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第十章 蝙蝠小町、ひた走る
十の三
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由井正雪の屋敷の庭では、そこかしこで火がたかれ、男達が何かを燃やしている。
正雪もひとつの焚き火の前にたって、もうもうと立ちのぼる煙の向こうで手に持った物を火に放り入れていた。
くべている物が何かと見れば本か帳面のような物であった。
「やあ、来たな」
正雪は近づく小源太に、いたずらが見つかった少年のような笑みを浮かべて、顔を向けた。
「人に見られたくない物を始末しようとしたら、ひと仕事になってしまったよ」
振り向いた正雪はそこにいた牢人に、手に持っていた帳面をわたし、あとの始末を頼むと、小源太を手招いた。
ふたりは、煙を天高くまで昇らせる焚き火を見ながら、縁側に腰かけた。
兄が連れ去られたり、苦労の末見つけ出した隠し財宝を脇から掠め取られて、悔しい気持ちもあるのだが、不思議と正雪を憎む気持ちは湧いてこなかった。
財宝をいつ引きあげたのかも知らないし、何に使うのかも、小源太にとってどうでもいいことだった。
小源太の手元に残った二十両ばかりの金は、全部狛蔵の娘の家に投げ込んでおいた。数千両が二十両に減ってしまったが、あの性悪そうな女を憐れむ気持ちは毛頭なかった。二十両も小源太が使ってしまおうかという気もわずかに心にきざしたが、狛蔵との約束を反故にし、自分だけが得をして愉快になれるほどのあつかましさも意地汚さも、小源太にはなかった。
「張孔堂のなかに人がいなかったであろう」正雪が話しはじめた。「公儀に手向かう意志のない者達を暇をやって放逐した。燃やしているのは、そういう者達の名籍だ。皆、不本意な様子でしぶしぶ出て行ったが、これで、張孔堂が今後どうなろうと、彼らが巻き添えを食うことはない」
「何をなさろうとしていらっしゃるのですか?」
「反乱さ」
「本当にそんなことをなさるんですか。反乱などという無謀な所業が成功するなどと本気で考えておいでなのですか」
正雪は目を細め、口をかすかにゆがめた。苦い笑いであった。
「私は公儀への反逆などは反対だ」正雪は淡淡と話した。「だが公儀への反逆は人の希望なのだ。人が生きて行くうえで欠かせない目標なのだ。遠くは大坂で、近くは島原で、牢人達が公儀に反旗を翻した。それは彼らの夢を断った徳川に対する叫びだったのだ」
「しかし、勝ち目のない勝負を挑んだとて無意味に命が失われるだけです」
「皆、公儀の藩取り潰し政策によって人生を狂わされた。主家が存続していれば、温かな家庭で幸せな一生を送れた者たちだ。縁談が破談になった娘がいる、苦労がたたり夫が病になった妻がいる、困窮して涙を流しながら娘を遊郭に売った父がいる。そのような者たちを目の前にしながら手をこまねいていられる道理があろうか」
その声はわずかに震えているようだ。
「地を這いずり泥水をすする者たちが私を旗頭に望むなら、私を欲するなら、私は起たねばならぬ。私自身の心情などどうでもよい。私は皆の理想と決意を受けて起たねばならぬのだ。けっして勝つ見込みなどなくとも、権力という強大な化け物に無慈悲に踏みにじられる者達の叫びを、日本全土にとどろかせねばならぬ。とどろかせて人人の心を揺さぶるのだ」
小源太が見る正雪の横顔は、奇妙なほど穏やかであった。白い肌の細面の顔にうっすらと笑みを浮かべ、目は焚き火で帳面を燃やす配下達を見ている。が、その目はもっと遠いところを見ているようだ。水平線だとか地平線だとかの先にある虹のような、手を伸ばしてもとどかない目標を見ている。それが単なる頭の中に描いた理想にすぎず、現実には存在しない目標だととわかっていても、正雪は歩いていこうとしている。
「兄はどうなりますか」
「まだ、解放はできぬ。しかし、待っていればいずれ、知らせがある。それに従うといい」
と正雪は預言めいたことを言った。
「貴公の兄は監禁してはいるが、丁重にあつかっている。元気にしているから案ずるな」
小源太は立ち上がると、正雪に頭をさげた。
正雪は小源太を見ようとはせず、じっと前を見つめている。
小源太は立ち去りながら、正雪とはもう会えないのだとわかった。そうわかってみれば、先ほど金井半兵衛が今生の別れだと言ったことも、冗談ではなかったと気づいた。由井正雪も、金井半兵衛も、そしておそらく丸橋忠弥も、皆が己の理想のために、命を捨てようとしているのだ。
みな好人物ばかりなのに、なぜこのような絶望的な方途を目指すのだろう。
かつて兄の冬至郎が言った。張孔堂のような集団は、丸橋や金井が善人だったとしても、善人すら悪事に巻き込んでしまうほど、制御の利かなくなるものなのだ、と。それが今、小源太には体感として理解できた。牢人救済を題目に掲げ、皆が理想を目指して邁進していたのに、それぞれの理想がもつれてからみあって、もうどうしようもないほど肥大化し、破滅へと突き進んでいるのだ。
張孔堂の門を出て振り返ると、ふたりの門番が、じっと虚空を見つめていた。その目に宿る光が正雪と同じだと、小源太には思えた。
正雪もひとつの焚き火の前にたって、もうもうと立ちのぼる煙の向こうで手に持った物を火に放り入れていた。
くべている物が何かと見れば本か帳面のような物であった。
「やあ、来たな」
正雪は近づく小源太に、いたずらが見つかった少年のような笑みを浮かべて、顔を向けた。
「人に見られたくない物を始末しようとしたら、ひと仕事になってしまったよ」
振り向いた正雪はそこにいた牢人に、手に持っていた帳面をわたし、あとの始末を頼むと、小源太を手招いた。
ふたりは、煙を天高くまで昇らせる焚き火を見ながら、縁側に腰かけた。
兄が連れ去られたり、苦労の末見つけ出した隠し財宝を脇から掠め取られて、悔しい気持ちもあるのだが、不思議と正雪を憎む気持ちは湧いてこなかった。
財宝をいつ引きあげたのかも知らないし、何に使うのかも、小源太にとってどうでもいいことだった。
小源太の手元に残った二十両ばかりの金は、全部狛蔵の娘の家に投げ込んでおいた。数千両が二十両に減ってしまったが、あの性悪そうな女を憐れむ気持ちは毛頭なかった。二十両も小源太が使ってしまおうかという気もわずかに心にきざしたが、狛蔵との約束を反故にし、自分だけが得をして愉快になれるほどのあつかましさも意地汚さも、小源太にはなかった。
「張孔堂のなかに人がいなかったであろう」正雪が話しはじめた。「公儀に手向かう意志のない者達を暇をやって放逐した。燃やしているのは、そういう者達の名籍だ。皆、不本意な様子でしぶしぶ出て行ったが、これで、張孔堂が今後どうなろうと、彼らが巻き添えを食うことはない」
「何をなさろうとしていらっしゃるのですか?」
「反乱さ」
「本当にそんなことをなさるんですか。反乱などという無謀な所業が成功するなどと本気で考えておいでなのですか」
正雪は目を細め、口をかすかにゆがめた。苦い笑いであった。
「私は公儀への反逆などは反対だ」正雪は淡淡と話した。「だが公儀への反逆は人の希望なのだ。人が生きて行くうえで欠かせない目標なのだ。遠くは大坂で、近くは島原で、牢人達が公儀に反旗を翻した。それは彼らの夢を断った徳川に対する叫びだったのだ」
「しかし、勝ち目のない勝負を挑んだとて無意味に命が失われるだけです」
「皆、公儀の藩取り潰し政策によって人生を狂わされた。主家が存続していれば、温かな家庭で幸せな一生を送れた者たちだ。縁談が破談になった娘がいる、苦労がたたり夫が病になった妻がいる、困窮して涙を流しながら娘を遊郭に売った父がいる。そのような者たちを目の前にしながら手をこまねいていられる道理があろうか」
その声はわずかに震えているようだ。
「地を這いずり泥水をすする者たちが私を旗頭に望むなら、私を欲するなら、私は起たねばならぬ。私自身の心情などどうでもよい。私は皆の理想と決意を受けて起たねばならぬのだ。けっして勝つ見込みなどなくとも、権力という強大な化け物に無慈悲に踏みにじられる者達の叫びを、日本全土にとどろかせねばならぬ。とどろかせて人人の心を揺さぶるのだ」
小源太が見る正雪の横顔は、奇妙なほど穏やかであった。白い肌の細面の顔にうっすらと笑みを浮かべ、目は焚き火で帳面を燃やす配下達を見ている。が、その目はもっと遠いところを見ているようだ。水平線だとか地平線だとかの先にある虹のような、手を伸ばしてもとどかない目標を見ている。それが単なる頭の中に描いた理想にすぎず、現実には存在しない目標だととわかっていても、正雪は歩いていこうとしている。
「兄はどうなりますか」
「まだ、解放はできぬ。しかし、待っていればいずれ、知らせがある。それに従うといい」
と正雪は預言めいたことを言った。
「貴公の兄は監禁してはいるが、丁重にあつかっている。元気にしているから案ずるな」
小源太は立ち上がると、正雪に頭をさげた。
正雪は小源太を見ようとはせず、じっと前を見つめている。
小源太は立ち去りながら、正雪とはもう会えないのだとわかった。そうわかってみれば、先ほど金井半兵衛が今生の別れだと言ったことも、冗談ではなかったと気づいた。由井正雪も、金井半兵衛も、そしておそらく丸橋忠弥も、皆が己の理想のために、命を捨てようとしているのだ。
みな好人物ばかりなのに、なぜこのような絶望的な方途を目指すのだろう。
かつて兄の冬至郎が言った。張孔堂のような集団は、丸橋や金井が善人だったとしても、善人すら悪事に巻き込んでしまうほど、制御の利かなくなるものなのだ、と。それが今、小源太には体感として理解できた。牢人救済を題目に掲げ、皆が理想を目指して邁進していたのに、それぞれの理想がもつれてからみあって、もうどうしようもないほど肥大化し、破滅へと突き進んでいるのだ。
張孔堂の門を出て振り返ると、ふたりの門番が、じっと虚空を見つめていた。その目に宿る光が正雪と同じだと、小源太には思えた。
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