日日晴朗 ―異性装娘お助け日記―

優木悠

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第十章 蝙蝠小町、ひた走る

十の五

 部屋の奥に端座する男は、老年で痩身の男であったが、圧迫してくるような貫禄を総身から放ち、小源太は誰に命じられるでもなく、敷居際で自然に頭をさげた。香流は部屋の隅に寄って座った。
「かまわぬ、入れ」
 重重しく男が言い、小源太は膝行して部屋に入った。そうしてもう一度頭を下げた。

「北町奉行、石谷左近将監いしがや さこんのしょうげんである」
 町奉行がいち牢人を執務部屋にあげるなど、異例なことであろう。町奉行ほどの地位にある者が身分の低い物に声をかける時は、庭先に座らせて、縁側で体面するくらいが、常の応対ではなかろうか。
「栗栖小源太と申します」
「うむ、噂は常常聞及ききおよんでおる」石谷はそう言うと、人が好さそうに笑った。

 おもてをあげよと言われ、小源太は体を起こした。
 石谷はつい先日町奉行に正式に就任したばかりであったが、すでに町奉行としての威厳を備えていた。前職が先手頭で、先手組という警備や警護、場合によっては盗賊を捕まえる者達を統率していたからだろうか。

「突然の呼び出し、申し訳ない」
「滅相もないことでございます」
「ほほう、これほど華奢な女子おなごだとは思わなんだ。剣術をたしなんでおると聞いておったから、もっと岩のような女を想像していた」
 小源太はほほ笑んでちょっと頭を下げて答えにかえた。

「貴公は剣の達人だそうだな」石谷が続けた。
「達人というほどではございません」
「ふむ、謙遜じゃの。今日呼び出したのは、他でもない、その剣の腕前を貸してほしい」
「は」
「丸橋忠弥を存じておるの」
「はい」
「討ってもらいたい」
 石谷の鋭い言葉に、小源太は射すくめられたように言葉を失った。

「不服かの?」石谷には小源太の反応が意外だったようだ。
「なぜ、丸橋殿を討たねばならないのでしょう」小源太は訊いた。
「わきまえよ」と脇に座っている香流が叱責した。

「かまわぬ。答えよう」と石谷が説明を始めた。「丸橋、および丸橋の属する張孔堂が反乱をたくらんでおる。討てとは言ったが、本当は捕らえたい。捕らえて計画の全貌を訊き出さねばならぬからの」
「なぜ、わたくしめにそのような大役をお命じになるのでしょう」
「奉行所にも手練れはおるが、槍の達人の丸橋と対するとなると、負けぬまでも手傷をおうことになろう。貴公なら、丸橋と手合わせをしたこともあるだろう。きゃつの腕前を知っておる者のほうが、勝つ見込みも高い」

 なんのことはない、自分の配下を失うのが嫌なだけではないか、と小源太は思った。小源太が斬られて倒れても、牢人がひとり死ぬだけのことだ、北町奉行所としては痛くもなければかゆくもない。

「おことわりいたします」
 小源太が言った。断然たる言いかたであった。
「お前に断る権限はない。命じられた通りに働けばよい」香流がまた口を挟んだ。
「香流、おぬしはちと黙っておれ」
「はあ」と香流は口を閉じて納得いかぬ顔だ。
「理由を聞かせてはくれぬか」
「私には、丸橋殿と闘う理由がないからです。丸橋殿を越えたく思い、修行をつんでは参りましたが、確然とした理由がなければ、刀を合わせることなどできません」

「公儀の、いや、日本のためである。反乱が勃発すれば、日本全土が震撼するのだ」
「なにとぞ、町奉行所のどなたかにお命じください」
「決意は固そうじゃの」
「はい」
 石谷は腕を組んで、吐息をはいた。
「無理強いはできぬか」

「無礼者め」と香流がののしった。「今までさんざん目をかけてきてやったというに、ここぞという時に意にそむく。まったくもってけしからん女だ」
「そう言うな、香流」
「やはり、このような無頼の女に頼るのはよろしくありません。我ら町奉行所だけで始末をつけるべきかと存じます」
「うむ、何か策を練るかのう」
「いくら丸橋が槍の名手だとて、我らが一丸となれば決して負けるものではございませぬ」
「香流の心意気を買おう」

「おぬしはもうさがれ」と香流は汚い物を払うように、手を振った。

 憤然とした気持ちを腹にためて、小源太は番所を辞した。
 身分の低い者は唯唯諾諾と自分たちに従うのが当然だ、と思い込んでいる権力者に接すると、唾棄したい気分になる。

 しかし、町奉行所は張孔堂が反乱を起こすことを、もうすでにずいぶん詳細に知っている様子だった。張孔堂に潜り込ませている間者からの情報であろうが、由井正雪はおそらく、ここまで計画が露見しているのを承知で、それでも決起しようとしているのだ。負けるとわかっているのに、どうして無理な戦を挑むのか。そうせねばならない理由は、先日正雪の口から直接きいたが、それでも、小源太には正雪の心の深奥が察しかねた。

燕雀えんじゃくいずくんぞ鴻鵠こうこくの志を知らんや、か」
 小源太はつぶやいた。
 しょせん、凡愚な自分には、正雪のような傑人の心裡など理解できないのかもしれない、と思うのだった。
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