好機かもしれない。
と信十郎は思った。
吉田親子を勝手に囮に使ってしまうような、うしろめたさがあったが、藤次たち探索方が間違いに気づくのは時間の問題だろう。
その前に、船を使って琵琶湖を渡れば、彼らの目をくらますことができるかもしれない。
「お結」信十郎は、後ろで暇そうに座っているお結に突然云った。「すぐに支度をしなさい。ここを出よう」
ばたばたと支度をして、いざ出発しよう、という段になって、とつぜんお結が厠に行きたいと云いだした。
信十郎は、彼女を厠に連れていったのだが、入ったまま、なかなかでてこない。長時間、船に乗ると教えておいたので、ひょっとすると、不安になっているのかもしれなかった。
やっと出てきたお結の腕をひいて帳場へむかい、握り飯を頼んでおいたはずだが、と女中にたずねると、
「あらやだ、そうでしたかね、朝は忙しいもので、すみませんね、今すぐつくりますね」
などとまったく、悪びれるふうもなく調理場へむかっていった。
これはどうも、一本船が遅れそうだ、と信十郎はやきもきしながら待つしかなかった。
そうして握り飯ができてくるのを待っているあいだ、台所脇の小部屋でお結は出された茶を飲みながら、丁稚の少年が手代たちに叱責されているのを、悲しそうにながめていた。
まったくお前はのろまだな。そんなとこに突っ立っているんじゃない。庭の掃除が終わったら、厠の掃除だ、何度云えばわかるんだ。少年は、勝手口で皆からかわるがわるそう怒られていたのだが、云われるたびに、はいはい、と落ち込む気色もみせず元気よく返事をするのだった。
お結は、おそらく少年に、かつての自分の姿を重ねて同情しているに違いない。が、信十郎は、彼女にかける言葉がみつからなかった。言葉がみつからないまま、
「そんなにお茶ばかり飲んで、船でおしっこがしたくなっても、しらないぞ」
とたしなめた。
だが、お結は、少年に夢中で、信十郎の言葉を聞いているのかいないのか、またお茶をひとくちすするのだった。
宿からは裏口を抜け出すようにでて、湊ぞいの道を、周囲に目をくばりながら慎重に船着き場までむかった。ほんの一町ばかりの距離を歩くのに、信十郎はたいそう気づかれしたのだった。
やっとのことで繋留されている丸子船に乗ると、舵の調子が悪いのなんのと出発がさらに四半刻も遅れるしまつで――。
信十郎は、船端に座って、人生とはかくも意のままにならざるものか、と嘆息するしかなかった。いつ、藤次たちが現れて、乗客をあらためられるか、気が気ではなかった。
客は、信十郎とお結のほかに五、六人いて、長浜までちょっと用足しにいくようなようすの老夫婦や、旅姿の町人の男女が数人、行商人の男がひとり。とりたてて警戒しなくてはならないような――例えば藤次の手下のような者はいなかった。
船頭はまだ、艫のほうで舵をかたかたと動かして調子を確かめているし、いつになったら出発するのか、気がせいてしまい、ふと我にかえると貧乏ゆすりなぞをしている自分に気がつくのだった。
「九里半街道というところは、途中熊川というところしか宿場がありませんでな。ここから五里ほどもありますので、子供の脚ですと、早く出立しませんと、日が暮れてしまうわけでして。いやはや、なんとも」
「父上、お喋りは昨日散々しましたでしょう。早く出立しましょう」
息子の三太郎が云うのへ、頭をかきながら吉田氏は信十郎に頭をさげ、三太郎はお世話になりましたと律義に挨拶をして、親子は旅籠をあとにしたのだった。
信十郎たちは、彼らをそとまで見送りはしなかったのだが、二階の部屋の障子を細く開けて、街道を遠ざかっていくふたりの後ろ姿をながめていた。
この宿は、東が琵琶湖に面していて、西の窓からは街道がよく見えた。親子のように旅立っていくものや、品物を荷車に乗せて運ぶ人足、天秤棒をかついで走る棒手振りなどが、まだ陽が昇ったばかりの冴えた空気のなかを忙しそうに行ったり来たりしている。
父親がなにか息子へ云うのへ、息子のほうがぴしりとした感じで云いかえし、父親は笠をゆらして笑声を放ちながら、喧騒のなかを歩いていくのであった。
――あれでは、どちらが親か子か、わからんな。
ほほ笑んで、家並の陰へ消えいていく親子をみていると、その後を、ひとりの町人が、なにかふたりをつけるように、歩いていくのが見えた。
多くの旅人や土地のものたちが行きかうなかで、その男は少し異様にみえた。男は、親子が曲がった九里半街道につづく角までくると立ちどまり、歩いてきたほうをふりかえると、誰かに合図を送るように、こくりとうなずくのだった。
その合図のさきを信十郎が見やると、数人の町人ふうの男たちが額をつきあわせるようにして話をしていた。
信十郎は、少し窓から身体を引っ込めた。細く開けた障子の陰で、向こうからは見えていないはずだが、なぜか、反射的に隠れてしまったのだった。
――新選組の追っ手かもしれない。
さっきの、吉田親子のあとをつけていた男は、そうすると藤次の手下ということになる。
親子はふたりとも笠をかぶっていたし、ひょっとすると、彼らを信十郎とお結に見間違えたのだろうか。
追っ手らしき数人の男たちは、しばらくすると、話がまとまったようで、四方へ散っていった。
吉田親子をつけていた男はもう見当たらなかったが、ふたりについて行ったのに違いない。
――これは、好機かもしれない。
と信十郎は思った。
吉田親子を勝手に囮に使ってしまうような、うしろめたさがあったが、藤次たち探索方が間違いに気づくのは時間の問題だろう。
その前に、船を使って琵琶湖を渡れば、彼らの目をくらますことができるかもしれない。
「お結」信十郎は、後ろで暇そうに座っているお結に突然云った。「すぐに支度をしなさい。ここを出よう」
ばたばたと支度をして、いざ出発しよう、という段になって、とつぜんお結が厠に行きたいと云いだした。
信十郎は、彼女を厠に連れていったのだが、入ったまま、なかなかでてこない。長時間、船に乗ると教えておいたので、ひょっとすると、不安になっているのかもしれなかった。
やっと出てきたお結の腕をひいて帳場へむかい、握り飯を頼んでおいたはずだが、と女中にたずねると、
「あらやだ、そうでしたかね、朝は忙しいもので、すみませんね、今すぐつくりますね」
などとまったく、悪びれるふうもなく調理場へむかっていった。
これはどうも、一本船が遅れそうだ、と信十郎はやきもきしながら待つしかなかった。
そうして握り飯ができてくるのを待っているあいだ、台所脇の小部屋でお結は出された茶を飲みながら、丁稚の少年が手代たちに叱責されているのを、悲しそうにながめていた。
まったくお前はのろまだな。そんなとこに突っ立っているんじゃない。庭の掃除が終わったら、厠の掃除だ、何度云えばわかるんだ。少年は、勝手口で皆からかわるがわるそう怒られていたのだが、云われるたびに、はいはい、と落ち込む気色もみせず元気よく返事をするのだった。
お結は、おそらく少年に、かつての自分の姿を重ねて同情しているに違いない。が、信十郎は、彼女にかける言葉がみつからなかった。言葉がみつからないまま、
「そんなにお茶ばかり飲んで、船でおしっこがしたくなっても、しらないぞ」
とたしなめた。
だが、お結は、少年に夢中で、信十郎の言葉を聞いているのかいないのか、またお茶をひとくちすするのだった。
宿からは裏口を抜け出すようにでて、湊ぞいの道を、周囲に目をくばりながら慎重に船着き場までむかった。ほんの一町ばかりの距離を歩くのに、信十郎はたいそう気づかれしたのだった。
やっとのことで繋留されている丸子船に乗ると、舵の調子が悪いのなんのと出発がさらに四半刻も遅れるしまつで――。
信十郎は、船端に座って、人生とはかくも意のままにならざるものか、と嘆息するしかなかった。いつ、藤次たちが現れて、乗客をあらためられるか、気が気ではなかった。
客は、信十郎とお結のほかに五、六人いて、長浜までちょっと用足しにいくようなようすの老夫婦や、旅姿の町人の男女が数人、行商人の男がひとり。とりたてて警戒しなくてはならないような――例えば藤次の手下のような者はいなかった。
船頭はまだ、艫のほうで舵をかたかたと動かして調子を確かめているし、いつになったら出発するのか、気がせいてしまい、ふと我にかえると貧乏ゆすりなぞをしている自分に気がつくのだった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
石榴(ざくろ)の月~愛され求められ奪われて~
めぐみ
歴史・時代
お民は江戸は町外れ徳平店(とくべいだな)に夫源治と二人暮らし。
源治はお民より年下で、お民は再婚である。前の亭主との間には一人息子がいたが、川に落ちて夭折してしまった。その後、どれだけ望んでも、子どもは授からなかった。
長屋暮らしは慎ましいものだが、お民は夫に愛されて、女としても満ち足りた日々を過ごしている。
そんなある日、徳平店が近々、取り壊されるという話が持ちあがる。徳平店の土地をもっているのは大身旗本の石澤嘉門(いしざわかもん)だ。その嘉門、実はお民をふとしたことから見初め、お民を期間限定の側室として差し出すなら、長屋取り壊しの話も考え直しても良いという。
明らかにお民を手に入れんがための策略、しかし、お民は長屋に住む皆のことを考えて、殿様の取引に応じるのだった。
〝行くな!〟と懸命に止める夫に哀しく微笑み、〝約束の1年が過ぎたから、きっとお前さんの元に帰ってくるよ〟と残して―。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
花嫁
一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
花嫁御寮 ―江戸の妻たちの陰影― :【第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞】
naomikoryo
歴史・時代
名家に嫁いだ若き妻が、夫の失踪をきっかけに、江戸の奥向きに潜む権力、謀略、女たちの思惑に巻き込まれてゆく――。
舞台は江戸中期。表には見えぬ女の戦(いくさ)が、美しく、そして静かに燃え広がる。
結城澪は、武家の「御寮人様」として嫁いだ先で、愛と誇りのはざまで揺れることになる。
失踪した夫・宗真が追っていたのは、幕府中枢を揺るがす不正金の記録。
やがて、志を同じくする同心・坂東伊織、かつて宗真の婚約者だった篠原志乃らとの交錯の中で、澪は“妻”から“女”へと目覚めてゆく。
男たちの義、女たちの誇り、名家のしがらみの中で、澪が最後に選んだのは――“名を捨てて生きること”。
これは、名もなき光の中で、真実を守り抜いたひと組の夫婦の物語。
静謐な筆致で描く、江戸奥向きの愛と覚悟の長編時代小説。
全20話、読み終えた先に見えるのは、声高でない確かな「生」の姿。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる