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第十章 蝙蝠小町、ひた走る
十の四
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長屋の、唯一日当たりの良い入り口の敷居に腰をおろして、小源太は爪を切っていた。
鋏で切った爪がぽろりと地面に落ちる。
それが面白いのであろうか、近所のお種という六つの娘が路地に立って興味深げにじっとこちらを見つめてい、小源太が顔を向けて目が合うと、にっと笑うのだった。
手の爪も切り終えて、足の爪に取りかかる。
――私もお種と同じ歳の頃は、爪を切るのが苦手だったな。
と思う。小源太に切らせるとあまりにあぶなっかしいものだから、兄が切ってくれていた。冬至郎は爪を切るのがうまく、切ってもらうと痛くもなく、そのくすぐったさにけたけたと笑って体を動かすものだから、よく叱られた。
「大の女が爪を切りながら、にやにやしてるとは、あきれますな」
やってきた大家の久右衛門が開口一番嫌味をくれた。
小源太は、昔の思い出にひたって顔がほころんでいたことに、言われて気づいた。
「お種、ぼやっと突っ立っていないで、おっかさんの手伝いをしないと、また叱られるぞ」
大家に言われてお種は照れ臭そうに笑って走って行った。
「そんなとこに座ると、敷居が痛むじゃありませんか」
嫌味の矛先がまた小源太に戻ってきた。まったく口のうるさい男である。小源太はかまわずに足の爪を切った。
「ああ、肉まで切ってしまいそうですよ。まったく不器用な」
「もう終わったよ」
「昼ひなかに働きもせずに爪切りとは、いいご身分ですな」
「そう言われたとて、しょうがないではないか。今は動くに動けんのだ」
「またいなくなってしまったお兄様を捜しに行かれたらいかがです」
「その兄の行方を知る者が、向こうからくるはずなんだ」小源太は爪の切り残しがないか指を伸ばして確認しながら答えた。
「誰がそんなことを言ったのです」
「由井先生さ」
「またあの山師ですか。信用しないほうがよろしいと、申しあげたはずです」
「由井先生は信用できるよ」
そうして、小源太は袴についた爪のかすを払いながら、立ちあがった。
「で、大家どの、今日はいかがした。今月分の店賃ならもう支払ったはずだが」
「べつに用などございませんよ。ただ、皆が元気にしているか見回っているだけです。これも大家の勤めですな」
「ご苦労なことだな」
いいご身分なのはあなたのほうではないか、と言いかけて小源太は言葉を飲みくだした。
「これ、おひろ、お種、どぶ板の上で飛び跳ねるんじゃない」
久右衛門は怒鳴りながら、路地の奥に小走りに去って行った。
小源太はあくびを噛み殺しながら、家に戻って、大の字に寝転んだ。怠惰なものである。久右衛門に見つかったらまた嫌味を言われそうだ。
由井正雪は、いずれ誰かが知らせを持ってくるようなことを言っていたが、あれからもう四日経つ。いつ誰がきてもいいように、家を空けることができず、ただ家でごろごろしながら待つだけというのは、じつに退屈なものであった。
すると、誰かが入り口の前に立った気配がした。
また大家であろう、と首を向けると、戸が開けられ、御用聞き見習いの卯之助が立っていた。
「栗栖の旦那、香流の旦那に呼んで来るように言われ、お迎えに参りましたぜ」
小源太は体を起こして、
「香流さんが?はて、何の用かな」
「それは直接訊いてくだせえ。あっしは何も聞かされておりませんので」
さようかと小源太は立ちあがり、蝙蝠羽織をひっかけて家を出た。
卯之助について、神田川を渡り神田の町並みを抜けて、城の堀を渡って常盤橋御門をくぐり、たどり着いた先は、
「ここは、北町の御番所(町奉行所)ではないか」
小源太は何か悪いことをしたわけでもないのに、どぎまぎしながら門内に入った。番所の玄関には香流隼人が立っていて、小源太を招き入れた。
「あのう、香流さん、どうしてここに呼ばれたのでしょう。わけを聞かせてください」
廊下を歩きながら小源太が訊いても香流は答えず、番所の奥の部屋の前で足をとめた。
そうして、膝をつき、小源太にもそうするように目顔で命じた。
「栗栖小源太を連れて参りました」香流が中に声をかけると、
「うむ、入れ」渋い声が返って来たのだった。
鋏で切った爪がぽろりと地面に落ちる。
それが面白いのであろうか、近所のお種という六つの娘が路地に立って興味深げにじっとこちらを見つめてい、小源太が顔を向けて目が合うと、にっと笑うのだった。
手の爪も切り終えて、足の爪に取りかかる。
――私もお種と同じ歳の頃は、爪を切るのが苦手だったな。
と思う。小源太に切らせるとあまりにあぶなっかしいものだから、兄が切ってくれていた。冬至郎は爪を切るのがうまく、切ってもらうと痛くもなく、そのくすぐったさにけたけたと笑って体を動かすものだから、よく叱られた。
「大の女が爪を切りながら、にやにやしてるとは、あきれますな」
やってきた大家の久右衛門が開口一番嫌味をくれた。
小源太は、昔の思い出にひたって顔がほころんでいたことに、言われて気づいた。
「お種、ぼやっと突っ立っていないで、おっかさんの手伝いをしないと、また叱られるぞ」
大家に言われてお種は照れ臭そうに笑って走って行った。
「そんなとこに座ると、敷居が痛むじゃありませんか」
嫌味の矛先がまた小源太に戻ってきた。まったく口のうるさい男である。小源太はかまわずに足の爪を切った。
「ああ、肉まで切ってしまいそうですよ。まったく不器用な」
「もう終わったよ」
「昼ひなかに働きもせずに爪切りとは、いいご身分ですな」
「そう言われたとて、しょうがないではないか。今は動くに動けんのだ」
「またいなくなってしまったお兄様を捜しに行かれたらいかがです」
「その兄の行方を知る者が、向こうからくるはずなんだ」小源太は爪の切り残しがないか指を伸ばして確認しながら答えた。
「誰がそんなことを言ったのです」
「由井先生さ」
「またあの山師ですか。信用しないほうがよろしいと、申しあげたはずです」
「由井先生は信用できるよ」
そうして、小源太は袴についた爪のかすを払いながら、立ちあがった。
「で、大家どの、今日はいかがした。今月分の店賃ならもう支払ったはずだが」
「べつに用などございませんよ。ただ、皆が元気にしているか見回っているだけです。これも大家の勤めですな」
「ご苦労なことだな」
いいご身分なのはあなたのほうではないか、と言いかけて小源太は言葉を飲みくだした。
「これ、おひろ、お種、どぶ板の上で飛び跳ねるんじゃない」
久右衛門は怒鳴りながら、路地の奥に小走りに去って行った。
小源太はあくびを噛み殺しながら、家に戻って、大の字に寝転んだ。怠惰なものである。久右衛門に見つかったらまた嫌味を言われそうだ。
由井正雪は、いずれ誰かが知らせを持ってくるようなことを言っていたが、あれからもう四日経つ。いつ誰がきてもいいように、家を空けることができず、ただ家でごろごろしながら待つだけというのは、じつに退屈なものであった。
すると、誰かが入り口の前に立った気配がした。
また大家であろう、と首を向けると、戸が開けられ、御用聞き見習いの卯之助が立っていた。
「栗栖の旦那、香流の旦那に呼んで来るように言われ、お迎えに参りましたぜ」
小源太は体を起こして、
「香流さんが?はて、何の用かな」
「それは直接訊いてくだせえ。あっしは何も聞かされておりませんので」
さようかと小源太は立ちあがり、蝙蝠羽織をひっかけて家を出た。
卯之助について、神田川を渡り神田の町並みを抜けて、城の堀を渡って常盤橋御門をくぐり、たどり着いた先は、
「ここは、北町の御番所(町奉行所)ではないか」
小源太は何か悪いことをしたわけでもないのに、どぎまぎしながら門内に入った。番所の玄関には香流隼人が立っていて、小源太を招き入れた。
「あのう、香流さん、どうしてここに呼ばれたのでしょう。わけを聞かせてください」
廊下を歩きながら小源太が訊いても香流は答えず、番所の奥の部屋の前で足をとめた。
そうして、膝をつき、小源太にもそうするように目顔で命じた。
「栗栖小源太を連れて参りました」香流が中に声をかけると、
「うむ、入れ」渋い声が返って来たのだった。
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