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第十章 蝙蝠小町、ひた走る
十の六
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北町番所からの帰り、小源太は首をひねりひねり歩いていた。
勢いで北町奉行の依頼を断ってしまったが、ちょっと失敗だったかもしれない、という気がしていた。
先日正雪が、
――待っていればいずれ、知らせがある。それに従うといい。
そう言っていた。
その知らせというのが、町奉行の呼び出しだったのではないか。だが、正雪が丸橋を討つ命令に従えと言うのもおかしな話だから、やはり、小源太の考えすぎしかもしれない。
しかし、と小源太は思う。
これ以上、ただ知らせを待つだけ、と言うのはもう耐えられない。何かしていないと、また気が滅入って沙弥に叱り飛ばされそうだ。そう思うと小源太の体がうずうずとして、いても立ってもいられない気持ちになってきた。体の中でうごめくうずうずの虫に突き動かされて、小源太は走り始めた。
目指すのは張孔堂である。
何らかの、兄の行方の手がかりがつかめる可能性があるのは、張孔堂しか思いつかない。
そうして、張孔堂についてみれば、いつも開いていた門が閉じられていて、訪いをつげても門番が顔を出す様子もない。
以前来た時も、ずいぶん人けが去って、水のように無味無臭の空気に包まれていたが、今ではもう虚無と言っていいほど、不気味な静寂が張孔堂の敷地を包んでいる。
小源太は口をあけて門を見あげた。
さて、こうなれば、塀を乗り越えて忍び込もうか。
そう思い、どこか忍び込むのに適当な場所はなかろうかと、辺りを見回していると、
「これは奇遇。あんたさんも張孔堂の様子が気になって身に来たくちかい」
振り返ると、そこに見知らぬ職人が立っている。
しかし、向こうは小源太を知っているようである。年のころは三十くらいの、月代の青青とした精悍な男である。言葉の使い方も奇妙だし、いったい何者であろうか。
小源太は怪訝な顔つきで男をなめるように観察した。
「そう警戒しないでくれ。わしだ、佐山三郎四郎だよ」
あ、っと小源太は手のひらを拳の尻で打った。
張孔堂で指物づくりの職人の修行をしていたあの佐山であった。
自分のことを気づいてくれたのがうれしいのか、職人姿を見せるのが照れ臭いのか、佐山は笑って首筋をごしごしなでた。
「今は指物職人の徒弟として働いている。もう佐山三郎四郎ではなく、指物師三郎さ」
「佐山さん、いえ、三郎さん、お久しぶりです。その格好もお似合いですよ」
「よしておくんなせえ。照れるじゃあねえですかい」
「三郎さんも張孔堂にご用があって?」
「いやあ、そういうわけじゃないんだ。箪笥を依頼主に届けたついでに、懐かしくなって、ちょっと様子を見に来ただけなんだが、誰もいないようだな」
武家の身分をすてて間がないせいだろう、佐山あらため指物師三郎の言葉づかいはまだ町人言葉になじんでいないようだ。
「塀にそって、中の様子をうかがっておった……、いや、くるっと一周見てきたんだがね、もぬけの殻ってもんだったぜい」
その珍妙な喋り方に吹き出しそうになるのをこらえて、小源太はうなずいた。
「じつは、私の兄が張孔堂の人達に囚われていて、居所を探しているのです。とにかくここで聞き込みをしようと思ってきたのですが」
「なに、兄上が。ううむ」
と三郎は腕を組んで考えた。何かがひっかかるのか、過去の記憶をたぐっている様子であった。
「兄上かはわからねえが、どこかで誰かを捕らえたとかなんとか、小耳にはさんだような気がするな。うん、間違いねえ。ひと月くらい前になるが、ここで俺が暇の挨拶をしに知り合いをまわっている時に、通りすがりの男達が話しているのを聞いたんだ。ただ、俺も知り合いと話している最中だったからね、詳しくはわからねえ」
「そうですか」
小源太が落胆した時であった。
門がわずかに開いた。
小源太と三郎が振り向くと、のぞいていた目がさっと内側に隠れた。
跳ねるように小源太は走った。その勢いで門を押し開いた。
門に跳ね飛ばされて、男が転がった。
小源太がきっとにらむと、尻もちをついた男は茫然とこちらを見ている。
勢いで北町奉行の依頼を断ってしまったが、ちょっと失敗だったかもしれない、という気がしていた。
先日正雪が、
――待っていればいずれ、知らせがある。それに従うといい。
そう言っていた。
その知らせというのが、町奉行の呼び出しだったのではないか。だが、正雪が丸橋を討つ命令に従えと言うのもおかしな話だから、やはり、小源太の考えすぎしかもしれない。
しかし、と小源太は思う。
これ以上、ただ知らせを待つだけ、と言うのはもう耐えられない。何かしていないと、また気が滅入って沙弥に叱り飛ばされそうだ。そう思うと小源太の体がうずうずとして、いても立ってもいられない気持ちになってきた。体の中でうごめくうずうずの虫に突き動かされて、小源太は走り始めた。
目指すのは張孔堂である。
何らかの、兄の行方の手がかりがつかめる可能性があるのは、張孔堂しか思いつかない。
そうして、張孔堂についてみれば、いつも開いていた門が閉じられていて、訪いをつげても門番が顔を出す様子もない。
以前来た時も、ずいぶん人けが去って、水のように無味無臭の空気に包まれていたが、今ではもう虚無と言っていいほど、不気味な静寂が張孔堂の敷地を包んでいる。
小源太は口をあけて門を見あげた。
さて、こうなれば、塀を乗り越えて忍び込もうか。
そう思い、どこか忍び込むのに適当な場所はなかろうかと、辺りを見回していると、
「これは奇遇。あんたさんも張孔堂の様子が気になって身に来たくちかい」
振り返ると、そこに見知らぬ職人が立っている。
しかし、向こうは小源太を知っているようである。年のころは三十くらいの、月代の青青とした精悍な男である。言葉の使い方も奇妙だし、いったい何者であろうか。
小源太は怪訝な顔つきで男をなめるように観察した。
「そう警戒しないでくれ。わしだ、佐山三郎四郎だよ」
あ、っと小源太は手のひらを拳の尻で打った。
張孔堂で指物づくりの職人の修行をしていたあの佐山であった。
自分のことを気づいてくれたのがうれしいのか、職人姿を見せるのが照れ臭いのか、佐山は笑って首筋をごしごしなでた。
「今は指物職人の徒弟として働いている。もう佐山三郎四郎ではなく、指物師三郎さ」
「佐山さん、いえ、三郎さん、お久しぶりです。その格好もお似合いですよ」
「よしておくんなせえ。照れるじゃあねえですかい」
「三郎さんも張孔堂にご用があって?」
「いやあ、そういうわけじゃないんだ。箪笥を依頼主に届けたついでに、懐かしくなって、ちょっと様子を見に来ただけなんだが、誰もいないようだな」
武家の身分をすてて間がないせいだろう、佐山あらため指物師三郎の言葉づかいはまだ町人言葉になじんでいないようだ。
「塀にそって、中の様子をうかがっておった……、いや、くるっと一周見てきたんだがね、もぬけの殻ってもんだったぜい」
その珍妙な喋り方に吹き出しそうになるのをこらえて、小源太はうなずいた。
「じつは、私の兄が張孔堂の人達に囚われていて、居所を探しているのです。とにかくここで聞き込みをしようと思ってきたのですが」
「なに、兄上が。ううむ」
と三郎は腕を組んで考えた。何かがひっかかるのか、過去の記憶をたぐっている様子であった。
「兄上かはわからねえが、どこかで誰かを捕らえたとかなんとか、小耳にはさんだような気がするな。うん、間違いねえ。ひと月くらい前になるが、ここで俺が暇の挨拶をしに知り合いをまわっている時に、通りすがりの男達が話しているのを聞いたんだ。ただ、俺も知り合いと話している最中だったからね、詳しくはわからねえ」
「そうですか」
小源太が落胆した時であった。
門がわずかに開いた。
小源太と三郎が振り向くと、のぞいていた目がさっと内側に隠れた。
跳ねるように小源太は走った。その勢いで門を押し開いた。
門に跳ね飛ばされて、男が転がった。
小源太がきっとにらむと、尻もちをついた男は茫然とこちらを見ている。
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